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第22話
中野の心臓がドキドキと鳴っている音、それが中野は聞こえていた。液体のまま、小さな手を伸ばしてくる。ヒッと声にならない声で悲鳴をあげて逃げようとする中野は、首輪がジャラリと鳴る。
首が重い。うまく、バランスを取れないことに気がついた。なんとか、液体から逃げようとする。そうして、小さな手が中野に触れる。そうすると、中野の力が抜けた。やばいと中野は考えていた。
「あんた、なぜこんなことをする? 異界に行けばいいじゃないか。山を捨てて、自分が生きれば」
「バカだね。山は私だ。山を離れたところで、私は逃げない。なぜなら、私は山の主。私が去れば山の力は落ちて、ここが廃れる。そんな姿を見たくないだろう?」
「じゃあ、なんで生きたいんだ」
中野はヤケクソで言っていた。そんな中野を液体は笑っていた。なぜ、笑うのか中野は考えていた。時間稼ぎがバレたかと、冷や汗が出るような思いだった。
「おまえに関係ない」
「関係がある。俺の血を取るんだろう。俺の血を全部取るかもしれない」
「そうかもな。おまえがいい子にすれば悪いようにしない」
小さな手が中野の華奢な手首を掴む。中野はいやな予感がした。恐ろしさに歯がガチガチと上下に動き、鳴らす中野がいた。
「おまえ、なんだ。使えない」
「使えない? なんで」
「お前をエサに術士を連れて行くか」
訳がわからない中野は液体の行動を問いかけようとする。
「なんで、俺じゃだめなんだよ。俺は」
「お前の血ではダメだ。強すぎる」
強いってなんだよと言う前に、液体がその場から離れていく。ふざけるなと中野は叫んでいた。訳がわからないと再び言っていた。
「伊沢、いるんだろう? 早く出てこい」
「使えない奴」
「おまえ、人間じゃないな」
「あら、私は人間よ」
「じゃあ、なんで、力がある?」
「知りたいの」
座っている中野の顔をのぞく伊沢の気配がした。それとも遠くからだろうか。
「ねえ。術士なんでしょう。力を貸して」
なにを言っているのか、中野にはわからなかった。そうして、不思議そうな顔をしている中野に対して、伊沢はなにごともないのか、黙っている。
「私ね、助けられたの」
「誰に?」
「あの美しい牝鹿に」
「えっ」
「あの、液体になる前の山の主に」
「私、山にスケッチするのが趣味なの。それでたまに、SNSに載せていた。それで、知り合った男の人に会って友達になって、山を案内することになった」
「ん」
「で、襲われそうになったの。わかる。ヤラレそうになった。そこで、牝鹿が男を蹴飛ばした」
それで、黙っていた中野は嫌な予感がした。
「わかる? 最初からそいつは体目当てだったの。私は呆然とした。牝鹿はツノがないでしょう。で、舐めていた男が刃物を持って、雌鹿を襲いかかって来たの。死ぬでしょう。ああ、私も死ぬんだなと思った。
「でも、違った。雌鹿の襲っていた男が殺されたの。血を流した。でもね、そんなものでは穢れないの。あの牝鹿は。私の、私の」
「もういいよ」
中野は聞きたくなかった。悲しい気持ちになった。雌鹿が山の主ということがわかっていた。そうして、山の主は伊沢の血によって汚された。人間の血でも、同じ女性の血で穢されたのだろう。本人の意図はないだろう。助けたい気持ちはたしかにわかった。
「なんで、責めないのよ」
「だって、苦しんでいるから」
「バカだね。普通は、知るかよ、だよ。俺には関係がないって言えばいいのに」
「関係はあるよ。俺、見習いだけど、術士だから。そうやって異界の住人の案件は俺達の領域じゃないか」
「中野はバカだね」
「えっ」
「血を取る私を許さないで」
中野の目前にキラリと光るものが見えていた。そうして、腕を掴まれた。痛みで叫ぶ中野がいた。動けなかった。血を集めているということはわかった。
伊沢はなにも言わなかった。時間稼ぎをしたのか。それとも、中野の注意をそらすために話したのか。いきなりのことで中野は自分の叫ぶ声を聞いていた。
『おまえの血は大切なんだ。だってね、あの方の血を繋がっている』
誰の声がわからない。中野の脳裏に蘇った声が懐かしいと気がついた。なにかが来る。そう、なにかが向かってくる。
「なにをやっている?」
「えっ」
気がつけば、中野は伊沢の首を絞めていた。伊沢の首は折れていない。意識があるのか、こちらをにらみつけている。
中野がハッと我に返ると、手を離した。伊沢の体温がまだ手に残っている。そうして、自分の中に恐ろしいバケモノがここにいると気がついた。
