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第20話

 渚の言った「私の領域ではない」を中野は考えていた。術士の領域ではないと解釈できる。しかし、渚のできることではないとも取れるのだ。中野には後者に聞こえていた。だから、怒りを覚えていた。  術士の使命とは化け物と人間を助けることだと中野の考えでもある。それはある人に影響されていたものでもある。中野はしばらく黙っていた。思考を遊ばせているように、とりとめない考えごとを布団の中でした。中野の行動は渚に監視されている。どうすれば、と考えているとき、なにかの叫び声が聞こえてきた。  布団をはねのけるように飛び起きた中野は手近にある上着を着て、部屋を飛び出した。冬に向かう季節には軽装であることは確かだ。玄関に向かう中野に「どこに行く?」と渚のこわばった声が聞こえてきた。 「あっ、叫び声のところ、渚さんも聞いたはずです」 「あれはね、あんたのやることじゃない。関わり合いを持つと面倒なことになる」 「そんな言い方はやめてください。助けを求めている」 「それはあんたが人間を助けたいからか」 「違う。苦しんでいるなら人間も化け物も関係がない」  とっさに中野は言っていた。渚は目を見開いていた。そうして、口元を歪ませていた。苦笑に近いものだ。 「バカだねえ」 「えっ」 「行くのはやめな、あれは手負いの獣の声さ」  獣と中野は問いかける前に、助けてくれる人はいないかと枯れた声が聞こえる。女の声に似ている。年老いた声である。中野は扉を開けようとする。 「ここは私の屋敷だよ。あんたが自由にできると思うかい?」  中野は玄関の扉を開けるように力一杯に引く。しかし、渚の意思なのか、中野の思うように扉が開くことはなかった。声が遠くなる。そうして、何かが立ち去る気配がして、中野は舌打ちした。 「すべてのものが救えるなんて考えるな。己の限界を知れば、自ずと行動が決まる」  渚の言葉に中野はいらだちを覚えた。それは諦めろと言われているからだ。さっきの声を思い出す。そう、俺ならば助けに行ける。  しかし、扉はピクリとも動かなかった。中野には、それが悔しかった。 「寝なさい。明日に話すから」  中野はその言葉を信じたわけではないが、中野が疲れたのは確かだ。自分が無力であると言われたような気持ちになった。無力で保護されているということを忘れていると自分でも気がついたのだ。 「中野」  自分の部屋に戻ると山代が声をかける。 「一緒に寝てやる」 「やめろ。おまえと◯ックスなんていやだ」 「違う。添い寝だ」 「余計にタチが悪い」  そんなことをしたいのは中野が弱っていることを見抜いているからだ。そんな気持ちで山代といたら、雰囲気に流されるのはわかっていた。 「中野。なぜか、わからない」  中野と呼ばれた。扉が開き、山代の手が伸びて中野の頬をなでる。それは壊れ物を触るような、まるで子供を触るような、優しさに満ちていた。中野はしばらく黙っていた。 「じゃあ、寝る」  逃げるようにベッドに潜り込んでいた。山代から手を逃げるようだと中野は考えていた。まるで、心がスケルトンになったような気が中野はした。すべての人が中野の心をのぞけてしまうような。そんなわけではない。 「中野、おやすみ」  山代の声が聞こえていた。それは不思議と優しい声だと中野は思った。そんなことをより、怒りで頭がおかしくなりそうだった。  あまり気持ちよく眠れなかった中野の顔に朝日が当たる。まぶしい光が部屋の隅々まで光が届く。畳は日が当てるせいか、暖かい。中野は頭の中では、外に出たいと考えていた。中野はしばらく黙っていたが、手でくしゃくしゃに髪の毛を乱す。ため息が自然と出る。  緩慢な動き、だらだらとした覇気のない動きで着替えていく。すっかり馴染んだ制服に黒い詰襟が華奢な首に飾られる。そうして黒一色になった中野は部屋を出ると、同じ制服の山代を見た。人形みたいな顔はふっと笑うことがないから、冷たい印象を与える。まるで爬虫類のような冷たさだ。 「おはよう」  中野はそう言っていた。山代は機械的におはようという。そんな朝の風景である。渚のいる台所に向かうと朝食はできていた。顔を洗い、歯を磨き、食卓に着く。 「山代、あれは聞こえていたか?」 「ああ、叫び声か」 「あれはなんだと思う?」  納豆を混ぜながら渚が聞いてくる。もちろん、二人に聞いているのはわかっている。中野は考えてみた。 「異界の住人?」 「違うね」 「じゃあ、化け物?」 「それが合っているね」  渚が手を止めた。そのまま醤油を入れる。中野も同様のことをする。