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第19話

3. 『本当にそれでいいのかい?』  問われた言葉に、はいと答える。覚悟があるかと問われればまだきっぱりとあるとはいえないけれど、こうするしか道はない。ぎゅっと拳を握って、紅は口を開く。 「お願いします。先生」 ***  木陰に腰を下ろして楽しそうにサッカーをするクラスメイトを見守る。お腹の子供のことがあるので、教師に体調が悪いと嘘を吐いて見学をした。ジャージ姿で一人木陰に座っているのはなんだか寂しいものがあるが、元々クラスメイトとはそんなに仲良くないし、サッカーに参加したところで美樹のチームに入れられて端っこの方で美樹を応援する係になるだけだから、今とそう変わりない。  蝉の鳴く声を聞きながらじわじわと熱い日差しの下で走り回る青年たちを見ていると、その中の輪の中心で、美樹が紅に向かって手を振った。それが妙に子供っぽくて、小さく笑って手を振り返すと、美樹は嬉しそうに笑って、八木に声を掛け、パスを貰って綺麗なドリブルを決めながらゴールへと走った。  美樹の笑顔が、夢の中の美樹の冷たい顔と重なる。もういらないと言われることが恐ろしくて、紅は抱えた膝に額を押し当て、深く深く、息を吐いた。 「―り、佐渡。おい、大丈夫か?」  声を掛けられて、ハッとして顔を上げる。河合の綺麗な黒い瞳が紅をじっとみた。色落ちしかけている金髪の男は、心配そうに紅の顔を覗き込んで、肩を叩いた。授業は? と聞くと、まだやってるよ、と優しく返事をして、額の熱を確かめる。  保健委員なだけあって、体調不良の生徒には優しいし、気遣いができる。美樹がいなければ、あるいは美樹の執着する紅が居なければ、彼も普通に友達を作って、普通のクラスで過ごせたのだろうか。 「ありがとう。河合は休憩?」 「そう。あっちは人多いし、お前気分悪そうだから。倒れたらまた美樹がうっせーし」 「そっか」  あっちと顎で示されたのはクラスメイトのほとんどが休憩している場所だ。大抵はそこに行くんだろう。古川もそこで休憩を取っている。二時間ぶっ通しで体育になったからか、交代で生徒が休憩することになっているのだが、美樹はいつ休憩を取ったのだろう。元気そうだ。 「……河合は、右京のこと、好き?」  不意に気になったことを問う。びっくりした顔で、紅を見た河合は、紅が冗談半分で聞いている訳ではないと気が付くと少し悩んで答えた。 「嫌いじゃねえよ」 「そっか」 にっこりと笑う紅に、河合は首を傾げる。その問いの真意はつかめないまま、休憩が終わった。 いってらっしゃいと手を振る紅に、河合は困惑した様子で首を傾げる。その様子を見ていた美樹が、休憩から戻った河合に詰め寄るのを、紅はただ静かに見守っていた。 ***  すべてが上手くいくことなんてない。きっとどこかで綻びが生じるから、そこをどう繕うかがカギになる。紅はお弁当を眺めながらそう思った。  妊娠していることが分かってから、体調が悪いとか、今は少し気分がよくないとかそう言って美樹からのセックスの誘いを断り続けていた。美樹も、番は大事にするつもりらしく、それなら仕方ないと諦めてくれているようで、ここ数日は身体の関係はない。  ただ、代わりに恋人の真似事をするのが増えた。キスとか、一緒に帰ったりとか、手を繋いだりとか、そんな子供みたいな青臭いこと。それに満足しているらしく、照れたように笑う美樹に紅もなんだかんだほだされて、最近では、ただお弁当を一緒に食べることも多くなった。 そうこうしているうちに、志賀崎高校の一大イベント、文化祭の季節がやってきた。紅のクラスは美樹の一存で出し物が決まり、メイド兼執事喫茶ということになった。  メイドと執事の二組に分かれて奉仕することになっているが、紅は勿論メイドだった。ただ、問題は美樹専属のという文字が付いていることだ。  