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第18話

2.  重い沈黙を割くように葵が口を開く。 「そっか……右京君には話すの?」  その問いに、紅は少し目線を彷徨わせてしばし考えこんでから、こう答えた。 「……言えないと思います。一応、努力はするつもりですけど」 「そう。頑張ってね。あ、そうだ」  葵は思い出したように手を叩く。鞄に入っていた紙袋を差し出して笑った。 「出会いも何もかもがクソだったかもしれないけど、番になったら仕方ないし、諦めて右京君のいいところ探してみるのもいいかもしれないね」 満面の笑みを浮かべた男は差し出した紙袋を紅が受け取ると、笑みを深めて立ち上がる。じゃあ、これでお暇するよという男に、はあ、と小さく返事をすると、そうそうとまた思い出したかのように葵は振り返って言った。 「いい産婦人科の連絡先、鞄に入れといてあげたから。よかったらいきなさいね」  わしわしと頭を撫でて、葵は紅の家を出て行く。兄が居たら、きっとこんな感じだろうか。少しむず痒い気持ちを撫でおろしながら、紅は紙袋の中身を確かめる。  紅ちゃんへと書かれた紙には美樹の綺麗な字で体調を気遣う言葉が綴られていた。無理をさせてごめんねと書かれた紙を見て、少しだけ面白くなって、ふふっと笑みが零れる。ラインでよこせばいいものをわざわざ紙に書いて嫌いなくせに葵に渡すところを想像すると何故か笑えてしまった。  紙袋にはこれで栄養付けよう! と書かれたパンやお菓子が入っていて、すぐに買える購買の食べ物を手当たり次第に買ったのだなというのが見て取れた。  検査薬をゴミ箱に捨てて紅はリビングのソファーに腰掛ける。  右京美樹のいいところ。駄目な所じゃなくて、好きだと思える所。思い返して、うんうん唸る。困ったことに思いつかない。苦手なところなら死ぬほどあるのだけれど。ああ、でも、美樹の実家で、彼が慕われる姿を見るのは、最初こそ不快だったが、今は少し好きかもしれない。  それに、右京家に泊まっていた時の美樹はいつにも増して優しかったのだ。  ――はじめから、ああだったらよかったのにな。  紅はぼんやりとそんな風に考えて、自嘲気味に笑った。初めから優しくされたからって自分が美樹のことを好きになったか? アルファは全員同じようなものと決めてかかって、見下していたのは自分じゃないか。出会いが最悪だったからこそ、美樹という人間が自分の中に住み着いた。そうでなければ避けて通った相手だ。  はじめから、決めつけていたのは、自分じゃあないか。  紅は深いため息を吐いて、ソファーに寝そべった。ぼんやりとした頭で、葵の言葉を繰り返す。自分が思っているほど悪い奴ではないかもしれない。初めから捨てられると決めてかかっているけど、本当に美樹は自分を愛しているのかもしれない。  もしかしたら、子供ができたって話も、喜んで聞いてくれるかも。なんて考えて、馬鹿馬鹿しくなってやめた。子供にとっては親がいる方がいいだろうけど、どうせあの右京美樹だ。子供のことなんて下ろせっていうにきまっている。  そうなったら困るので、ひっそり産むのがいいかもしれない。葵にはああいったけど、冷静になったらやっぱり言わない方がよさそうだ。紅はスマホを取り出して、高木咲の連絡先を呼び出すと、ラインメッセージで彼女に兄の連絡先について尋ねた。 ***  ブーッブーッというバイブ音で目が覚める。気が付くともう夕方だった。一時間目しか受けていない紅は、昼前には帰宅していたので、なんだかんだ四時間近く眠っていたことになる。ソファーから身体を起こして、ローテーブルに置いたスマホを手に取ると、美樹から着信が入っていた。  放っておくのも面倒なので掛けなおす。ツーコールで出た美樹が、もしもし、紅ちゃんと心配そうな声を上げる。