22 / 33

第22話

 中野の心臓がドキドキと鳴っている音、それが中野は聞こえていた。液体のまま、小さな手を伸ばしてくる。ヒッと声にならない声で悲鳴をあげて逃げようとする中野は、首輪がジャラリと鳴る。  首が重い。うまく、バランスを取れないことに気がついた。なんとか、液体から逃げようとする。そうして、小さな手が中野に触れる。そうすると、中野の力が抜けた。やばいと中野は考えていた。 「あんた、なぜこんなことをする? 異界に行けばいいじゃないか。山を捨てて、自分が生きれば」 「バカだね。山は私だ。山を離れたところで、私は逃げない。なぜなら、私は山の主。私が去れば山の力は落ちて、ここが廃れる。そんな姿を見たくないだろう?」 「じゃあ、なんで生きたいんだ」  中野はヤケクソで言っていた。そんな中野を液体は笑っていた。なぜ、笑うのか中野は考えていた。時間稼ぎがバレたかと、冷や汗が出るような思いだった。 「おまえに関係ない」 「関係がある。俺の血を取るんだろう。俺の血を全部取るかもしれない」 「そうかもな。おまえがいい子にすれば悪いようにしない」  小さな手が中野の華奢な手首を掴む。中野はいやな予感がした。恐ろしさに歯がガチガチと上下に動き、鳴らす中野がいた。 「おまえ、なんだ。使えない」 「使えない? なんで」 「お前をエサに術士を連れて行くか」  訳がわからない中野は液体の行動を問いかけようとする。 「なんで、俺じゃだめなんだよ。俺は」 「お前の血ではダメだ。強すぎる」  強いってなんだよと言う前に、液体がその場から離れていく。ふざけるなと中野は叫んでいた。訳がわからないと再び言っていた。 「伊沢、いるんだろう? 早く出てこい」 「使えない奴」 「おまえ、人間じゃないな」 「あら、私は人間よ」 「じゃあ、なんで、力がある?」 「知りたいの」  座っている中野の顔をのぞく伊沢の気配がした。それとも遠くからだろうか。 「ねえ。術士なんでしょう。力を貸して」  なにを言っているのか、中野にはわからなかった。そうして、不思議そうな顔をしている中野に対して、伊沢はなにごともないのか、黙っている。 「私ね、助けられたの」 「誰に?」 「あの美しい牝鹿に」 「えっ」 「あの、液体になる前の山の主に」 「私、山にスケッチするのが趣味なの。それでたまに、SNSに載せていた。それで、知り合った男の人に会って友達になって、山を案内することになった」 「ん」 「で、襲われそうになったの。わかる。ヤラレそうになった。そこで、牝鹿が男を蹴飛ばした」  それで、黙っていた中野は嫌な予感がした。 「わかる? 最初からそいつは体目当てだったの。私は呆然とした。牝鹿はツノがないでしょう。で、舐めていた男が刃物を持って、雌鹿を襲いかかって来たの。死ぬでしょう。ああ、私も死ぬんだなと思った。 「でも、違った。雌鹿の襲っていた男が殺されたの。血を流した。でもね、そんなものでは穢れないの。あの牝鹿は。私の、私の」 「もういいよ」  中野は聞きたくなかった。悲しい気持ちになった。雌鹿が山の主ということがわかっていた。そうして、山の主は伊沢の血によって汚された。人間の血でも、同じ女性の血で穢されたのだろう。本人の意図はないだろう。助けたい気持ちはたしかにわかった。 「なんで、責めないのよ」 「だって、苦しんでいるから」 「バカだね。普通は、知るかよ、だよ。俺には関係がないって言えばいいのに」 「関係はあるよ。俺、見習いだけど、術士だから。そうやって異界の住人の案件は俺達の領域じゃないか」 「中野はバカだね」 「えっ」 「血を取る私を許さないで」  中野の目前にキラリと光るものが見えていた。そうして、腕を掴まれた。痛みで叫ぶ中野がいた。動けなかった。血を集めているということはわかった。  伊沢はなにも言わなかった。時間稼ぎをしたのか。それとも、中野の注意をそらすために話したのか。いきなりのことで中野は自分の叫ぶ声を聞いていた。 『おまえの血は大切なんだ。だってね、あの方の血を繋がっている』  誰の声がわからない。中野の脳裏に蘇った声が懐かしいと気がついた。なにかが来る。そう、なにかが向かってくる。 「なにをやっている?」 「えっ」  気がつけば、中野は伊沢の首を絞めていた。伊沢の首は折れていない。意識があるのか、こちらをにらみつけている。  中野がハッと我に返ると、手を離した。伊沢の体温がまだ手に残っている。そうして、自分の中に恐ろしいバケモノがここにいると気がついた。  いきなり、後ろから突撃された。背中がズキズキと痛い。棘が刺さったのだろう。