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第22話

5. 「これ、なんで……」 「たまたま見かけちゃった。ね、蒼クンとは会わないんだよね?」  がくがくと身体が震える。怒っている。それがよくわかる。だって、美樹はこれっぽっちも笑っていない。ずっと真顔なのだ。 「嘘つき」 「ちがっ」 「もういいよ。俺が我慢した分みんなで返してもらうことにしたから。ね?」  みんな、と言われた全員が紅の方を見ている。我慢したというのはつまり、セックスで、それはつまり……。  紅の顔が絶望に濡れる。逃げ出そうとした身体を古川が引き倒して乱暴にスカートを捲る。誰かの手がタイツを裂いて、美樹の手がシャツを脱がす。 「やだ、いやだ!! やだぁっ!!」 「はは、なんか久しぶりだね、こういうの」 「やめて、美樹、お願い。おねがいだから!」  泣きながら全力で抵抗する紅に加虐心をそそられたクラスメイト達は、その行為をエスカレートさせていく。美樹の手が後孔に伸びて、ひたりとその孔に這った瞬間、紅は悲鳴のように叫んだ。 「子供がいるんだ!」  ピタリ、と、全員の動きが止まる。紅のすすり泣く声だけが教室に響いた。時が止まったかのように誰も動けずにいると、美樹が絞り出すように尋ねる。 「子、供……? は、はは、何、言って…………マジなの?」  コクリと小さく頷く紅に、美樹は誰との? とは聞けなかった。聞かなくても分かるからだ。いくら嫉妬深く疑っても、態度や感じ方から分かる。紅は自分以外とはセックスしていない。どれだけエロい身体をしていても、どれだけ淫らな行動をしても、直感でわかるのだ。紅が他の男と寝ていないことくらい。 「あ、ああ、あああ……」  だから、だからこそ、美樹は恐れた。恐れて、――逃げた。 「美樹っ!」  河合が名前を呼ぶ。しかし美樹はよろよろとドアにぶつかるとそのまま走り去っていく。 ああ、やっぱり思った通りじゃないか。紅は泣きじゃくりながら、父親に受け入れてもらえない我が子を思って、胸を痛めた。  ざわざわとクラスメイト達がざわめく。どうすんだよと困惑する中で、唯一冷静な河合が小さくため息を吐いて、全員に向けて行った。 「とりあえずお前らは帰れ。このまんま佐渡に手ぇ出したら、冷静になった美樹に殺されるぞ」 「あ、ああ……」 「それも、そうか」  昂っていた気持ちは皆萎んでしまって、ぞろぞろと帰り支度を整え去っていく。残された河合が、鼻を啜る紅にワイシャツをかぶせた。 「それ、お前のだろ。さっさと着替えろ。いつまでもそんな恰好じゃ子供に響くんじゃねえのか?」  ぶっきらぼうな言葉に、紅は静かに頷いて制服を持って更衣室に消える。カチコチという時計の音と、布の擦れる音、それから鼻を啜る音が響いて、少ししてメイクを落とすついでに涙も拭いた紅が更衣室から顔を出す。 「送ってくわ」  河合はそれだけ言うと、紅の隣に立った。 ***  小さい頃から、なんでも手に入った。欲しいもの、好きなもの、どうでもいいもの、なーんでも。父親と母親が愛し合ってできた子供で、一人しか産めないと医者に言われていたことから二人は目に入れても痛くないほど美樹をとにかく可愛がった。  それが災いして、彼はとても我儘に育った。欲しいものはなんでも手に入れる。他人を蹴落としても構わない。その為なら手段は問わない。目的こそがすべてだった。  服、アクセサリー、恋人、ゲーム、漫画、香水、映画、車、何から何まで欲しいと思うものは与えられてきたし、そうであるべきだと思っていた。  佐渡紅に関してもそうだ。彼は絶対手に入れる。その為に誰が傷付こうと関係ない。彼が番になることこそすべて。だけど  子供ができてしまったら、紅は自分を見なくなるのではないだろうか。  行動のすべてが子供基準になる。美樹のお願いも聞いてくれなくなる。発情期だってきっと抑制剤で済ますようになる。  それじゃあ、紅にとって自分はもう、要らなくなる?  