どういうことかと問えば、美樹個人が、紅が他の人間に奉仕するのは許せないので、紅だけは常に美樹とセットで動き、接客はしないようにということらしい。横暴にもほどがある。  呆れた顔で美樹を見るとにへらと笑う男にもう何も言えないと紅は無視を決め込んだ。その直後の昼休み。紅はぼんやりと弁当を眺めていた。 「紅ちゃーん、明後日採寸だよー、聞いてるー?」 顔の前で手を振られ、飛びかけていた意識がはっきりと浮上する。手を振った張本人である美樹を見て頷くと、くすくすと笑われた。 「ちゃんと聞いてた?」 「きい……てなかった……です」 「あはは、明後日採寸するからね。忘れないで」  分かった。と頷いて紅は弁当を食べる手を再開しようとして、一瞬手が止まる。採寸と聞いて少し不安な気持ちが過った。ここ最近妙に肉付きの良くなったお腹周りをどう説明しようか。  高木葵が紹介した産婦人科は名医と噂の人で、人柄も優しくとても話しやすい人だった。事情は葵から聞いているらしく、電話を掛けた時に名前を名乗っただけで、ああ、と頷いて休診日に来院を勧めてくれた。  オメガで高校生で産婦人科なんて世間では白目で見られるだろうと気を使ってくれたのだ。  早速祝日の今日行ってみたら、電話で話した通りの、いい先生だった。紅は少し綻んだ顔をぱしぱしと叩いて電車に乗る。紅の家の最寄り駅から五駅先で降りて少し歩いた所に浅香産婦人科はある。恐らく、美樹に知られたくないと思う紅の気持ちを理解していた葵は何を聞かずともここを指示した。通うことでちょっとした運動にもなるという気遣いつきだ。  電車に揺られていると途端に眠くなってうとうとと船を漕ぐ。隣に誰かが座った気配がして、慌てて起きると、隣の人物はそのままでいいと言った。聞き覚えのある声。どこだろうと気にしていると、男は少し迷った口調で言った。 「美樹に、隠してること、ないか?」 「―っ!」  ハッと意識が覚醒する。顔を上げて隣を見ると、美樹の幼馴染の三村黒夜が座っていた。停車している駅は、紅の家の最寄り駅の二個手前だった。どうやらここで乗ってきたらしい。紅はほっと胸を撫でおろし、問いかけに対して返事を返した。 「隠し事なんて、してないです」 「本当だな?」 再度、確認を取る黒夜にこくこくと頷く。きょとんとした様子の紅に思い過ごしか、とため息を吐いた黒夜が、わりぃ。忘れてくれと肩を叩いた。そのまま電車は走り出す。ガタンゴトンと音を立てる車内で、紅はゆっくりと息を吐いた。  電車を降りると、けたたましい蝉の鳴き声が鳴り響いた。黒夜は慌てたように「またな」と笑って去っていったので小さくなるその背中にゆるゆると手を振る。  ほっと、胸を撫でおろして、紅は自宅へと帰る道をゆっくりと歩いた。  じわじわと暑い室内で蝉の声を聞く。初夏の香りがして、紅は生温くなった麦茶を一杯煽った。暑いと口にしたら負けな気がする中、ぼんやりと天井を眺めながらこれからのことについて考える。  どうやったら、穏便に事は進むだろうか。美樹に知られるとマズいからなるべくクラスメイトや、三村黒夜にもバレないようにしないといけない。事のハードルの高さに、紅はため息を吐く。生きるだけで、人はどうしてこうも苦労するのだろう。  やれやれと肩を竦めてテレビをつけた時だった、スマホが着信音を鳴らす。確認すると右京美樹という四文字が表示されていて、紅は今日もか、とため息とも嘆声ともつかない声を漏らした。 「もしもし」 『紅ちゃん、今家?』 「そう」 『ゲームしよ。行くから待ってて』  電話に出ると、楽しそうな美樹の声が聞こえた。今日は用事があると言っておいたのだが、話を聞いていなかったのだろうか。首を傾げてニュースを見ていると、玄関を叩く音がした。 立ち上がって、玄関のドアを開けると、美樹が河合と二人で立っていた。どうして河合も? という目を向けると、ああ、と気が付いた美樹が笑う。 「三人でやる協力ゲームだったから連れてきた。黒夜誘ったんだけど用事あるらしくてさ、あ、これはい。食べてね。