慣れているはずが、化け物って異界の住人のことではないかと考えている中野がいた。 「それって、異界の住人では?」 「違うよ。山の主さ」 「じゃあ、異界の住人」 「異界とこちらを結ぶもの。でもね、もうアイツは山の主ではない」 「えっ」 「血で穢された」  中野は意味がわからないという顔をしていた。それがわかったのか、渚は口を開いた。 「交代のときのことを知っているかい。力が弱まった主を新たな候補に食べて交代する。それが山のしきたり」 「そうなんだ。野蛮だね」 「野蛮かい。人間のようにはいかないのは当たり前じゃないか。それが我々の住む世界なんだ」 「ごめん」 「アイツは、人間に見られてしかも、血を浴びた。穢れは山の主本来の力を奪い、外道に落ちるだけだね」 「外道って」  ああと渚は言った。渚は自分の言葉が過ぎたものだとは思っていないようである。まるで、なにごともない日常の会話だと言いたげである。異様な会話だとは気がついていないのか、気がつかないふりなのか。 「弱まった力を里の者の血を分けてもらっているらしい。だから貧血が起こる。穢れに穢れたアイツは、もう山の主ではない。ただ、化け物さ。存在意義もない」 「そんな言い方はないだろう。救える方法は」 「食べられる。それだけだよ、それで山の一部になる。安らかになる」  渚の言葉を聞いていた中野は、それは事実かもしれないと考えていた。しかし、中野には納得はできなかった。 「渚はなにもしないのか。俺は、助けたい。化け物も異界に行けば正気を戻るかもしれない」 「異界に行けばなんて、余計にかわいそうさ。アイツは異界で生きていけるかわからない。力がないものは食われる。それはあちらも同じこと」  中野はなにかを考えていた。怒りではダメだと自分に言い聞かせ、なんとか渚を納得させたい。 「あんたが優しい子だから、利用価値があるかもね」  いやなことを言う渚は納豆の糸を切りながら、味噌汁に手をつけようとしている。中野は混乱した。これは日常の延長ではないかと。なにかのボタンのかけ違いでこんな話をしているのではないか。なぜ渚がそんなことを言うのか、中野は理解出来なかった。 「あんたは未熟。山代さえコントロールはできるかい? 誰かを助けるなんて百年早い」  一番指摘されたくなかったことである。中野は渚をにらみ、そうして乱暴にご飯を口にかきこむ。そんな中野を渚はなにも感じないのか、ため息もつかない。 「化け物も人間も救われるなんて滅多にないよ」  そう言われて中野はなにも言い返せなかった。確かにそうだと言われればそうだ。中野が考えている以上に、誰かが救われたなんてなかなかわからない。感謝されることが少ない仕事である。それはたしかだ。 「わかっている。俺のやることは危険だって。でも、かわいそうじゃないか」 「かわいそう」 「今のままでは」 「それを感じるだけでいいんだ。それ以上のことはなにも出来ない。非情だが、山の掟だからね。あんたは救えないよ」  なにか言いそうになる中野がいた。これは平行線のままで、自分も渚も譲れないものがあるのかもしれない。初めて中野はそう感じた。中野は意外なことに落ち着いて食事をした。  学校への道を歩く。疲れた体には坂道もキツく感じていた。中野はなにかしたいと考えていた。  誰もいない道路に山代と中野がいる。 「恐ろしいものはきっと、人間かも」  いきなり山代が言った。山代の言葉に中野は理解出来なかった。  冷たい風が強く吹いて、中野の首に巻いたマフラーを揺らす。体を縮める中野に対して山代は平然としていた。 「寒くないのか」 「ああ、この程度ならどうってことはない」 「化け物だからか?」 「うん。多分」 「山代はいやか。俺がまた山の主に会いに行くこと」 「ダメだと思う」 「なんで」 「中野の血は俺のものだから」  あっとようやく中野は気がついた。助けることばかり考えて、中野が襲われることを考えていなかった。渚に反抗することばかり意識が集中していた証拠だ。 「俺も思春期なのかな」  まったくなにも考えていなかった自分を殴りたくなる中野がいた。 「中野はお人好しだ。そこを付け込まれる」 「そうかな、俺って薄情だと思うけど」 「なんで」  中野の脳裏になにか写りそうな気がした。しかし、それを掴むことは無理だった。喉に魚の骨が刺さっているような違和感が中野にはあった。 「わからない」 「じゃあ、思い過ごしだ」  そうかなと中野はつぶやいていた。そうかなと俺は薄情だよと、誰かが言ったような気がした。それは誰の声か中野は思い出せなかった。

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