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第21話

4.  ピピピ、ピピピ……。機械的な音が頭元で騒ぎだす。うるさいと思って手を伸ばして、ボタンを押して、のそりと身体を起こした。午前六時。紅は不機嫌そうな顔で、目覚まし時計を見つめた。  今日は……、文化祭だっけか。  昨日早めたアラームの記憶を辿って、ああ、と納得する。掛けてある制服に袖を通して、朝食を摂ると、いつもより少し早めに家を出た。  一生で着る機会を考えるとこれくらいしかないだろうメイド服の着替えに時間を取られることを予測して早めにクラスに顔を出すと、メイク担当のクラスメイトが待っていたとばかりに仁王立ちしていた。すぐ横に、八木と半分寝ている古川もいる。 「お、はよう……早いね」 「よお、佐渡」 「お前らが一番気合入れなきゃいけねえからよ、ほら、着替えてこい」  鞄を取り上げられて衣装と一緒に更衣室に押し込まれる。シャッとカーテンを引かれて、紅は目をぱちぱちと瞬いた。もう少しゆっくりできると思っていたのに、偉く気合が入っているのだな。  後ろのリボン以外すべて留めて、低めのパンプスを履いて外へ出ると、メイク担当の男子生徒がこっちこっちと手をこまねいた。コツコツと音を鳴らしながらそちらへ近づくと、目の前の椅子に座れと指をさされたので、大人しく腰掛ける。メイクには大体一時間かけた。 「おはよー」  徐々にクラスメイトが登校してくる中、隅っこの方で手鏡とにらめっこしていると、美樹が欠伸をしながら教室に入ってきた。そのまま衣装を持って更衣室に消えていく背中をじっと眺める。  十五分ほどして更衣室から出てきた美樹は相変わらずの金持ち主人という格好で、黙っていれば様になっているのになあ、なんて考えた。 「紅ちゃん! おはよう」  周囲を見渡して紅を見つけると、美樹はスキップでもしそうな勢いで走り寄ってきた。腰を抱き寄せられて、紅はまたキスされそうになるのを化粧が崩れるからと手で制した。直せばいいじゃんという主張に、時間がないと返せば、流石の美樹もぐうの音も出ない。 「あ、そうだ、紅ちゃん」  思い出したというような空気で、美樹がポケットから黒いレースのチョーカーを取り出した。 「そっち、しまっといて。今日はこっち。もうそれじゃなくてもだいじょぶでしょ?」  渡されて、紅は戸惑う。盗まれる心配は、恐らくない。美樹のお気に入りから泥棒したなんてバレたら生きていられないからだ。紅は少し悩んでチョーカーのセンサーに触れる。パネルのロックが外れて、首からそれを外すと美樹が首に黒のレースチョーカーを着けた。 「ん。とっても似合う。そっちは預かっといてあげる」  紅のチョーカーを受け取ると、美樹は自分の鞄にしまって、ロッカーにそれを片づけた。そうこうしているうちに、文化祭開幕のチャイムが鳴る。 「じゃ、頑張ろうね」 にっこりと笑って、美樹が言った。 「いらっしゃいませー」 「いらっしゃい、ませ……」  教室の入口で美樹と二人で客引き担当を請け負う。そもそも配膳やオーダーをさせてもらえないのでこれか厨房しかできることがないのだけれど、折角の綺麗な見た目を二つも利用しない手はないと、クラスメイトが美樹に頼み込んで二人で看板を持たされて入口に立たされた。  始めは美樹がこんな面倒なことをやるなんて珍しいと、クラスメイトが驚愕してじろじろと見ていたが、「佐渡が一緒だからだろ」という河合の一言に、皆妙に納得して、それぞれの持ち場に戻って行った。 「ふう……」 「おい、佐渡。もういいぞ」 「ぅわっ……はい……」  普段からあまり人前で声を出さない紅は人に積極的に話しかけられることに慣れていないので、思いのほか疲れが出ていた。自分の周りには他校のベータやアルファが近寄ってくるが、美樹は美樹でオメガやベータの女子に囲まれている。  目の前の人が掃けたタイミングを見計らって息を吐くと、背後から八木に声を掛けられた。驚いて変な声が出る。  八木も、平凡な見た目から美少女へと変貌を遂げていて、化粧の力を思い知る。そばかすなんかきれいさっぱり消えている。他にもいるオメガよりも下手をするとずっと可愛いかもしれないなんて失礼なことをちょっと考えてしまう。 