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第20話

3.5 文化祭 前日譚  その日は茹だる様な暑さだった。六月ももう終わりを迎えそろそろ七月に入ろうとしていた。文化祭の本番が近く、学内は準備に追われる生徒で大忙しの中、紅は全身鏡の前でため息を吐いた。  自分だけデザインの違うロング丈のメイド服。約束通り腹回りのサイズは緩めに作られている。問題なのはそのデザインだ。黒いワンピースに白のエプロン、ふんだんにあしらわれたフリルと、頭に着けるカチューシャには黒い猫耳。どうやら、紅だけ方向性が違うらしい。  化粧担当のベータの男子が紅の顔にメイクを施してもう五分は経つが、この現実を受け止めきれないと、鏡の前から動く気になれずにいた。  そりゃ、ミニスカメイドよりはずっといい。全然、ロング丈の方がマシだ。だけどこの耳。これはいらないんじゃないだろうか。邪魔くさいし、何より恥ずかしい。母が来れないことが幸いだった。 「佐渡、早く出ろ」  更衣室として利用している場所を独占している紅にしびれを切らしたのか、八木がカーテンをシャッと開けて声を掛けた。彼も彼でミニスカメイド服を着ているのに、腕を組んで仁王立ちする姿はどこか男らしさを感じる。 「ごめん」  しぶしぶといった様子で簡易的な更衣室から出た紅を出迎えたのは、自分だけ特注の豪華な衣装を纏った美樹だった。執事、というテーマをガン無視した、屋敷の主人風の衣装が酷く似合っている。イケメンというのはまさに彼をさすのだろう。纏う雰囲気から違いを感じる。 「うーん、やっぱり紅ちゃんは黒猫、ロング丈が似合うね」  しみじみと頷きながら紅のスカートを捲る男の手を掴んで、待ったをかける。こんな人目のあるところでという目で見ると、美樹はスカートを捲るのをやめ、腰に手を置き、抱き寄せた。 「んー。いい匂い。紅ちゃん最近体調良くないからお預けばっかで、俺そろそろ爆発しそう」  すうっと紅の項の匂いを嗅ぎながらそんなことを言う男に紅は小さな声でごめんと謝る。本当のことを言うわけにはいかないので、ここのところずっと、体調不良を訴え続けていた。それもそろそろ限界かもしれない。 「大丈夫。紅ちゃんが良くなるまで待つよ」 ニコッと笑う美樹に、紅は苦笑を漏らした。そう言って、あと何か月、いや、何日、待ってくれるだろうか。 「試着終わった奴から着替えて看板とメニュー作り手伝ってー」  紅の頬に軽くキスして、美樹はクラスメイトに指示を出す。言われた通りに皆衣装を脱いでそれぞれの持ち場に着いた。紅もそれに加わるため更衣室に入ろうと美樹の胸を押す。 「……あの、右京?」 「美樹って呼んで」 「う、右京……じゃなくて、美樹。その、準備しないと……」 「あとでいいでしょ」 キスを迫る美樹の顔を寮の手で押さえて、紅は困惑したように首を振った。後でいいわけない。やることがなくなってしまう。それに、みんなが真面目に働いている横で自分たちがサボってキスしているとか、申し訳がないにもほどがある。 「よ、美樹……!」 ぐぐぐ、と力を入れて迫る美樹につい力んで声が出た。ピタッと止まった美樹は、軽く舌打ちをして、唇を尖らせる。 「仕方ないなー」  するりと解放された紅は、慌てて更衣室に飛び込んで、衣装を脱ぎ化粧を落とす。我慢とは何だったのか。なんて考えながら、紅はつい大声を出してしまったことからか、赤くなる顔を両手で包んでぺたりと座り込んだ。 ***  紅とは幼馴染だった。保育園の頃からずっと一緒。いままでも、これからも、ずっと変わらないと信じていた。  紅からブロックされたラインの画面を眺める。既読のつかないそれに蒼はため息を吐いた。美樹の指示でそうしていることを知っている。仕方がないというのも、分かっている。もう番になってしまったということも、咲の兄である高木葵から聞いて全部知っている。紅が妊娠していることも、すべて。  四堂蒼は、持っていたスマホの画面を閉じて、深いため息を吐く。自分の無力さをこれほど呪ったことは一度もない。  元来、自分は細かいことを気にしないタイプだ。周りに底抜けに明るいと言われることもしばしばで、人からどう見られようと気にしないことの方が多い。だけど、紅は、紅だけは違う。やはり、彼からの連絡が途絶えるのは堪える。  内気であまり人と関わり合いになろうとしない紅だが、幼い頃意地悪な子供から庇ったことがきっかけで仲良くなった。家も近所で、親同士も仲が良かったから、常に一緒に居たように思う。  幼い紅はとろくさくて、足は遅いし変な奴に目は付けられるし、思ったことを口に出せないし、内気だし、兎に角蒼が引っ張ってやらないと駄目な子供だった。にへらと笑う顔が可愛くて、天使のようだと近所でも評判で、よく、蒼ちゃんと控えめな声で蒼を呼びながら追いかける姿に目を奪われた覚えがある。思い返せば、それが初恋だったのかもしれない。 ずっと、自分が守らないといけないと思っていた存在が、いつしか必死に隠し事をして、必死に自分と自分の家族をも守ってくれていたなんて、なんて滑稽な話だろう。