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第5話
嵐の日から数日が過ぎた。何日過ぎたのかは数えていないからわからない。
あの日、びしょ濡れで帰り、軽く身体を拭っただけでベッドに入った。何も手につかなくて、何も考えたくなかった。思ったよりも身体は疲れていて、あっという間に眠りにつき、気が付いた時には夜だった。けれど身体がだるくて起き上がれず、また眠りについた。そのまま翌日も寝て過ごした。
風邪を引くなんて久々すぎて弱気になって、『このまま死ぬなら、その前に玄兎のばあ様を助けられて良かった』とか考えた。
けれど、2日目の朝は天気も身体も回復していた。身体を拭い、2日ぶりにまともな食事を摂ると、昨日までの悲観的な気分が嘘の様に晴れてくる。びしょ濡れのまま放置していた木賊のコートをきれいに手入れし、泥だらけのブーツもきれいにした。
翌日はきれいになった木賊のコートを持って、ばあ様の家の様子を見に行った。家は白狼が飛び出して行った時のままで、軽く部屋の中を片付け、テーブルの上に木賊のコートを置いて、代わりに自分の雨具を持って帰る。
ばあ様がどうなったのかは気になるけれど、村には行けなかった。あの日、狼が来たと噂になっているかもしれない。もしかしたら、玄兎や母様、ばあ様もそのせいで困っているかもしれない。ばあ様を連れて行ったことに後悔はないけれど、その後どうなったかすら知ることができないのはもどかしい。
きっとばあ様もすぐには戻ってこない。これから来る厳しい冬を一人で越すには大変だろうし、あの家に帰ることなく村で暮らすかもしれない。
そう思うのに、白狼はそれからも毎日同じ時間に丘に登り、ばあ様の家の様子を見に行かずにはいられなかった。
今日も、丘に登って草原から続く道を眺める。濃い緑だった森も草の深い草原も、いつの間にか冬の準備をしている。特に生い茂った木の葉で薄暗かった森は、緑から赤や黄色に色を変え、あっという間に葉を落として見通しが良くなってしまった。雲一つない真っ青な高い空では太陽がさんさんと陽を降り注いでいるが、ヒュウと吹く風が冬に向かう森の寂しさを伝えて来る。
待っても誰も来ない道を眺めるのを諦めて、白狼は森の道に下り、そのままガサガサと落ち葉を踏み荒らしてばあ様の家に向かう。
ばあ様の家に近付くにつれて白狼の足が速くなる。
時折、落ち葉を踏み荒らした跡がある。火を使う煙の匂いがする。『もしかして』その予感に駆け出した。
ばあ様の家の煙突から煙が上がっている。家の側に見える、薪を抱えて歩く赤いケープ姿。
はっきりと姿の見える距離まで近づいて、白狼が足を止めた。
「玄兎!」
大きな声で呼びかける。
「白狼」
赤いケープ姿の玄兎が振り向いて白狼に笑いかける。少しの間合わなかっただけなのに嬉しさと、懐かしさで鼻の奥がツンとする。
「なんか、すごい久しぶりな気がするな」
話しかけて来る玄兎に近付く。
「本当に、……」
聞きたいこと、話したいことはたくさんあるはずなのに、言葉が詰まって出てこない。
「ばあ様のこと、ありがとうな。今は元気になって家にいるよ」
「そっか。元気になったなら良かった。様子に行こうかと思ったけど……。噂になったりしてないか? 困ったりとか……」
「心配性だな、平気だよ」
笑って答えられて、ホッとする。
「ばあ様、今は元気にしてるけど、白狼が連れて来てくれなきゃ危なかったって言ってた。今回は風邪みたいなものだったけど、もう年で心配だから、冬の間は村で一緒に住むことにしたんだ」
「そうか……、それならばあ様も安心だな」
落胆を隠して笑顔を作る。冬の間は玄兎と会えなくなるけど、ばあ様の為にはその方がいい。
「それでさ、……あっ」
玄兎が何か言いかけた時、ヒュウと強い風が吹いて玄兎のケープを揺らし、抱えていた小枝を飛ばしていく。
白狼はとっさにつむった目を開けて、驚いた。
赤いケープのフードが落ち、見慣れた長い耳が見える、けれど、見慣れているのは柔らかい灰色の……。