「うぃっす。お疲れ。あら、囲まれてんじゃん」  古川が顔を出す。髪をオールバックにしていて、普段制服をだらしなく気崩している様子からは想像できないほどかっちりと執事服を着た彼は元々の何倍も顔がいい。だが、その性格が悪いことを紅は知っている。 「中行っていいよ、佐渡」  頭をぽんぽんと軽く叩かれて教室に戻る様に促される。八木に持っていた看板を渡して、そそくさと教室に入ると、こっちはこっちで河合の前に人だかりができていた。  自身のクラスの顔面偏差値の高さにやれやれと肩を竦めて、休憩スペースに入ると、メイク担当の生徒が、化粧直しだと慌てて紅の前に立った。 「あ~~疲れた。紅ちゃんどこー?」  化粧直しが終わると同時に美樹がスペースに入ってくる。この後二人で文化祭を回る約束になっているのだが、美樹が思った以上に怠そうなので少し休憩していくことにした。  カチコチとなる時計が五回長身を動かして、漸く美樹が立ち上がる。紅の頬に軽くキスをして、その腰を抱きながら二人して休憩スペースを出ると、河合がキョンシー姿の黒夜と二人で写真を撮っていた。 「なにしてんのお前ら。クラスちがくね?」 「客の指示!写真サービス!」 「ふーん」  ま、どうでもいいや。美樹は聞いたくせにすぐに興味が失せたのか、視線を前に戻して歩いていく。その横を、少し恥ずかしそうな紅が並ぶ。 「…………あ、美樹!」  ふと、黒夜が思い出したことがあると呼び止めようとしたが、時すでに遅く、もう既に二人の背中はそこになく、あるのは賑やかな客と、一緒に写真を撮らされる河合の姿だ。 「どうしたんだよ」 「いや、見間違いかもしれないんだが、」  四堂蒼が、居たかもしれねえから。その声は、肝心の美樹には届かないまま、周囲の喧騒に飲まれて消えた。 *** 「紅ちゃん、やっぱ網タイツにしない?」 「いやだ……黒タイツにする……」  午後から始まる女装コンテストの開幕を控えた紅は、特設会場の控え室で黒いタイツを握って言った。昨日用意していたストッキングが掃いている最中に裂けてしまったのだ。替えは黒のタイツか、網タイツしかないと言われて、紅は迷わず黒のタイツを選んだ。  普段美樹の命令やお願いには逆らえない紅だが、こればかりは意思を強く持って反抗する。網タイツだけは男として履けないと思ったからだ。  更衣室に入ってストッキングを脱いで黒のタイツに履き替える。鏡をみると、ストッキングよりこっちの方がしっくりきた。 「着替え終わった?」  美樹が更衣室を開ける。こくこくと頷いて、更衣室を出ると待機室とされている場所に連れていかれた。 「じゃあ、俺は審査員席に行くから、頑張ってね。紅ちゃん」 「……うん」  頑張るとは言いづらい。だって女装コンテストだぞ。一番似合う人ってことだ。選ばれる方が恥ずかしくないか? 紅はもじもじと手袋をつけた手を擦り合わせながら俯いた。その腰を抱き寄せて、顎を持ち上げると、美樹は甘い声で囁く。 「優勝したら、なんでもひとつお願い聞いてあげる」 「ほ、ほんとう?」 「ほんとほんと。頑張ってネ」  頭を撫でて解放して、じゃあねと手を振って去っていく美樹に紅は嬉しくて頬が緩む。 優勝したら、蒼ちゃんのことも、先生のことも、許してもらえるかな。なんて淡い期待を抱いて、紅は待機室の椅子に腰を下ろした。  コンテストも佳境に入った。紅は準決勝まで上がってしまっている。メイド衣装の時はロングのウィッグを被っているが、今はショートボブのウィッグを被っている。緊張で頭がほかほかする。紅のエントリーナンバーは八で、十五人の中でもトップの人気で勝ち進んでいる。 八木は健闘したが美しい顔立ちの二、三年の前に無残にも敗れ去った。一年で唯一準決勝まで残っているのは、紅一人である。 「頑張れよ、佐渡」  出番の終わった八木がそう励ましの言葉を与えると、紅はますます緊張してしまって、顔が赤く染まっていく。大丈夫かよ、と心配した八木は近くにあった自販機でミニサイズの水を購入して差し出した。 「あ、ありがとう」  一口飲むと同時に、控室に係の人間が現れて紅の名前を呼ぶ。返事をして立ち上がって、水を机に置き一歩進むと、八木に呼び止められる。