いきなり、後ろから突撃された。背中がズキズキと痛い。棘が刺さったのだろう。そうして、自分は誰にやられたのか、中野はわかった。
「山の主」
「私の伊沢になにをする?」
「なにも」
「首を絞められた」と咳き込みながら伊沢は言った。
「なんてことを」
「気が変わった。おまえの血を一滴も残らず食べてやる」
「だめ。ゴホ。わたしは大丈夫」
混乱したまま、中野の首を捕まえたまま、液体は手首の血を、傷口をすすり始めていた。血が舐められている。傷みでヒリヒリする。なにが間違って、正しいのか、中野はわからない。ただ、こんなことをする山の主が哀れだと思った。
「やれやれ、見つけたと思ったら、小僧の血を飲んでいるのか」
低い声が聞こえていた。誰だと思っていると、そこには大柄の男がいた。
一気に明かりがついた。そこには倒れているものもいた。山代と中野がつぶやいた。
「おまえ、俺が山代かと言いたいのか。俺には名がないからとわかっているからか」
「知らない。なんで、俺に話しかける」
「もう、ダメだからさ」
渚のこわばった声が聞こえて来た。大柄の男の後ろには渚がいた。山代は倒れているが、生きているようだった。
「こいつか、俺に楯突こうとしたから、返り討ちにした。混乱していた。俺が山の主だと思っていたようだ」
「さあ、やめな。血を吸うのは。穢れた山の主は消えるだけ」
「壊さない。私は私。さあ、伊沢、こっちにおいで」
「動くな、今から狩をするんだ。生きたいだろう?
」
「私は、私は。大丈夫、行くよ。山の主」
「そうだ。いい子だ」
バカだなと言って、伊沢は倒れた。頭から血が流れている。一体、なにが起きているのか、中野にはわからない。ただ、男が伊沢を攻撃していたくらいはわかった。
「なにをやっているんだよ」
伊沢は里の者だぞと言う前に意識がチカチカと点滅し始めていた。中野は暗くなった視界で、倒れる。
「私の力だ。私の力だ。これさえあれば、おまえなんかに負けない」
かつての山の主はつぶやいた。液体の体は赤く変色している。中野は倒れたまま、意識を失っている。中野の顔は青白く、唇は震えている。そんな中野を渚がかけ寄る。そのまま、液体は男に向かう。
「さあ、始めよう」
「狩りの時間だ」
男がまず黒い球を投げつけていた。数十個の黒い球は爆発することもなく、浮遊している。液体の主人には痛みも与えない。そうして、液体になった山の主は山代と同じように、男の足を掴む。そうして、氷柱になって、突き刺そうとする。しかし、そんなことはわかっていたのか、一枚の蝶に変化した男は液体の中に入る。
「はっ、今の私になにもすることはできまい」
そのまま、蝶を飲み込もうする液体の主に、黒い球が、光り始めていた。電気を帯び、ビリビリと鳴る。そうして、電磁波が生まれ、重力を帯びる。球はボーリングの球の大きさになる。
黒い球が、引き寄せられ、一気に液体に向かった。
「?」
液体はそのまま受け止めていた。何度も、液体にぶつかる。ぶつかり、液体が飛んでいく。体積が小さくなる。普通の人間ならば潰されて、死んでいる。
「こんなことをしても無駄だ」
液体はあざ笑う。そうしている間にも、蝶を消化しようとする。
「はっ」
まさかおまえ、と叫んだ液体は叫んだ。早く、蝶を出さないと思ったのか、液体は蝶を吐き出そうとしていたが、その隙に球が浮遊してまた液体に突撃する。
「やめろ、やめろ」
ゆっくりとだが、確かに蝶の動きが早くなる。
液体の体にいっぱいの蝶が卵を産み付け、蛹になっていく。そうして、新たな蝶が生まれていた。
「やめろ、私を養分ではない。やめろ」
「似たようなものではないか。おまえは、里の者をこうしていた」
「私は、私は」
次第に液体のほとんどがなくなっておく。液体の体が蝶に吸われていく。そうして、気がつければ、黒い蝶だけが残っていた。
「うそ、うそよ」
それを見ていたものがいた。それは伊沢だった。伊沢の目から涙が出てきた。自分はなんのために、ここまでしたのかわからなかった。そうして、中野が、死にかけている。
「今のあんたなら、こいつを助けられる」
「えっ」
「普通の人間なら、死んでいるよ。首を切られたら」
「なっ、なんで、生きている」
「新たな主の候補か」
男が現れた。びくりと伊沢は肩を震わすのを見て、男が笑う。
「おじょさんのお腹の中には、山の主の子がいる」
「えっ」
「あんたが成人に、なったとき、あんたの子を行方不明になるだろう」
「なにを言っているの?」
「簡単なことさ。別の山に行くことになると思う。子を産んだら、あんたは死ぬ」
「やめて」
そういうものさ、と男が言った
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