至って冷静にいつも通りの声で、もしもしと答えると美樹が安心したように息を漏らした。 「よかった……体調悪そうにしてたから、家で倒れてるんじゃないかって……」 ほっとした声で美樹が言うと、紅はごめんと一言謝った。自分でも何故謝っているのかは分からない。 「別にいいよ、謝らなくて。なにか食べたいものある? お見舞い行くよ」  優しい声が鼓膜を揺する。食べたいもの、と言われて、冷蔵庫に葵が置いて行った軽食があることを思い出した。美樹が寄越した食べ物も沢山残っている。紅は首を緩く振って、食べたいものはないと答える。 「そっか、でもお見舞いだけは行くね」 「あ、うん。ありがと……」 「ふふ、いいんだよ。番なんだし」  じゃあね、と電話を切る。紅に重たい気持ちが圧し掛かった。番だから、よくしてくれるのか。やはり手に入った玩具だから大切にしているだけではないかと疑ってしまう。別にそういう意味で言っている訳ではないだろうに、どうしてもそういう意味で捉えてしまう。  手に入らない玩具だったから雑に扱っていた? 要らなくなったら適当にあしらわれて捨てられる? 母みたいに金だけ握らされて、この子と一緒に突き放されるのだろうか。  一人でいると余計な事ばかり考えてしまうなと、紅は頭を左右に振って、気晴らしにテレビをつけた。ニュース番組では今話題のあの人という名目で四家の中の桜林の前会長が取り上げられている。確か、すごいやり手で、それまで仲の悪かった華王子との関係を修復し、共同会社まで立てるくらいのことをしたとか。それが爆発的なヒットを生み出して、右京と高木に独占されていた市場を取り戻した、だったか。  柔和な笑みを浮かべる年老いた男性は車椅子に座ってインタビューを受けている。しゃがれた声が印象深い。  ぼーっとその番組を見ていると、桜林の前当主の次に紹介された人物に目を見開く。いつの間に収録に行ったのか知らないが、びしっとスーツを着こなした美樹が画面に表れて持っていたスマホを落っことした。人当たりのいい笑みを浮かべる美樹が、今話題の右京家の跡継ぎとして紹介されていて、テレビの画面端には、管理する会社は十社超えかと書かれている。 遠い世界の話に頭がくらくらしていると、ピンポーンとインターホンが鳴った。慌ててドアを開けると、そこには制服を着た美樹がにっこり笑って立っていた。 「右京……」 「体調どう? あ、これオンエア今日だったんだ。お見舞い品ここにおいとくね」  勝手知ったるなんとやら、美樹はすたすたと部屋に上がる。片手に持った袋を机に置いて振り返ると、首を傾げる。紅の体調を心配しているらしい美樹に、紅はだいぶよくなったと答えて、ソファーに座った。美樹も、ならいいやと隣に腰掛ける。 「ご飯食べた?」 「いや、お腹空いてなくて、寝てたから……」 「そう。なんか作ったげよか」 「……軽食があるからいい」 「そっか」  頬を撫でる美樹の手が、優しく耳たぶのピアスに触れる。ぴくりと肩を震わせると、手を下ろして、美樹は欠伸をした。 「コーヒー貰っていい? 授業退屈でさあ、眠いんだよね」 「あ、そこ。下の棚に入ってる。インスタントだけど……」 「さんきゅー。紅ちゃんは何か飲む?」 「あー、お茶……かな」  紅が指をさした方向を見て、美樹は立ち上がるとすたすたとキッチンの中へと入って行った。ガサゴソと棚を漁る音がして、少しすると温かいブラックコーヒーと麦茶、それから小さい洋菓子をお盆に乗せて戻ってくる。 「食べれそうなら食べて。長田からのものだけど」 「あ、ありがとう……」  出されたものを一口も食べないのは申し訳ないので、吐き気が来ないことを祈りながら一つ手に取る。不思議と気持ち悪さがなくすっと喉を通るその菓子に、紅は感動を覚えた。ここ最近甘いものはすべて気持ち悪くなっていたから、少し嬉しい。  小さなことに感動していると、美樹がくすっと笑みを零した。