美樹は走っていた足をゆっくり留めて、空を見た。橙色の夕陽が黒に飲まれていく。金色の月が空に浮かんで、夜を照らす。  恐れた。恐れてしまった。本当は嬉しいはずなのに、紅の心がわからなくて、紅に捨てられるのが怖くて、子供ができたという紅から逃げ出してしまった。  それがどんなに罪深いか分かっていながら、美樹は走りだした足を止める術を持たなかった。  背中を薄汚いビルの壁に押し付けて星空を眺める。きらきらと眩しいそれに手が届くことは、多分一生ない。 「紅……」  小さく呟いた声は、夜の喧騒に飲まれて消えた。 ***  やっぱり、受け入れて貰えなかった。帰宅して、茫然と頭の中でそれだけが反芻する。心のどこかでは、喜んでくれるかもしれないと思っていただけに、酷くショックだった。窓辺に置いてある毬藻の水槽を眺めながら深いため息を吐く。このまま、どこかに消えてしまおう。そう考えて、紅はスマホを手に取った。 「もしもし」  電話帳に登録した高木葵の電話番号に電話を掛ける。数コールで電話に出た男に話しかけると、電話向こうで男は誰かと話していたらしく、少し待つように言われる。言われた通りに少し待つと、はい、と落ち着いた声が耳に届いた。 「いきなりすみません。先生」 『いいよ、なにかあった?』 「その、引っ越しを速めてほしくて、出来れば、振替休日の終わる明後日にはもうここを出たいです」 『……ふむ、分かった。理由は聞かないでおくよ』  急な話にも、葵は笑って答える。紅にここまで協力してくれる理由を明かしてくれることはないが、今は彼の優しさが胸に染みた。 『新しい家の鍵は駅で渡そう。高木の名前で四十代くらいの幸薄そうな男が話しかけると思うから、その人から書類と鍵を受け取って。明日朝六時に家を出るんだ。いいね』 「明日でいいんですか?」 『家の契約とかの手続き自体は終わっているからね。いつでも行けるさ、後は協力してくれる人との話だけだから、紅君が消えた後でも大丈夫』  安心してと優しく言う葵に紅は小さく返事をした。  美樹は怒るだろうか。自分を探すだろうか。知らない間に産んだ子供をなんて呼ぶだろうか。なんて考えて、紅は首を振った。自分の子供から逃げた男を、今更ずるずる思い返してどうする。好きでもないんだろう? そう自分に問いかけて、違和感が胸に残った。 『じゃあ、明日。気を付けて行ってらっしゃい』  高木葵の言葉にハッとして、はい、と小さく頷く。新しい旅だちなのだから、前を向こう。 紅は胸に残る違和感の正体に蓋をして、電話を切る赤いボタンを押した。 ***  その日の二年一組には二人の姿がなかった。二つの空席を見て、河合は短いため息を吐く。右京美樹も、佐渡紅も登校していない。それが、ヒートとかそういう事情ならまだいいのだが、文化祭の一件があるので、クラスはざわざわと騒めいていた。  河合は、紅を送った日のことを思い出す。傷付いた顔で、とぼとぼと歩く姿は酷く哀れだった。 「佐渡も来てないのな」  古川がぽつりと呟く。美樹は仕方がないとして、どれだけ酷い目にあっても懸命に登校し続けていた佐渡が理由もなく欠席するのは珍しかった。たった一日だが、休みの間になにかあったのだろうかと少し心配になる。 「オメガってホントに妊娠するんだな」  八木がぼんやりと紅の机を眺めながら言った。八木の両親はベータで、幼馴染の古川も両親はベータだ。なので、男のオメガが子供を妊娠したところを見たことがあまりない。正直な話、河合だって、街でオメガの妊夫を数回見かけなければ想像したこともなかっただろう。 それくらい、貴重な存在なのだ。 「二人とも、しばらく来ねえのかな」  八木の疑問に答えを持ち合わせていない河合は、さあなとだけ返して、空席の美樹の机を見た。今頃、どこで何をしているのか。ラインの既読もつかない男を思い浮かべて、小さくため息を吐く。  きっとそのうち、またいつも通りの日常に戻るだろう。  なんて、考えていた自分が甘かった。  