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第29話
彼は名前を名乗らなかった。だから、中野は自分の名前を名乗ることはしなかった。さっきのことで中野は動揺していたのかもしれない。相手が信用できるのか、わからない。なのに、こうして話している。
「飲み物は買ったばかりだから平気。眠り薬は入れていないよ。あっ、痺れ薬も」
彼のなりのジョークなのか、本気なのか、中野にはわからなかった。カップに口につける。甘い香りと優しい味がした。そんな中野を眺めている少年がいた。
「そういえば、なんで図書室に来たの?」
「あっ、知り合いを探して」
「ふーん」
それ以上、少年はなにも言わない。なにかを考えることがあるだろうか。そんなことを考えながら、少年の艶やかな髪を中野は見ていた。
「君は研究員か、なにか?」
中野の言葉に少年は笑ってうなずく。それがあまりにもきれいだった。人形とは違って、生きている美しさがあった。
高い鼻、赤い唇、化粧を施していない顔はシミひとつもない。目は大きく、まつげは長く、女の人みたいだと中野は思った。しかし、彼の口から出てくるのは、声変わりしただろう、低い声である。
「あっ、ごめん。聞いてほしくなかったか?」と中野はなぜか慌てていた。彼に魅了されているのか、と中野は考えて、その考えを振り払いたかった。だから、相手に集中する。
「聞いて平気。たいしたことではないから。君の友達がくるといいね」
「なんで、友達ってわかるんだ?」
「だって、そういうものだろう?」
「えっ」
「僕、いつも一人だから、君みたいな友達がいたらなと思ったんだよ」
「いや、俺はそんなに頭が良くないからつまらないと思う」
クスクスと笑っていた。少年がどうして笑ったのか、中野にはわからなかった。中野はしばらく黙っていた。
「君は素晴らしいよ」
えっとつぶやいた。
「僕のお父様が、人は素晴らしいと言っていた。だから、君も素晴らしい」
わけがわからないと中野が考えていた。そんな中野の顔を見て、わからないかと少年はつぶやいていた。
確かに人間は素晴らしいかもしれない。しかし、それだけではないと中野は考えていた。そんな中野は自分の世界に浸っていると気がついた。
「とりあえず、ありがとう」
中野は照れていた。まるで自分の気持ちを見すかされたような気持ちになったからだ。自分の価値がないと考えていた。不安定だった自分がいると中野は気がついた。
「実は自信をなくしてさ」
「スランプ?」
「まあ、そんなこと」
「じゃあ、コツコツがいいよ」
少年の目が細くなる。そうすると、笑っているような気がする。中野はこんなことを言う自分が意外だった。自分とは知らない人だかこそ、言える弱音かもしれない。
「コツコツと努力する以外、できることはない」
中野は困った顔をした。それが正論でもある。
「大丈夫。君ならできる」
そう言われた。励まされていると気がついた。少年は優しいんだなと思った。底なしの優しさというものかもしれない。
「ありがとう。そればかりしか言っていないな、俺。なんか言いたいことはない? 励ましてもらってばかりで悪いよ」
「じゃあ、また会おう。連絡先、教えてくれる?」
「えっ」
「SNSでいいよ。アカウントを教えて」
「まあ、いいけど」
SNSは同じものを登録していたので、そのアカウントを教えていた。それを見て、にっこりと笑う少年がいた。
「ともくんって呼ぶけど、いい?」
「えっ、なんていうの。恥ずかしい」
たまたまSNSの名前が「とも」にしたのだ。ネット上では「とも」でも本当の名前ではないから、中野には違和感がある。
「いいんだ。別に。僕のことは夜叉丸と呼んで」
「ゲーム、好きなの」
「まあね」
じゃあ、またねと夜叉丸が言う。ゲームのキャラでそんな名前があったかなと思って、スマホで検索する。ゲームの画像が検索されていた。なかなかイケメンなゲームキャラだ。しかし、さっきの夜叉丸の姿を見ると、不思議と違うと思う。もっときれいだったと思った。
「兄ちゃん。あー、ここにいた」
山代もいたようで、そこには竹光と篤志がいた。篤志は部屋から出てくると「どうした? なんか、ぼんやりしている。あっ、かわいい子とお話していたのか」と明るくいう。
「いや、あの、その」
「中野」
いきなり山代が中野に近づくと、匂いを嗅ぐように、鼻を寄せてくる。高い鼻が中野の首筋に当たる。冷たい鼻だった。
「やめろ、気色が悪い」
「中野。会ったのか」
「は?」
中野は会ったのか、誰にと考えていた。
「さっき、夜叉丸とかいうやつに」
「あいつに」
