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第4話
どんな顔をして会えばいい? 白狼は、朝起きてから幾度も鏡を覗き込んだ。顔は、何度見てもにやにやと惚けているように見える。昨夜は別れ際の玄兎を何度も思い出して、なかなか寝付かれなかった。
けれど、どんな顔をして以前に今日の天気は雨。晩秋の雨は冷たく、床から寒さが這い上がってくるようだ。しかも時間が経つに連れて雨足が強くなっている。
「きっと、今日は来ないな……」
窓の外を見て白狼が呟く。
兎族は雨が苦手だ。あの長い耳が濡れるのが嫌なのか、雨音がうるさすぎるせいなのかは知らないが、小雨でもすっぽりとフードを被って雨から逃げるようにしていた。
きっと今日は来ない。
──だけど、もしかして来たら? 一人で森の中を歩くんだろうか? いつもより薄暗い森の中で、雨に濡れていたら……。
カチカチという柱時計の音がやけに大きく聞こえて、時間が経つのが気になる。もうすぐ玄兎がやってくる時間だ。白狼は落ち着かずに家の中をうろうろして、それから溜息をつく。
少しだけ見てこよう。いなければそれでいい。いたらばあ様の家まで送って行けばいい。俺は雨は嫌いじゃないし、薄暗い森だって怖くない。少しだけ……。
そう決めると、急いで雨具を用意しボタンを掛ける間も惜しんで家を飛び出す。
来ていなければいい。怖いと森の入り口で泣いていなければいい。
本当は、今日来ないのはわかってる。だけど『大丈夫』だと安心したくて白狼は雨の中、丘を目指して走った。息を切らして丘に着き目を凝らす。目当ての赤い影はどこにも見えなくて、白狼は胸を撫で下ろす。それでも視界の悪い雨の中どこかに見落としているのかも知れないと不安になって丘を下る。雨で草が滑り、急いでいるのにいつもの何倍もの時間がかかる。
道に下りても赤い影はどこにも見えなくて安心した。だけど、森を通り抜ける道はいつもの何倍も暗くて、玄兎がここを通ったらどんなに怖いだろうと思った。そう思うと、森の中で玄兎が怯えているんじゃないかと不安になって、森の中の道を駆ける。
森を抜けると、森の中で玄兎が怯えてなくて良かったと、ようやくホッと息をついた。ザアザアと激しい雨に叩かれながら、赤い屋根の小さな家の灯りを見る。白狼は灯りのついた家に帰る懐かしさに引かれて、玄兎のばあ様の家に近付いた。
中では、玄兎とばあ様が笑い合っているかもしれない。
その姿を見るだけで満たされる気がして、そっと窓から家の中を覗く。賑やかな音は聞こえず、でもどこかにいるのかもと背伸びをして覗き込むと、長い耳が目のすぐそばでフルフルっと揺れて白狼は静かに飛び上がった。
そんな白狼の姿に気付き、室内から楽しそうに見る兎がいる。玄兎のばあ様だろうか。慌てて逃げようとすると、コンコンと窓を叩き「こっちに入っておいで」と手招きをする。優しそうな柔らかい目が玄兎にそっくりだ。
酷い雨だから、もしかして玄兎が中にいるかもしれないから、何か用があるかもしれないから……たくさん言い訳をして、温かい光の漏れる玄関戸をノックする。
ドアはすぐに中から開けられ「あらあら、びしょ濡れじゃないの」と優しい声が白狼を室内に迎え入れた。兎の家は小さめのこじんまりとした作りで、天井に頭が付いてしまいそうだった。
「こうして見ると大男ね。木賊(とくさ)が帰ってきたみたいよ」
「木賊?」
聞いたことがあるような名前に思わず聞き返した。
「知ってるの? 随分若い頃に亡くなったけど、おじいさんの親友の狼なの」
「祖父かも知れません」
「あら、そう……。縁てあるのねぇ」
懐かしそうに言うと「さあ濡れた物を脱いで上がってちょうだい」と奥に促される。
温かいお茶とチーズの味のするビスケットでもてなされる。
「おじいさんと木賊は兎と狼だけれどとても仲が良くてね、その孫同士も友達になるなんてねぇ。やっぱり合うものがあるのかしらね」
「友達なんて……」
「友達じゃないの?」