そうして、自分は誰にやられたのか、中野はわかった。 「山の主」 「私の伊沢になにをする?」 「なにも」 「首を絞められた」と咳き込みながら伊沢は言った。 「なんてことを」 「気が変わった。おまえの血を一滴も残らず食べてやる」 「だめ。ゴホ。わたしは大丈夫」  混乱したまま、中野の首を捕まえたまま、液体は手首の血を、傷口をすすり始めていた。血が舐められている。傷みでヒリヒリする。なにが間違って、正しいのか、中野はわからない。ただ、こんなことをする山の主が哀れだと思った。 「やれやれ、見つけたと思ったら、小僧の血を飲んでいるのか」  低い声が聞こえていた。誰だと思っていると、そこには大柄の男がいた。  一気に明かりがついた。そこには倒れているものもいた。山代と中野がつぶやいた。 「おまえ、俺が山代かと言いたいのか。俺には名がないからとわかっているからか」 「知らない。なんで、俺に話しかける」 「もう、ダメだからさ」  渚のこわばった声が聞こえて来た。大柄の男の後ろには渚がいた。山代は倒れているが、生きているようだった。 「こいつか、俺に楯突こうとしたから、返り討ちにした。混乱していた。俺が山の主だと思っていたようだ」 「さあ、やめな。血を吸うのは。穢れた山の主は消えるだけ」 「壊さない。私は私。さあ、伊沢、こっちにおいで」 「動くな、今から狩をするんだ。生きたいだろう? 」 「私は、私は。大丈夫、行くよ。山の主」 「そうだ。いい子だ」  バカだなと言って、伊沢は倒れた。頭から血が流れている。一体、なにが起きているのか、中野にはわからない。ただ、男が伊沢を攻撃していたくらいはわかった。 「なにをやっているんだよ」  伊沢は里の者だぞと言う前に意識がチカチカと点滅し始めていた。中野は暗くなった視界で、倒れる。 「私の力だ。私の力だ。これさえあれば、おまえなんかに負けない」  かつての山の主はつぶやいた。液体の体は赤く変色している。中野は倒れたまま、意識を失っている。中野の顔は青白く、唇は震えている。そんな中野を渚がかけ寄る。そのまま、液体は男に向かう。 「さあ、始めよう」 「狩りの時間だ」  男がまず黒い球を投げつけていた。数十個の黒い球は爆発することもなく、浮遊している。液体の主人には痛みも与えない。そうして、液体になった山の主は山代と同じように、男の足を掴む。そうして、氷柱になって、突き刺そうとする。しかし、そんなことはわかっていたのか、一枚の蝶に変化した男は液体の中に入る。 「はっ、今の私になにもすることはできまい」  そのまま、蝶を飲み込もうする液体の主に、黒い球が、光り始めていた。電気を帯び、ビリビリと鳴る。そうして、電磁波が生まれ、重力を帯びる。球はボーリングの球の大きさになる。  黒い球が、引き寄せられ、一気に液体に向かった。 「?」  液体はそのまま受け止めていた。何度も、液体にぶつかる。ぶつかり、液体が飛んでいく。体積が小さくなる。普通の人間ならば潰されて、死んでいる。 「こんなことをしても無駄だ」  液体はあざ笑う。そうしている間にも、蝶を消化しようとする。 「はっ」  まさかおまえ、と叫んだ液体は叫んだ。早く、蝶を出さないと思ったのか、液体は蝶を吐き出そうとしていたが、その隙に球が浮遊してまた液体に突撃する。 「やめろ、やめろ」  ゆっくりとだが、確かに蝶の動きが早くなる。 液体の体にいっぱいの蝶が卵を産み付け、蛹になっていく。そうして、新たな蝶が生まれていた。 「やめろ、私を養分ではない。やめろ」 「似たようなものではないか。おまえは、里の者をこうしていた」 「私は、私は」  次第に液体のほとんどがなくなっておく。液体の体が蝶に吸われていく。そうして、気がつければ、黒い蝶だけが残っていた。 「うそ、うそよ」  それを見ていたものがいた。それは伊沢だった。伊沢の目から涙が出てきた。自分はなんのために、ここまでしたのかわからなかった。そうして、中野が、死にかけている。 「今のあんたなら、こいつを助けられる」 「えっ」 「普通の人間なら、死んでいるよ。首を切られたら」 「なっ、なんで、生きている」 「新たな主の候補か」  男が現れた。びくりと伊沢は肩を震わすのを見て、男が笑う。 「おじょさんのお腹の中には、山の主の子がいる」 「えっ」 「あんたが成人に、なったとき、あんたの子を行方不明になるだろう」 「なにを言っているの?」 「簡単なことさ。別の山に行くことになると思う。子を産んだら、あんたは死ぬ」 「やめて」  そういうものさ、と男が言った

ともだちにシェアしよう!