頑張れよ、と拳を出されて、一瞬きょとんとした紅だったが、すぐに拳を返して、笑顔を浮かべた。 「エントリーナンバー八番! 佐渡紅くん! 前へ」  名前を呼ばれて一歩ずつ前に出る。照れたように笑うと、歓声が上がった。ステージの上にはあと二人居て、それぞれ教師とナース服を着ていた。ぺこりと頭を下げると、向こうも頭を下げる。三人で並んで立つと、新聞部のカメラがフラッシュを炊いた。 「紅!」  審査が終わって、結果は紅の優勝となって、女装コンテストの幕が引いた。壇上から降りて、更衣室に向かう途中の道でいきなり聞きなれた声に呼び止められた。その声を、紅は誰よりも知っている。 さび付いたブリキ人形のような遅さでゆっくりと振り返った紅の視界に入ったのは、汗を掻いて息を乱す四堂蒼だった。 「蒼ちゃん……」 「来い!」  急に腕を引かれて、女装コンテストの衣装のまま走り出す。後ろで八木が何か言っていたが、聞こえない。紅の頭には、なんで、どうして、だげが膨らんでいた。 *** 「ごめん、走らせたりして」 「はあ……はあ、蒼ちゃ、なんで……ここに?」  肩で息を切らせた紅と体育館の裏で人目のつかないようにしゃがみ込む。木陰になっているからか、表より少し涼しいそこで、二人は久しぶりに言葉を交わした。 「話が、したくて。お前の事、美樹の事……その、子供の、事」 「先生を通して伝えたとおりだよ」  蒼が聞きたいと思っていることは、すべて葵を通して話をしている。番になったこと、子供ができたこと、それから、もうここにはいられないことも。  美樹に子供の話をして受け入れてもらえる自信がない。一緒にやっていけると言う自身が、紅にない。それならいっそ、高木の力を借りて、彼の居ない場所で子供と二人どこか遠い地で暮らそう。そう決めた。準備が整うまでの数か月。夏休みに入る前の、丁度文化祭の後に、引っ越しを予定している。といっても、何か持ち出すと怪しまれるのでこの身ひとつでの移住になるが。  引っ越し先はもう決まっていて、海が見える場所だという。浅香産婦人科の先生が自宅まで来て子供を取り上げてくれるらしいので不安はない。  その話も全部、葵から聞いている筈だ。 「俺は、遠くに行くよ。今度いつ会えるか分からないけど、元気でいてね」 「……勝手に決めんなよ。頼むから……俺も一緒に行かせてくれ」 「蒼ちゃん……」  唐突に紅の肩を掴んで、真剣な眼差しで蒼は言った。 「紅のことが好きなんだ」  頼む。と、泣き出しそうな顔で蒼は言った。しばらくの沈黙が二人の間に降りる。周りの喧騒をどこか遠くに感じながら、紅は小さく首を左右に振った。 「尚更、駄目だよ」 「紅!」 「俺は、蒼ちゃんを不幸にしたくない」  立ち上がって、紅は蒼の元を去る。再び喧騒の中へと帰っていく背中を追うことができずに、蒼は涙を流した。 ***  教室に戻ると不穏な空気が流れていた。美樹の姿が見えない。この後の当番も一緒の予定だったのにどうしてしまったのだろう。それに、婦警の恰好では客引きもできない。  女装コンテストの会場にはいなかったし、自分のメイド服の衣装は美樹が持って帰ったと聞いた。首を傾げていると、古川がそこに座ってろと言ったので、休憩スペースの椅子に座ってじっと待つ。  午後の当番は結局美樹が来なかったことによって、紅は一度も表に立つことはなかった。  閉会の鐘がなる。外部の人間が去って、他のクラスが片づけを終える中、紅はまだ着替えをできずにいた。というのも、八木が、美樹からの伝言を預かっていて、紅は着替えずに待てと言われたのだ。  女装コンテストでは優勝したし怒られるようなことはしていない。まさかこの格好でなにかしようというのだろうか。ぐるぐる考え事をしていると、ガラリと教室のドアを開ける音がした。 「皆おつかれ~」  美樹だ。いつの間に着替えたのだろう。制服姿の美樹はニコニコと笑って全員を労う。そして、紅の前に立つと笑顔を急に引っ込めてぼそりと呟いた。 「裏切り者」  びくっと背筋が震える。表情が削げ落ちた美樹は、スマホを取り出して画面を見せる。 「これなあに?」  そこに映っていたのは、蒼と走る紅の姿だった。 4. 終

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