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第32話

 中野は自分の過去を思い出そうとしたが、思い出すことはできずにいた。  そうして、人の気配がしない、静かな廊下を歩く。  昨日のいる世界とは、別世界にいるような静けさだった。早朝ということもあるが、人の声も気配もしない。本当に人がいるだろうかと、疑う。  毛の短い絨毯を歩く。スニーカーが床ではなく、柔らかものを受け止められているという感覚がした。人の声もしない。朝日を浴びた廊下はまぶしく、目を細めていた中野の目に入るのは、海の上にギラギラとした油を塗ったような太陽が天に登っているところだ。  海は紺色で、波が泡立ち、小さな島の岩場に当たる姿だ。水しぶきが散らばり、岩場はまるで波で削られてしまうのではないか、そんな波の勢いがあった。 「中野は、波が怖いのか」  山代の問いかけに中野は顔を上げた。そうして、彼は苦い顔をしていた。それは山代に臆病な人間と言われていると中野は考えていた。自分でも考えすぎであるとわかっている。しかし、そう思うと、山代の言葉になかなか肯定できまい。 「さあ」  そうとぼける中野に山代はきょとんとした。 「うわっ、こんな波に飲まれたら終わりだと」 「だから、人の心を読むな」  明らかに、また人の心を勝手に読んだ山代に対して、やっぱり自分が認めていないから軽んじられるんだと中野は思った。山代がなにか言いかけたとたん「山代はなんで人の心を読む?」と中野は問いかけていた。 「それは、中野が隠すからだ」 「隠していない」 「いや、隠す。それを見たいと思うのはいけないことか?」 「俺のプライバシーはどうなるんだ」 「プライバシーなんて化け物にはない」  あーそうですねと、中野はつぶやいた。朝からいらだたせることを言われた。それもすべて、自分の責任であることはわかっている。それでも、中野は自分の考えは間違いではないと考えていた。  廊下を渡る。食堂に向かうことにした。中野の部屋からは、食堂からはそんなに離れていない。篤志は眠っているのか、メッセージを送ったが、返事はない。まだ眠っているのだろう。  食堂についた中野は声をあげた。食券を買えるはずの販売機が使用停止と紙が書かれていたからだ。食堂は今日から定食のように出さないと職員のおばちゃんが言った。 「えっ、ラーメンが食べたかったのに」 「そう。ごめんね。今日からは魚の照り焼きに、サラダと昆布の佃煮、お揚げと人参と豚肉とごぼうのけんちん汁」 「えー」 「えーじゃない」  おばちゃんの眼光に圧倒されたのか、中野はトレーを受け取り、好きな場所に座る。海が一望できるようになっている。長いテーブルが二つ、横に並べている。その狭い通路のような通りを通り、海に面した席に座る。 「気持ちがいい天気だな」 「そうだな」  山代はトレーを持って中野の隣に座る。それが当たり前と言いたげだ。中野達は、コップに飲み水を持ってきて、ぼんやりと海を見ていた。 「どうして、俺は面倒ごとに巻き込まれるんだろうな」  中野の言葉に山代は答えない。山代でもわからないということかも。中野はそんなことを思う。海はキラキラと輝き、青い。そんな海を中野はぼんやりと眺める。今朝、起きたことを考える。自分が夢精をしていたのか、わからない。しかし、山代が嘘をつくとは考えられない。  夜叉丸にそのことを聞くのはどうしてもいやだった。正直に尋ねるのも、それ以外の方法があるのはわかっているが、聞きたくなかった。聞けば、昨日のキスの感触を思い出す。 「あー、いやだ。なんで、俺ばかり」  そうつぶやいて中野は自分の頭をかきむしる。心はぐちゃぐちゃなのは確かだ。自分の心がどう思っているか、本当はわかっている。夢精をしていないと信じたい。  化け物が入らないこの施設で、パンツの中身を拭うという高等な術なんてそうそう使えるものではない。なぜ、中野がこの部屋を使っているのか、夢精をぬぐった相手にわかったのさえ、わからない。気持ち悪い。自分の行動が監視されているようで。  柳の言葉を思い出す。 「組織は一枚岩ではない」  組織に変態がいるということが、ショックである。中野はそう感じていた。海の爽やかな光景もこのようなことが起きればなにも意味をなさないということがわかる。一時的に気持ちが良くても、後味の悪さは確かだ。 「ごめん。中野を守れなかった」 「いや、いいよ。ご飯を食べよう」  そう言って箸を進める。慣れた手つきで山代は魚をほぐす。それがきれいなしぐさに見えるのは顔のおかげかもしれない。それでも、きれいだ。 「おはよう。兄ちゃん」  髪の毛がはねている篤志は、ぼんやりとした顔であいさつする。