ゆっくりとした口調で聞き返され、その邪気の無さに「……友達です」と言い換える。自分で玄兎を友達だと言うのは気恥ずかしく、でも湧き上がるみたいな嬉しさがあった。
「玄兎と仲良くしてあげてね。乱暴な所もあるけど、本当にやさしい子なのよ」
「俺と……、狼と友達でもいいんですか?」
ばあ様に、というよりは自分に問いかける。
家族がいなくなって間もなく、まだ兎族の大人を見上げる位の身体の頃に、寂しさと空腹に負けて草食動物の村に行ったことがある。自分より小さな狼の子どもに村の大人はパニックになり、棒で叩かれ、石を投げつけられて追い出された。けがをして岩陰に隠れていると、暗くなる前にひつじのお婆さんがやってきて「あんたの来るところじゃない」とパンが詰まった袋をくれた。
自分の存在は草食動物にとって『歓迎されない』のだと知った、強烈な記憶だ。
穏やかな声でばあ様が話す。
「玄兎と、友達でいてあげてね。兎にとって狼が全く怖くないとは言わないわ。私だって木賊にあったばかりの頃は怖くてね……。だけどほら、誰だって落ちたら死んでしまいそうな谷は怖いでしょう? 嵐や雷だってこわいでしょう? そんなものなのよ。自分より力の大きいものは怖いの。だけど、知っていくうちに怖くなくなるのよ。私も木賊のおじいさんを大切にしてくれる所や、私にも優しい所、色んな事を知ったら怖くなくなったわ。むしろ、とても誇らしくて頼りになる存在になったの」
優しい憂いを含んだ目で見つめられ、白狼も真っ直ぐにばあ様を見つめ返す。
「あなたもとっても優しい子なのね、木賊と同じ目をしてるもの。きっと、おじいさんと同じで玄兎もあなたの事が大好きよ。こんな……、こんな嵐の日にびしょ濡れになって自分を探してくれる人なんて、どれだけいるかしら。玄兎は本当に良いお友達を見つけたのね」
ふふと嬉しそうに笑いかけられて、白狼は消え入りそうな声で「ありがとうございます」と礼を言う。照れて小さくなる白狼がおもしろくてばあ様はますます笑った。
「良かったら今夜は泊まって行ってね」
遠慮して家に帰ろうと思ったが、雨足も風も強さを増してガタゴトと家を揺すっている。
暖炉には火が焚かれ、お茶とクッキーの良い匂いで満たされた室内は温かい空気で満たされている。白狼は対照的に一人で過ごす冷たい自分の家を思い出して寒くなった。
「こんな日に一人は寂しいわ。嵐が強くても白狼が一緒なら私も心強いしね」
ばあ様の言葉に背中を押されて、白狼は泊まって行くことにする。
「こんな物しかなくてごめんなさいね」そう言って出されたスープと、チーズを乗せて焼かれたパン。質素だけれど温かい食事はとても美味しかった。木賊とおじいさんのこと、小さな玄兎のこと、楽しい話題で満たされた時間。眠る時に、同じ家に人のいる安心感。
全てが懐かしく、愛しく、そしていつもはこの空間で玄兎が過ごしているのかと思うと、何だか胸が締め付けられる。白狼は優しいものに囲まれ、優しい気持ちで眠りについた。
翌朝、白狼はいつもの習慣で鳥のさえずりが聞こえはじめる時間に目が覚める。窓の外はいつもより薄暗く、嵐は昨日より落ち着いたようだが、時折強い風が家を揺すり、ポタポタと屋根から落ちる雨だれの音がしている。
玄兎のばあ様はまだ寝ているようで、家の中はしんと静まりかえっていた。
白狼はばあ様を起こさないようにそっと寝床にした大きなソファを抜け、暖炉に薪を入れる。空気を送るとすぐにパチパチと音を立てて火が大きくなり、室内を柔らかく照らした。
ばあ様の寝ているベッドを見やると、白狼は何だかゾワっとした感覚に襲われて、慌ててばあ様の側に駆け寄る。見た目はぐっすりと寝ているようだ。けれど何かがおかしい気がする。悪い予感に、寝ているばあ様の額にそっと触れてみると驚く程冷たい。
慌てて頬に触れ、ベッドの中のばあ様の手を握る。
「ばあ様、ばあ様!」
呼びながら身体を揺する。呼吸を確認しないと、と思い出して鼻に耳を近づけると微かに息をする音がして、ばあ様が呻いた。
「ばあ様!」
白狼が呼び掛けてもほとんど反応がない。息はしているけれども、こんなに冷たくて大丈夫なんだろうか? 温めた方がいいだろうか?