ちょっと洗面所借りるね、紅ちゃん」 「あ、うん」  残念そうにそう言うと、美樹はコンビニ袋を渡して洗面所を目指す。袋を受け取った紅が部屋に戻って中身を確認すると、フルーツ系のアイスバーがいくつか入っていた。とりあえず食料でいっぱいいっぱいの冷凍庫に詰め込んでおく。 「お邪魔します……」 「あ、どうぞ」  河合が紅の家のリビングルームで居心地悪そうに立っているので、とりあえずソファーに案内する。自分はリビングから出してきた椅子に座って美樹を待っていると、洗面所から戻ってきた美樹が不満そうな声を上げた。 「なんで紅ちゃんが椅子なの。河合と逆でしょ。紅ちゃんは俺と座るの」 「右京、河合はお客様なんだから」 「俺だってそうだし!」 「わかったわかった。かわるよ」  なんて子供じみたことを。紅は思っていた言葉を飲み込んでソファーに腰を下ろした。別に座るとこがどこだっていいじゃないかと思うのだけれど、美樹はそうではないらしい。わがままな美樹に一歩引く河合がなんだか大人に見えた。 「紅ちゃん、はい。コントローラー」 「あ、ありがと」  細長いコントローラーを受け取って、右京が持ち込んだゲーム機で遊ぶ。なんでもないことなのに、紅は誰かと楽しく遊ぶということをなんだか忘れていたような気がして、少し嬉しくなって、照れくさい気持ちを隠す様に、笑った。 *** 「紅ちゃん、なんか太った?」  案の定、採寸の日。美樹に言われた。ただし、採寸関係ない場面で、だ。  後ろから羽交い絞めにして抱き着いてきた美樹が、さわさわと身体を弄って「ん?」と変な声を上げるので、紅はどうしたのかと首を傾げた。そうすると出た言葉が冒頭のこれである。紅は、何と言ってごまかしていいのか分からず、いや、とかそのとか適切な言葉を探すために四苦八苦していると、美樹がにこりと笑った。 「太っても可愛いから大丈夫だよ」  満面の笑みで言う美樹にあたふたしていた自分があほらしくなる。はあ、とため息を吐いて脱力した。  文化祭実行委員が採寸するぞと号令をかける。美樹が呼んだ採寸の係の男性が教室に入ってきて、てきぱきと全員分のサイズを測っていく。美樹は自宅で測っているらしく順番を飛ばされていて、ついに紅の番がやってくる。  男性はサッサと紅の身体のサイズを測ると、次の生徒のところへ行こうとした。その彼に待ってくださいと小さな声で話しかける。七三分けのいかにも真面目そうな男は、どういたしましたか? 紅様とこちらの名前を知っているようで、紅は一度ぎゅうっと目を瞑って、意を決して言った。 「俺の分、お腹周りを少し緩めに作ってもらえませんか? その、ちょっと最近太ってしまって……はずかしいので」  騒がしい周りに聞こえない程度に小さな声でそう言うと、ちゃんと聞き取ったらしい男はにこやかに笑って頷いた。 「ああ、そういうことですか。わかりました。そのようにいたします」 「ありがとうございます」  次の生徒の採寸に向かう男の背を見ながら、ほっと胸を撫でおろす。  そもそも女装をしなければいけないというのに対しては、もう諦めているのでいいとして、あまりぴったりした衣装を作られてしまうとお腹の成長次第では苦しくなってしまうので、これは紅にとって重要な出来事だった。  人の居ない教室で、美樹を待つ。最近の日課になりつつあるそれに、もう抵抗感はなかった。段々と、美樹に対する嫌悪感も薄れてきていたし、逆に自分に対する疑問も生まれつつあった。  勝手に決めつけていたのは自分だ。美樹を自分の物差しで測ったのは自分だ。それが、こんな厄介な気持ちを芽吹かせているのだということも分かっている。 分かっているけど、と紅はゆっくり目を閉じる。 「それでも、それでも右京の事、まだ信じられないよ」  ミーンミーンと、蝉の鳴く声が遠くで響く。紅の零した言葉は誰に聞こえることもなく、空中に溶けた。 3. 終  

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