8 / 39

第7話

 エヴァリストは自己嫌悪というものにあまり縁がない。  それは下種な商売をやろうが、人非人といわれようが、強大な存在に接してどれだけ自分をちっぽけだと思おうが変わりなかった。たとえ世界の終わりに直面しても、自分だけは自分を信頼できると考えるのがエヴァリストという人間なのである。  生まれもった魔力と才能のせいかもしれないし、ほかの原因があるのかもしれない。エヴァリスト本人にはどうでもいいことだった。  しかしそんな彼もひとつ自覚していることがある。ごくまれに自己嫌悪せざるをえない事態に陥ることはエヴァリストにもあって、そんな時は自分でも思いもかけないくらい衝動的に、考えなしに動いてしまうのだ。  前にそんな事態に陥ったのは元相棒が捨てた試作品を盗まれた時で、エヴァリストは盗人を追って海を渡りさえしたのだった。いろいろ言い訳をつけてはみたが、衝動的で思慮に欠けていたのはこっそりと認めている。だからなおさら、エヴァリストは自己嫌悪に陥るような事態を嫌悪していた。そんなものはあらかじめ回避するに限る。  ――だがそれも、回避できればの話にすぎない。  まったく、僕としたことが。  エヴァリストはふらふらと身づくろいしながら舌打ちした。  全身だるい。力が入らない。尻も腰も痛いし、他の場所も痛い。しかも痛いだけでなく――  肌には見える範囲だけでも昨夜ジラールがつけたにちがいない痕が点々と散らばっているし、着ていた服はひどいありさまだ。  ジラールはまったく覚えていないといったが、エヴァリストにもいつ終わったのかはあいまいだった。数時間はもつれ合っていたのは確実で、それもずっと一方的にいかされていたような気がする。  不本意だ。  ジラールがよこしたシャツは肩が余り、袖もすこし長かった。  意味もなくむかっ腹を立てながらエヴァリストはとりあえずボタンをとめ、自分の服を拾う。上着の隠しにはいつもの七つ道具が入っているから、寝台に腰をおろしてひっぱりだした。  回路魔術を使う人間の例にもれず、エヴァリストも道具を持ち歩く癖があった。本来なら銀糸で回路を刺すための針を使い、裂けた布をちくちく縫っているとジラールがぬっと顔をのぞかせる。精霊がその足元にまとわりついていた。いつのまにかジラールにも懐いたらしい。ごく普通の魔力しかない人間を精霊が認めるのは珍しい。  ジラールは針を持つエヴァリストに眉をひそめた。 「何をしている」 「おまえが破ったから縫ってるんだろ」つけつけと答える。  相手は真顔になり、柱によりかかってぼそりと「悪かった」という。  エヴァリストはわざとらしくため息をついた。 「まったくだ」 「もう少し休んでくれても俺はかまわないが」 「僕は嫌だね」 「ほしいものはあるか?」 「親切なことだな。それなら水をくれよ!」  でかい図体が視界から消え去るとエヴァリストはそっと息を吐いて体の緊張を解いた。膝に道具をおとし、両手で顔を覆う。 「おいおいおいおい……何なんだいったい?」  一度誰かと寝たところで何が起きるわけでもない。一夜の相手などこれまで山ほどいただろう。だがこの――腰から背中にかけて上ってくる疼きはなんだ。 「魔力転移が関係している……? まさか――ね……」  こっそりとひとりごとをつぶやく。普通なら、魔力に関しては人並みのジラールに少々分けてやったところで、エヴァリストにはどうということもないはずだ。たとえそれがものすごいセックスと同時に起きたとしても。  腹立たしいことに、目覚めた直後にジラールの手を借りたとき、彼に触れられた場所がぽっと熱をもっている。いまも何かを期待するように体の奥がぞわりとうごめく。 「あああああ」エヴァリストはうめき、天を呪う悪態をつきかけて言葉を飲みこんだ。 「なにこれ……この僕が――かんべんしてよ……」  水差しを持って戻ると、エヴァリストは寝台に座ったまま、膝に両肘をついた奇妙な姿勢で固まっていた。