「ばあ様、動かすよ」
声をかけて掛布団ごとばあ様を抱き上げる。白狼が寝ていたソファにばあ様を下ろし、ソファごと暖炉の前に移動させる。とりあえずこれでベッドにいるよりは温かいだろう。
「……」
動かされて目が覚めたばあ様が何かを言い、白狼は耳を近づける。
「ありがとうね」
「そんなのはいいけど、寒くない? いつもこんなに冷たいの?」
「ちょっと、今日はさむいね、なんだか身体も重くて……」
白狼は少し話すのも苦しそうな小さな言葉に、これが普通ではないのだと知る。早く医者に診てもらわないと……。
けれど、村まで行かないと医者はいない。このばあ様を置いて呼びに行けるだろうか? 呼びに行って来てらうまでにどれ位時間がかかるんだろう。それまで、ばあ様は一人で大丈夫なんだろうか。そもそも……、俺が、狼が呼びに行って来てくれるだろうか。
不安ばかりがよぎる。だけど、今、動けるのは自分しかいない。玄兎の大切な、玄兎と同じ柔らかな手を持つばあ様を助けられるのは、自分しかいない。
白狼は玄兎を思い出し、自分を奮い立たせると覚悟を決める。
医者の所まで、ばあ様を連れて行こう。
幸いにして、自分は狼族で身体が大きく力もある。小さな兎族のばあ様を背負って連れて行くくらいはできるだろう。そうと決めたら、早く連れて行く準備をしなければ。白狼は部屋を見回し、ばあ様に声を掛ける。
「ばあ様、雨具はある? 俺、ばあ様を医者まで抱いて行くから、温かい格好と、雨具のある場所を教えて」
「ごめんね、大丈夫。誰か呼んできてくれれば……」
「雨の中移動することになっちゃうけど、俺は身体が大きいし力も強い。きっと、爺さん……木賊もそうするはずだ」
そう言って白狼は必要な物の場所を聞き出した。
手早くばあ様に温かい格好をさせて背負い、木賊が置いて行ったという古いコートをその上から着る。大きなコートは丈は長いが、密着した二人に丁度いい大きさで、白狼は木賊がこれを見越して置いて行ったんじゃないかとすら思う。
「ばあ様、行くよ。ちょっと揺れるし苦しいけど我慢してね」
そう言うと、白狼は昨日より小振りになった雨の中に飛び出した。
森の中の道は雨でぬかるみ、所々飛び出した木の根に足を取られそうだ。ポタポタと葉を伝って大きくなった雨粒が垂れる森の中を、気を付けながら足早に進む。ようやく森を抜ける頃には、雨は降ったままだが、少し空が明るくなってくる。白狼は時折ばあ様に話しかけながら、玄兎と一緒に行きたいと思いながらも一度も足を踏み入れられなかった草原の道を走った。
転ばないように気を付けながら走っていると、村が見えてくる。
村の端の赤い屋根の家が見えてくる。玄兎の家は『ケープと、ばあ様の家と同じ、赤い屋根の家』だと聞いた事を思い出す。
医者がどこなのかもわからないし、突然狼族が来たら診てもらえないかもしれない。そう考えて白狼はとりあえず、玄兎の家に向かうことにした。
「ばあ様、ごめんな、あと少しだから。とりあえず玄兎の家に向かうよ」
そう声を掛けると背中でコクコクと頷く気配がある。白狼はあと少し、と走り続けてガクガクする足に気合を入れる。
「玄兎、いるか! 白狼だ!!」
目的の家に着くと、迷惑とか驚かすというのは忘れて、玄関先でドンドンと戸を叩き大声を張り上げる。
「早く出て来てくれ!」
急かして更に大声を上げると、扉の内側でバタバタと走る音がする。バタンと大きく扉が開いて、驚いた顔の玄兎が現れる。
「白狼、どうし……」
「ばあ様が大変なんだ。医者に、医者に見せないと……」
玄兎に話す隙を与えずに、白狼が訴える。その必死な様子に、のんびりとしていた玄兎も一瞬で気を引き締めた。
「ばあ様がどうかしたのか?」