ドキンと大きく心臓が跳ねた。
「真っ白だ……」
驚きが口をついて出る。
ピョコンと立った耳と髪がサワサワと風に舞い、光を受けて銀色に光っている。
「あー……、これ、」
「すげぇ、きれい……」
呆けたままの白狼が呟く。
「おまっ、なに言ってんだ……!」
白狼の言葉を反芻して照れて真っ赤になった玄兎に、白狼は我に返る。目の前の玄兎は、声も形も玄兎のものだが別人のように見える。
「きれいだから、きれいって言ったんだ。……お前、玄兎、だよな?」
「……そうだよ!」
「その反応は玄兎だな……」
真っ赤になって怒る姿にホッとして、だけど心臓はドキドキと跳ねたままだ。
「これ、どうしたんだ?」
そう言うと、ふわふわと光る耳に触れてみたくて玄兎の耳に手を伸ばす。手が触れる直前でピクピクとくすぐったそうに耳が動いて、手を止める。
「耳……、触っても、いいか……?」
恐る恐る許可を取ると、真っ赤なままの玄兎がコクリと頷いた。驚かさないように、出来るだけ優しく耳に触れる。
フワリと毛の感触に触れそうになると、耳がピクリと動くのが可愛い。ギュっと手を握り目を瞑って構える姿に手を止めると、ピクピクと耳が動いて白狼が触れるのを待っている。
驚かさないように……。
柔らかくて温かな耳の毛に触れる。くすぐったい感触はそのままだけれど、思ったより耳が温かくて、玄兎に触れているんだと意識した。そのまま、すっと耳を撫でる。思った通りの感触にゾクゾクして、いけない物に触れているような気になり手を離そうとすると、玄兎の耳が手を追いかけて寄り添った。
白狼はびっくりして反射的に耳から手を離す。だけど完全に手を離すのは名残惜しくて、ふわふわと陽に透ける髪を撫でた。こちらは、耳より少し硬くなめらかな感触で、思わず髪を梳きたくなる。白狼の手の動きに合わせて、長い耳がピクピクと動いた。
どうして、どこもかしこも……こんなに可愛いんだろう。灰色の、見慣れた色の時もこんな触り心地だったんだろうか。触ってみれば良かった。
「……もう、いい?」
小さく呟かれた言葉に、ハッとして手を離した。
「あっ、ごめん……」
照れくさくて気まずい。この、なんと言ったらいいか解らない、全部が玄兎に向かっていくような、この気持ちも伝わったんじゃないかとドギマギする。
「ちょっと寒いな。家、入ろう」
玄兎がクシュンと小さくくしゃみをして震え、家の中に誘う。
薄暗い家の中で見ても、玄兎は真っ白で、まるで玄兎自身が光っているみたいだ。何となく近寄りがたくて入り口に立ち尽くす白狼を見て、玄兎がおかしそうに笑う。
「何でそんな所に立ってんの? こっち温かいよ」
そう言って、ストーブの前に置かれたソファに誘われる。ぎこちなく近づいてソファに座る。その間もちょこちょこと玄兎は動いて温かいお茶を入れて渡し、そのまま隣に座って自分も休んだ。
そんな玄兎の一挙手一投足を、白狼は気にしない振りで、全身で意識している。
この、慣れない見た目のせいだ。色が白くなっただけなのに……、白くなったから? 視界に入ってしょうがない。
いつも口数が多いわけではないけれど、いつも以上に何も言わない白狼に玄兎は落ち着かなくなる。いつもの白狼に戻って欲しくて、玄兎は話しかけた。
「この家、落ち着くだろ。なんか好きなんだよな。ばあ様、白狼が様子見に来てくれて、たくさん話をしたって嬉しそうだった。雨だったけど、俺を探しに来てくれたんだろ? ありがとな。……ばあ様、連れてきてくれたのも、いくら白狼でも大変だったろ」
「いや……、兎族は小さいし平気だったよ。もしかしたら、俺のせいでばあ様の具合悪くなったかも知れないし……」
「そんなわけないだろ。白狼いてくれて良かったって、悪いことしたって気にしてた」
そこまで言って、玄兎はお茶のカップを置いて白狼に向き直る。それから、空いている白狼の手を両手で包み、握りしめた。
白狼の心臓がドキンと跳ねる。
「せっかく来てくれたのにごめん。白狼のおかげで助かった。感謝してる。春になって森の家に帰ったら、また遊びに来て」