もうかれこれ一週間、空席の二人を思い浮かべる。紅の家を尋ねると、いつの間にか引き払われていて、空き家になっていた。その事実を伝えようにも、美樹と連絡が取れない。彼の幼馴染の黒夜ですら、未読だというのだから異常な事だ。執事の長田は、本人が、探すなというメッセージを寄越したことから捜索をしていないらしく、位置情報は掴んでいるものの、直接的な捜索活動はしていないと言う。  緊急事態だと河合の頭が警鐘を鳴らす。紅になにかがあったと伝えなければ、他でもない美樹が後悔すると何故か確信した。  いつだったかの体育で、紅に問われた言葉を思い出す。美樹は好きか、という問いに嫌いじゃねえと答えたが、友達と思っていなければこんなに行動を取らないだろう。 授業をすっぽかして、八木と古川と黒夜の四人で手分けして街中を探し回る。美樹が行きそうな場所を隅から隅まで探し回った。  五月蠅いくらいに蝉が鳴く七月の下旬。全身汗だくになって漸く美樹を見つけた場所は、川沿いの土手にある小さな橋の下だった。 「美樹っ!」  叫ぶように名前を呼ぶ。俯いていた顔は上がることなく、ただじっと石を眺めていた。その頭にぶつけるように言葉を投げる。それがどれだけの暴力性を秘めていようが、知ったこっちゃなかった。 「佐渡が、いなくなった」  ぴくり、と身体が反応を示した。ゆっくりと顔を上げた男がこちらをじっと見る。河合は再度紅の名前を強調して、繰り返した。 「佐渡が、学校に来ていない。家も、もう引き払われてる。どこにも、いない」 一言一言耳に届くように、はっきりとそういった河合の言葉に、美樹はゆっくりと目を見開いた。 「紅ちゃんが、なんて?」 ***  赤ん坊が生まれたら、紅は自分を見なくなるだろうとか、紅のすべてが欲しいのに、子供が生まれたら子供に紅を奪われる、とか。いろいろ考えて絶望に浸っていたが、そんなことを忘れるくらいに、河合に言われた言葉に衝撃を受けた。  もう既にいなくなってるなんてずるい。謝る前に消えるなんて許せない。自分の前から去るなんて、そんなかなしいこと、あっていいわけない。  気付いたのだ。河合が紅が居なくなったと告げた瞬間に、稲妻に打たれたように突然に、答えが出たのだ。赤ん坊が紅を奪うんじゃないと。赤ん坊もひっくるめて、紅のすべてなのだと。  それらすべてを。愛している、と。  美樹は立ち上がって電源の切れたスマホの代わりに河合からスマホを奪い取ると、長田に電話を掛けた。 「もしもし。俺。今から帰るから、風呂と着替え用意して。それから、紅ちゃんがどこにいるか調べられるだけ調べて」  かしこまりました。と聞こえた瞬間通話を切る。スマホを河合の方に放り投げて、美樹は二日ぶりに橋の下から出た。 「お? 坊主、いい顔つきになってんじゃねーの。もう吹っ切れたのか?」  土手を歩く美樹に、汚らしい身なりの男が声を掛けた。今までの美樹なら汚い話しかけるなと一蹴していただろうが、なにかあったのかにこやかに笑って、まあねと答える。 「身なりだけは綺麗だからよ、周りの奴らにもの盗まれなくてよかったな。右京ブランド様様だぜ」  ははっと男が笑うと、美樹が元気でねと手を振った。後ろに付いてきていた河合が知り合いか? と尋ねるので、丁(ちょう)というここら一帯を締めるホームレスだと教えておいた。事情通でもある男は、美樹をみるや否や、盗むのはやめた方がいいと周りを諭した切れ者である。その男に毎日毎日しつこくお前は風呂には入れとかこんなところにいるなとか文句を言われていたが、そんなのが気にならないほど、美樹の心はダメージを受けていて、男もそれを分かっていて、ここに居ることを許していた。  悪い奴ではない。今度礼に食事でも奢るか。その前に風呂には入って貰わないといけないけど。  美樹はくすっと笑って、早く紅を見つけなければと急いだ。 5. 終

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