「今、ばあ様が背中にいる。医者のところに連れて行ってくれ」
「わかった」
そう言うと「ばあ様と病院に行って来る!」と家の中に叫び、そのままの格好で外に出る。家の中から母らしき声が聞こえたが、無視をして「こっちだ」と白狼を誘導して翔け出した。
「玄兎、上着は」
「そんなんかまってられるか。ばあ様は?」
「今は背中にいる。ちゃんと意識もあるから大丈夫だ」
建物がたくさんある村の中心部へと近づいていく。雨のおかげか外にいる人はほとんどなく、誰にも会うことなく病院に着く。
「急患です、お願いします!」
外で玄兎が声を張り上げると「はい、開いてるから入ってちょうだい」と声がする。
自分も入ってもいいんだろうか? ここでばあ様だけ降ろした方がいいんじゃないだろか。開けられた扉に戸惑った白狼を玄兎が促した。
「白狼、早く」
恐る恐る中に入る。奥にいた山羊族の女性が「あら」と目を丸くして驚く。そして何事もなかったかのように続けた。
「びしょ濡れね。濡れた服はここで脱いで、患者さんを奥のベッドに連れて行って」
言われた通りに上着を脱ぎ、ばあ様と自分を結わえていた紐を解いて、奥の部屋のベッドにばあ様を寝かせる。
「ばあ様……!」
「ごめんね、心配かけて……」
弱弱しい声に、玄兎が心配そうにばあ様の手を握る。
「ほら、心配は後にして。診察するからあっちの部屋で待っててね」
すぐに医者らしい人がやって来て、二人は部屋を追い出された。山羊族の女性は看護婦らしく、奥の部屋を覗いてはバタバタと何かを用意している。
入口横の部屋に戻ってソファに座ると、白狼の身体からドッと力が抜けた。今更手が震えてくる。玄兎は隣に座り、目に見えてガタガタと震えだした白狼の手を包む。
「白狼……」
「起きたらばあ様がすごく冷たくて……、寒いのに、雨の中連れて行くのはダメだと思ったんだけど、冷たいから、怖くて……。大丈夫かな? ばあ様は……」
動揺して口調が幼くなる白狼を玄兎が抱きしめる。ひどく動揺している。何があったかはよくわからないけれど、白狼が雨の中を走ってばあ様を助けてくれたことだけはわかった。
「大丈夫、白狼が連れて来てくれたから、ばあ様は大丈夫だよ。今、お医者様が診てくれてる。白狼のおかげだ。ありがとう、白狼」
ここに来るまでの間、大丈夫だろうか、本当に連れて来て良かったのかと何度も自問自答した。玄兎に大丈夫と、ありがとうと言われて、不安が溶ける。段々と身体の震えも治まって、冷静になる。
コンコン。病院の玄関扉がノックされた。ばあ様にかかりきりの看護婦さんに代わって玄兎が扉を開けると玄兎の母が来ている。
「玄兎、さっき来たのはお友達? ばあ様は? 今どうなってるの?」
いきなり質問攻めにされ「ちょっと……」と扉を閉めて玄兎と母が扉の外で話をする。その姿を見て、混乱していた白狼の頭がにわかに冴える。
こんな所にいたらダメじゃないか。ばあ様は届けたんだし、後は玄兎たちに任せた方がいい。
白狼は冷静にそう考えると、慌てて立ち上がり、着てきた木賊のコートを持って扉を開ける。驚いて目を丸くする玄兎に「用は済んだから、帰る」とだけ言って走り出す。
「白狼!」
叫んで、玄兎があわてて追いかけて来たけれど、無視して走り続ける。小雨になった雨の中を走って、走って、玄兎の家を過ぎ村はずれまで来る。途中まで追いかけて来た玄兎はもう見えない。スピードを落として振り返ると赤い屋根の家が見えた。
本当に、ケープと同じ赤い色だったな。母様と玄兎はよく似てたな。ばあ様……、俺が心配しなくてもみんないるから大丈夫だ。
後ろ髪を引かれながら村を後に、森に向かって走る。
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