ジラールは大丈夫かと声をかけようとして、相手が寝息を立てているのに気づいた。  まともな恰好で寝かせようと両肩に手をかけると、そのままころりと横に転がり、目覚める気配もない。はみだした足を寝台にいれ、落ちた服や何やらをよけて毛布をかけると、エヴァリストが連れてきた動物が寝台に跳び乗り、クンクン鳴きながら金髪に鼻づらをつっこんでいる。 「邪魔するな。寝かせてやれ」  声をかけるとうらめしそうな眼つきでジラールを見上げたが、主人を起こすのはやめたようだ。 「悪かった。俺のせいらしい」  ジラールはひとりごち、無意識に手を伸ばしてエヴァリストの髪を撫でた。柔らかくなめらかな手触りだった。こんな風に他人の髪に触れたのは久しぶりだと、ふいに思った。  エヴァリストが目覚めたのは日も高くのぼったころだった。ジラールは上階で武器を手入れしていた。軽い足音で上がってきたエヴァリストの様子には普段とちがうところはなく、繕いおえたらしい自分の服を身につけている。  口を開くやいなや発した言葉は「おまえ、ハメられただろう」だった。  ジラールは無言で肩をすくめた。 「おまえがひっかかった西側の蟻地獄、ただの間抜け落としだぜ」  エヴァリストは戸口にもたれて腕を組み、入ってこようとはしなかった。動物の尻尾が襟巻そっくりに巻きついている。ジラールは掃除を終えた銃を置いた。 「依頼主からルートの情報があった」 「おまえが間抜けじゃないなら依頼主が間抜けか」 「部分的には正しかった。魔術は避ける予定だったしな」  お互いになぜそこにいたのかも問わなかった。双方で事情を察していたとしても、はっきりたずねるのはすべてが終わる時だけだろう。エヴァリストは鼻を鳴らす。 「おまえもヤキがまわったな。第一、どうして最初失敗したんだ?」  ジラールはまた肩をすくめた。「その通り、焼きが回ったんだろう」  へえ、とエヴァリストは相槌ともあきれたともつかない響きをもらした。 「ロビンソンは謁見の狙撃なんて不可能だといったが、僕はそうは思わない。ここ十年でおまえ以上の狙撃手には会った事がない。おまえなら成功しても不思議じゃない」  聞きなれない名前にジラールの眉があがった。  「ロビンソン?」 「最近のお気に入りらしい。顔におまえみたいな傷跡がたくさんあった」  エヴァリストは自分の右頬に指をあてる。 「どうせ内通者がいるんだろうが、そいつも一杯食わされてるか、もう一、ニ枚裏があるかだ。将軍が川向こうの水場を獲って二十年たつ。狙ってるのは抵抗組織(レジスタンス)だけじゃない――おい、耳を噛むなよ」  エヴァリストの首のうしろから動物が顔をひょいとのぞかせた。頭を撫でられると満足げにまた尻尾に顔をつっこみ、見えなくなる。 「そいつの名前は?」  唐突なジラールの問いかけにエヴァリストは眼を丸くした。 「決めてない」 「決めてやれ。おまえを主人だと思ってる」 「そうかな?」エヴァリストはニヤッと笑う。「僕の魔力を飽きるまで喰ったらいなくなるさ」  ジラールは油で汚れた両手を拭くと戸口へ歩いて行った。エヴァリストはジラールが近づくとかすかに体をうしろへ引いた。ジラールはかまわず「おまえが寝てるあいだずっとうるさかった」とだけいう。 「そうか」  いきなり毛のかたまりがぽんと跳んできた。エヴァリストが首からひっぺがして放り投げたのだ。ジラールは反射的に両手で受けとめた。一瞬爪が腕にしがみつき、すばやく生きた毛皮が腕から肩まで上る。そのまま首のうしろにおさまったが、くすぐったい。くくった髪が引っ張られる。縛っている革ひもを噛んでいるらしい。 「こいつは俺のせいだとわかっているらしい」とジラールはいう。 「おまえは覚えていないのに?」  エヴァリストは小馬鹿にしたような口ぶりだった。 「精霊に名づけをすると面倒だからな。おまえにやるよ。