叶うことなら今すぐにでも会いたい。 ふと、難しい顔で考え事をしている蒼の肩を叩いてクラスメイトの田中が笑った。 「そんな落ち込むなって、な! あ、蒼。今度の日曜暇か?」 「別に落ち込んでいる訳じゃねえけど……なんだよ、合コンなら行かねえよ」 「ちげえって。志賀崎の文化祭、一緒に行かねえかなって思ってよ」 「志賀崎の?」  田中はそうだと笑う。志賀崎高校と言えば、紅の通う高校だ。しばらく会えないと葵伝手に聞いたが、自分から会いに行くのはどうだろう。紅は話をしてくれるだろうか。美樹の顔を見たら殴ってしまいそうだ。ぐるぐると考えが巡る頭の中で、ただ一つだけ、紅に会いたいという気持ちだけでかくなっていく。 「行くわ。予定空けとく」 「マジ? ラッキー!」 「言っとくけど咲は誘わねえからな」 「なんでだよ!」 「なんでも」  頬杖をついて、蒼はため息を吐く。折角嫌なことを忘れようとしているのに、志賀崎になんて連れて行ったら、思い出してしまうだろう。この間の事。なんて、友人の田中が知る由もないので思っても口に出さないで、蒼はいつも通りの日常を過ごした。 *** 「漸く明日だね、文化祭」  夕陽に照らされて橙色に染まる紅の瞳を覗き込みながら、美樹は笑った。女装も似合うがやはり紅はいつもの姿が一番だ。頬を人差し指ですりすりと撫でて、微笑むと、紅は困ったように眉を下げた。 「う、うきょう……」 「美樹」 「うぅ……美樹、その、明日どうしても、やらなきゃだめ?」 上目遣いで美樹を見る紅が問いたいのは、客引きのためにメイド服とは別に用意した婦警さんコスプレで、志賀崎伝統の女装コンテストに参加しなければいけないのか、ということだ。勿論答えはイエスである。 「ちゃんと衣装は特注だし、手錠も本物だよ? なにか不満ある?」 「不満しかない!」  困り顔でそう主張する紅の今着ている服は、件の婦警コスチュームだ。青いシャツに黒のスリット入りミニスカ。ヌードベージュのストッキングに黒のヒール。おまけの帽子までついている。銀の手錠はこの為に作らせたし、衣装だって紅のサイズ通りに作ったのでおかしな点はないはずだ。化粧をしていなくたって可愛い。  下着も女性ものを履いているので万が一転んでも見えるのは紫の女性用下着だが、それはそれでエッチなので誰にも見られないよう、こうして放課後に残って歩く練習をしている。低いとはいえいきなりヒールだと転ぶ可能性があるし、危険だ。 「その、この服、丈短いし」 「そういう風に作ってるからね」 「女装コンテストとか、ハードル高いし」 「ぶっちゃけ学校一可愛いと思うよ」 「転ぶと危ないし」 「その為に訓練してんじゃん」 「一夜漬けでどうにかなるもんじゃないよ……」  言い訳がましい紅に一つ一つ答えると、最後の最後で呆れたようにため息を吐かれる。歩く姿が最初よりも様になっている紅は、やはり贔屓なしでも一番かわいいだろう。 「ま、ヒールはともかく、コンテスト自体は八木がいい感じに引き立ててくれるから大丈夫っしょ」  美樹が人差し指を立ててニコッと笑う。そう、明日の女装コンテストは紅以外に八木も出るのだ。正確には紅が道連れにされたのが正しいか。  そう、自分たちのクラスから女装コンテストに出る人を選んでいる最中、選ばれた八木が、裏で美樹に言ったのだ。紅に別の衣装を着せてお披露目する機会じゃないかと。なんのお披露目かはさておき、確かに違う衣装を着せたいと思うのが男心ってもんだ。と美樹はその意見に食いつき、実行委員に無理を言って紅を特別枠で参加させることにしたのだ。 クラスを飛び越えた羞恥プレイが待ち受けていることを知らなかった紅は、つい先程その事実を知った。拒否権はないに等しい。  渡された衣装に袖を通して試着をすると、ヒールの練習という名目で美樹とふたりきりの居残りになった。  ちなみに、八木はクラスからの選出なので衣装はメイド服のままである。本人曰く、ミニスカという羞恥を乗り越えて見せるらしい。 「そろそろ暗くなってきたし、帰ろっか。着替えていいよ、紅ちゃん」  ゆっくりと落ちていく夕陽が見えなりそうなくらいになって、美樹は紅にそう言った。頷いて着替えを始める紅は、一人簡易更衣室に消える。  制服のポケットからスマホを取り出して、速水にメッセージを飛ばす。こんな暗がりを二人で歩くのも全然いいが、紅に何かあっては困るので家まで車で送ろうと迎えを呼んだ。  しばらくして制服姿に戻った紅がひょっこりと顔を出した。美樹は紅に手を差して、優しく微笑む。紅がその手を取ると、強く手を握りしめて、歩き出した。  暗い廊下を二人で他愛無い話をしながら進む。ほとんど美樹が話した言葉に紅が相槌を打つ形だったが、美樹はそれで満足だった。今、隣に紅が居て、話を聞いて頷いている。それがなによりも満たされる。  足音と、遠い蝉の声が響く。時々、紅がくすくすと笑うのが、なにより嬉しいと思った。   3.5 文化祭 前日譚 終  

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