ふいに山代の顔が近づいてきた。きれいだなと思った。人形みたいだと思う。それは、長いまつ毛も高い鼻も同じなのに、印象が違う。人工的な匂いが山代からした。
ぼんやりとした表情の中野に、山代が唇を重ねていく。それを受け入れている自分がおかしいはずなのに、中野は混乱しなかった。
「なに、やっているんだ。山代。兄ちゃんから離れろ。身分の違いの恋なんて、まさか」
「いいじゃないか。恋とは美しいもの」
「おまえも、なんとかしろよ。竹光。あー!」
無理やり引き剥がそうとする篤志とキスをする山代がいた。
ぼんやりした顔を水で濡らしたタオル、それで顔を拭く。水は貴重らしいからだ。水を使いすぎないようにと書かれている紙が水道場に貼っている。中野は顔を拭いていた。
「兄ちゃんへのセクハラなんとか、しろよ」
後ろでは篤志が山代に抗議している。山代は中野を後ろから見ているようだ。背中から視線を感じるのは考えすぎのせいかと中野は考えていた。四人は移動することにした。
大浴槽がある部屋に着く。ひと気のない大浴槽の脱衣場はカゴが置いてあり、山代が脱いでいく。機械的な動きに近い。
「なんか、怒っていないか? あいつ」
篤志に問いかける。篤志は「うーん、まお、兄ちゃんがわるいかな」と言われた。
「なんで?」
「なんというの、香りってやつ? まるでマーキングするみたいに他のやつの香りをまとっている。それに、その匂いが兄ちゃんをぼんやりさせるからか」
「意味がわからない。匂いなんてしないぞ」
自分の脱いだ服をかいでいる中野がいた。中野には服からなにも匂いがしないと思った。
「うん。俺もわからないけどさ。竹光がいい匂いと言っていたから、それに反応したのかも」
匂いかと中野は言った。着替えも持ってきたのだ。それに匂いが移るのかもと考えていて、篤志のカゴに入れてもらう。
「で、どんな女なの? その子」
「は?」
好奇心で目を輝かせている篤志に中野は考え込んだ。
「男だぞ、女みたいにきれいだけど」
「それって、相当、まれな美人ということだ。男装していたんじゃないか?」
「声が低かった」
「わざとじゃないの?」
中野は考えていた。そうして、女みたいな、きれいな男子は、女だった可能性があると考え直した。女だったんだと恥ずかしいと中野は思った。中野の勘違いかもしれないが、その可能性は高い。
「女の子か、わからなかった?」
篤志の言葉に中野はうなずく。
「すごい美人かもね。それかわざとか」
「わざと?」
「ほら、匂いって言っていただろう。匂いで普通よりずっときれいに自分を見せる術士がいるから」
「研究者だって」
篤志と一緒に洗い場に入ると、体に温かな空気、湯気がぶつかる。そうして、中野は冷たいタイルに足を踏み入れた。
「そういえば、竹光は?」
「先に入っている」
「そういう命令?」
「そう、風呂場で盛るから」
なるほど、と中野は感心した。洗い場はシャワーと水道と椅子と洗面器が置いて、ボディーソープ、シャンプー、コンディショナーが置いてある。
さて、体を洗うために、椅子に座るといきなり、隣から手が伸びた。怯えていた中野に隣にいた男、山代がなにも言わず、体にシャワーを浴びせてくる。
温度調節をして、ぬるい温度だった。足元からお湯をかけている。
「なに、するんだよ」
「徹底して洗う」
目を光らせて、中野を見つめる山代に「いらない。俺の言うことを聞くんだろう?」と言った。
「ヤダ」
「ヤダじゃないから」
山代はしばらく中野を見つめていた。
「なにもしない」
「なにか、するつもりだったのか?」
あきれている中野に対して、山代の手は止まらない。体がお湯に慣れてきたのか、胸や腹が寒くなって、体にかけてほしい。心を読んだのか、さっさっと、シャワーを腹にかける。
「怒っているのか?」
「怒っていない。中野はあの匂いがキライ」
「なんで、そうなる」
「中野、キスしてくれるなら、許す」
「俺のメリットがない」
「じゃあ、洗う」
シャワーヘッドをつかんだまま、山代が言う。
「疲れているから、やめてくれ」
「やめる」
「えっ」
いきなり、山代が言った。山代の言葉に肩透かしのようなものを中野は感じた。それにニヤリと山代は笑う。
「中野は期待している」
「セクハラは禁止」
篤志が後ろから言う。張り紙を指差す。
「未成年の術士の干渉は禁止です。また、バケモノも同様です」
それを読んだ山代はチッと舌打ちをした。中野はなぜかつまらない気持ちになった。いつもならば、助かったと思うのに、変だと中野は考えていた。
「今日の俺、変だ」
「それは、確かだね」
篤志も同意する。あとで、柳に相談しようという話になった。
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