「え……」
「これ、ばあ様からの伝言。手も……ばあ様からの……」
視線を外して早口にまくし立てる。すぐに離そうとした手を、白狼が逆に握って引き留めた。持ったままだったカップを置いて、両手で玄兎の手を握る。
「えっと……。俺も色々嬉しかったし楽しかった。また遊びに来てもいいですか?」
「いいって言ってる……」
「じゃあ、また遊びに来ます。……これ、ばあ様に伝言。頼める?」
「わ、かった」
「なんで、そんなに真っ赤なの?」
手を握り話しているうちに白狼の心臓の鼓動は落ち着いて、ぎこちない玄兎をいじめたくなってくる。
「恥ずかしいだろっ。手、握るなよ」
「手まで、ばあ様に伝言だよ?」
「わかってるって……、今はもういいだろっ」
「じゃあ、今はいいけど」
あんまりやると本当に怒り出しそうで手を離す。
真っ白なのに、真っ赤になって……、白くなったから、今まで以上に赤くなってるのが丸わかりなんだよな。だけど、むくれて怒っているはずの玄兎は隣に座って近付いたまま席は立たない。
「あのさ、ばあ様は冬の間はここにいないけどさ、俺は来るから……」
「え、冬に一人で? 大丈夫かよ」
「兎は冬には強いんだよ。何で白くなったと思ってんの?」
「そっか、換毛……、冬毛なのか。でも雪の中わざわざ来なくても……」
「ばあ様が! 大事にしてる鉢植え気にしてるから、世話しに来るの。お前に、会いに来るわけじゃないからなっ」
乱暴にそう言うけれど、耳までピンクに染まって見える。白狼の胸の中がザワザワとうるさくなる。
「だけど、お前が会いたいなら、ここに来ればいい……」
玄兎の声は最後にいくほど小さくて聞き取れない呟きになる。
「来ても、いいの?」
「来ればいいって言ってる」
ジワリと嬉しさが広がる。それって、俺に会いに来てくれるって、思ってもいいんだろうか?
「本当に来るよ」
「いつも勝手に来てるだろ」
「そう言われればそうか。俺のために、来てくれるんだ?」
「……そうだよ、だから、白狼も来いよ!」
やけくそ気味に言い捨てる。その、姿が可愛くて堪らなくなり、思わず抱きしめる。ピキッと玄兎が凍ったみたいに固くなるのがわかって、そんな所すら可愛いと思う。
「……うん、待ってる」
返事をして、あ、と思った時には涙が盛り上がって来た。冬の間は、もしかしたらこの先もずっと、会えないかも知れないと思っていた。
嬉しい。
何だろう、この感情は。泣きたくて、抱き締めたくて、離したくない。嫌われたくない……。ジワリジワリと、でも容赦なく身体に侵食してくる、強烈な感情。
ギュっと抱き締めたまま鼻をすする白狼に玄兎が問いかけた。
「泣いてんの?」
「泣いてない」
反射的に答えて、これじゃ余計に泣いてるみたいだと思う。……実際、泣いているわけだけど、認めるのはなんか悔しい。
「そっか」
思いがけず優しい声で呟いた玄兎が、そっと白狼の頭を撫でた。
白狼はますます、涙が止まらなくて困る。
「……白狼の家も教えろよ。ばあ様のこと知らせたかったのに、どうしたらいいかわかんなくて結構困った」
「うん」
「白狼の家見てみたい」
「うん」
「泊まりにも行ってやる。そしたら、寂しくないだろ?」
「……うん」
寂しいわけじゃないんだけど、と思いながら肯定する。寂しいよりも、玄兎といられるのが嬉しい。でも、それを口にするのはあまりに恥ずかしすぎる。
ああだけど、寂しいのかも知れない。
でなければ、こんなに恋しいなんておかしい。会いに来てくれる、それだけで泣きたくなるなんて……。
「あのさぁ……、白狼、でっかい割にはよく泣くし、結構甘えん坊だよな」
そんな事ない、と言いたいのに、言ったら涙声がバレてしまう。
大きな白狼の身体を、小さな玄兎が抱きしめる。
「しょうがないから、俺が甘やかしてやる」
小さな、やさしい手のひらが、白狼の頭を撫でた。
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