大きな手で頭を撫でられて、紅はむず痒い気持ちになる。何かこの空気を換えないと変な気分になりそうだと思って、さっきみたテレビの内容を口に出した。 「う、右京って、もう会社経営してるの……?」 「うん? ああ、ニュースで見たの? そうだよ。普段は長田に丸投げしているけどすべての決定権は俺が持ってるよ」  当然でしょと当たり前のことのように言う美樹に眩暈がした。まだ、彼は高校生だ。それなのにもう社会の一員として人の上に立って仕事をしているなんて。 「まあ、右京グループのほんの数社だけどね、いずれは右京家ごと継ぐからその勉強の一環みたいなものかなあ」  そんなに難しい物じゃないよと笑う男が、同じ年とは到底思えなかった。  今日は帰る。と、美樹は六時半を回ったころに家を出て行った。ぽつんと残されたのが妙に悲しいなんて、きっと気のせいだ。部屋に戻って葵が買った軽食を食べる。久しぶりに得た一人の時間は、なんだか寂しいとさえ感じた。  ふと、思い出して鞄を探る。裏面に『必要なら行くこと、高木』というメモ書きが添えられた名刺を手に取ると、その表に書かれた病院を読み上げる。浅香産婦人科と書かれた名刺には赤い線で引かれた電話番号があった。必要ならここに掛けろということだろうか。  紅はなるべく早く時間を見つけて連絡を取ろうとその番号をスマホに登録する。美樹に見られてもいいように名前は浅香のおじさんということにしておいた。もし見つかって問い詰められたら説明のしようがないからだ。  そこまで考えて、何故か、好きでもない男の子供を隠れて産もうとしている自分がおかしくなって笑えてしまった。美樹のことはどちらかというと嫌いな方だ。最近はマシだが、いっそ死んでくれと願ったことだってある。殺したいと思ったことも。それでも、そんな男との子供でも、産みたいと思うのだ、自分は。  子供に罪なんてないから。そう言い訳がましく自分を慰める声が脳内に響く。本当はそんな理由じゃないのは分かっているくせに、その言い訳に縋ることで、生まれてくる子に父親がいないかもしれないという現実から逃れようとする。美樹から隠れて産むということは、つまり、子供に親の存在を知らせないということ。  自分が美樹から離れられたらその時はこの手で育てるが、もしダメなら、母の手にゆだねるしかない。そうまでしても、子供に憎まれてでも、紅は子供を下ろしたくなかった。 ***  子供は好きだ。とても好き。いつか信頼できるアルファとなら子供を作って温かい家庭を作りたいと思っていた。自分も、番のアルファも子供も、幸せな家庭。だけどそんな家庭が崩れるのは一瞬だ。相手が裏切ったらそこでおしまい。儚くも美しい、その幸せを壊すのは、いつだってアルファだ。  紅はぐっしょりと濡れたシャツを握る。悪い夢を見た。食卓でご飯を食べる美樹と紅と、恐らく二人の間に産まれた子供。笑顔だった食事は、美樹の唐突な発言で絶望に変わる。 『新しい番ができたから、紅ちゃんたちはもういらないや』 去っていく美樹を泣きながら追いかける子供を見ながら、紅はぼんやりとそれを見ていた。随分趣味の悪い夢。いつか、現実になるかもしれない夢。 「~~~っ」 ぐしゃぐしゃと頭を掻き交ぜて、紅はベッドから降りる。キッチンに行って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、一気に半分くらい飲むと、胸に渦巻いていた気持ちの悪さが溶けた気がした。  汗で濡れたシャツを着替えて時刻を確認する。まだ深夜の三時を少し過ぎたくらいだ。もう少し寝てしまおうと紅はもう一度ベッドに入る。胎児のような体制で寝転がると、ゆっくりと意識を手放した。 2. 終

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