隣にいた竹光はなぜが、満足げだ。 「竹光になにかされたか?」 「なんも。朝は元気なの。こいつ。朝型かもね」 「化け物に朝型ってあるのか?」 「兄ちゃんはだるくないの? 朝」 「うん。まあ、そうだけど」  うんと返事をする篤志が中野を見つめていた。中野はなんとなく、今朝のことは話さないことにした。自分でも恥ずかしい。自意識過剰な話かもしれない。証言しているのは山代だけだ。確実というわけではない。 「昨日は大変だったね」 「検査を受けたの?」 「うん。あと、化け物としそうになったんでしょう?」  けんちん汁を吹き出しそうになる中野がいた。中野は「朝からそんなことを言うな」と言っていた。山代の隣に篤志は座る。  寝ぼけている姿がなぜか、ヒヤヒヤさせる。人が集まってきた。こんなに人がいたのかと思ってしまう。作業服を着た人間が集まって、それぞれ席に座っていく。女性や男性もいる。そうして、中野みたいな子供はいなかった。 「午前中から、授業があるよ」 「ネットだよな。パソコンで」 「そうだよ」 「一緒に受けたらな、いいんだけど」 「受けられるなら、助けて。俺、頭が悪いから」 「それ、言ったら俺だって」  そんな会話をする。山代は黙っている。それがなぜか、怒っているように見えた中野だった。そんなことはないのだが、中野にはそう見えた。  調子が狂うと中野は考えていた。そうでもないなんて言えなかった。昨日の山代はかわいくないと中野はつぶやきそうになっていた。  篤志と別れて、自分の部屋に向かう。スケジュールには勉強をする時間になっている。パソコンを立ちあげて、インターネットに接続する。慣れないが、授業が始まる前なのに、すでに気の早い人はいた。授業が始まるが、なかなか集中できずにいた。環境がいけないのか、それとも中野の集中力がないのかと考えていた。  パソコンの授業は進む。勉強をしていると、山代も同様であるが、受けている授業が違う。それで、山代がどういった授業を受けているんだろうかと想像をしていた。  宿題を出された。宿題を提出しないと単位に関係していくのだと言われた。水を飲んでいると、山代はイヤホンをして、聴いている。メモを取っている。中野もずっと授業を受けていた。  体を動かす時間になった。外の空気が澄んでいる。塩辛い匂いを吸う中野がいた。寒い季節なので、長袖とパンツ姿だ。スニーカーはズブズブと砂が入る。うわっと言いながら、日差しを浴びた砂は熱い。  波の音が、耳をひろう。ザッザーンという音。こちらは穏やかな音である。施設は高いところにできているのが意外だった。津波の関係もあるのだろう。高台にできている。低い場所に砂場がある。 「なんか、要塞って感じだな」  そんな感想が中野の口からもれていた。そうして、中野は砂を歩いていく。空気が温められ、強い日差しが中野の体を照らしている。 「なぜなんだろうな。気持ちがいい」  いやなことを考える前にそれが浄化されてしまうのではないかと考えていた中野がいた。柳がいるが、彼はぼんやりと海を見ていた。海は太陽に反射してキラキラと輝いていた。 「じゃあ、走ろうか」 「はい」  まずはゆっくりしたペースで走る。足場が不安定なので、足腰に力が必要になる。砂場にズボリと足が引っかかる。それに気をつける。たまに転けそうになる中野を山代が手を貸す。柳はなにも言わない。  柳は鍛えているのか、中野のようにはならない。慣れているからかと中野は考えていた。山代は平然と走っている。そこは化け物であるから。  うみねこが鳴いている。人がいても気にしない彼らは空を飛んでいる。建物は変わらず、それなのに中野は、走っている自分を遠くから俯瞰しているような気持ちになった。 「疲れた」  一時間くらい走っていた。そのまま、息切れをする中野がいた。水を飲んでいる。意外とスローペースで走っても疲れてしまう。砂場に倒れこむことはさすがにしないが、しゃがんでいると柳は「大丈夫かな」と言ってきた。 「まあ、平気です」 「じゃあ、次」 「えっ」  そう叫んでいた中野を柳は苦笑していた。柳は疲れていた中野に「まあ、休むか」と言った。助かったと中野は思った。  中野は息を整えていく。なぜか、楽しかったと思えた。久しぶりに体を動かしたからか。 「バレーボールをしようか」 「いいですよ」 「バスケもいいんだけどね」  柳ができるのかと思っていると「まあ、楽しませてくれよ」と言われてしまった。中野は絶対に落とさないようにしようと考えていた。そんなことがただ、楽しいと思っていた。

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