ただの人間のくせに気に入られてるようだし。おまえも獣みたいなやつだ。気が合うんだろう」 「エヴァリスト」  ぷつりと紐が切れる音がきこえた。動物はジラールの硬い髪を蹴散らしつつ肩の上におさまった。ジラールはかまわずエヴァリストの正面に立った。美貌の男はまた少し体をひいたようだった。  急にもやもやと落ち着かない気分がわきあがり、ジラールはとまどった。恐れられるのには慣れていたが、この男にはそう思われたくなかった。 「今回は感謝する。恩に着る」  エヴァリストはジラールの視線を避けようとするかのように首を左右に振り、両手をひろげて芝居がかったしぐさをした。 「僕の作った罠でおまえが死んだら後味悪いだろうが」  そしてきびすを返して階下へ降りた。  どうやら精霊はジラールのもとに留まるようだ。  獣同士気が合うんだな、とジラールに放った言葉を胸のうちでくりかえし、エヴァリストは馬に乗った。つば広の帽子をひきおろす。あとで銃工をたずねる予定だったから、ちょうどいいともいえる。精霊の多くは水の流れと同様に武器工房も嫌った。名無しのこいつもきっと同じだろう。  エヴァリストが名づけをした精霊がいないわけではない。たとえば今向かっている場所には十年以上前に拾った精霊がいる。  ジラールの家がある支流に沿って東へ向かう。木立や畑が途切れ、農夫も見当たらなくなって、やがて放棄された集落が前方に現れる。農地は乾燥して砂に埋もれていた。土埃が風に巻きあげられ、晴れているのに空は白っぽくみえた。  ここには昔軍隊がやってきて、古来から住んでいた部族をさらに東へ追いやり、その後開拓民たちがやってきた。彼らは苦労してこの地を灌漑したが、予想されたより地味は悪かった。おまけに虫害や竜巻に立て続けに襲われて、不運続きだからとついに見放された「元・町」だ。  ときおり新しく住もうと試みる者もいるが、しばらくたつとうまくいかずにあきらめて出て行ってしまう。それでますますこの場所は不運で、加えて不吉だということになる。    とはいえ最近の不運の原因はエヴァリストにもあるかもしれない。金髪の男は廃屋の横で馬を降りると、しなる枝をのばした細い木の幹に馬をつないだ。 「驚くかもしれないけど、いい子にしてて」  馬にささやきかけると、一本しかない通りを歩いてかつて広場だった場所まで行く。土埃が舞い上がってうっとうしく、帽子のつばを深く下げた。広場の中央には枯れ井戸がある。  頭上でなにかが奇声をあげる。鳥の声のはずだ。しかしうかつな者にはひとの声、ひとの言葉のように聞こえるかもしれない。 「あいかわらず元気そうだな」エヴァリストは誰にともなくいった。「僕はここだよ」  羽ばたきが聞こえるが、そちらには目も向けず枯れ井戸の蓋に手を伸ばす。だがエヴァリストが触れる前に、蓋は生きているかのようにわずかにずれた。 「出ておいで。ひさしぶりだね、クルート」  最初に鼻先が出て、つぎに蓋をおしのけて、にゅっと猫に似た生き物が顔を出した。エヴァリストの手をなめ、一気に井戸から飛び出して足元で伸びをする。一方頭上の羽ばたきはエヴァリストの背後にいったん降り立ったが、また羽ばたくと枯れ井戸の上にとまった。こちらは白い冠毛を逆立てた鷹のようなすがたをしている。 「アイヴィ。きみもね」  名を呼んだとたん、一羽と一匹が自分とのあいだに<力のみち>を作ったのをエヴァリストは感知する。目をとじるとまるで橋を渡すように自分の魔力が彼らの中を通り、ふたたび戻ってくる感覚を味わった。生き物たちの繊細な気分が自分の内側に入りこむと様々な事柄を教えてくる。風の匂い、過ぎた雨季の様子、土地の下を流れる水、最近ここに来た見慣れぬ者……  この地はエヴァリストの精霊たちの縄張りだった。新しく来た者も彼らがすぐに追い出しにかかるのだ。元相棒もこの場所は知らない。  エヴァリストは一羽と一匹を従えて通りを端まで歩く。廃屋のひとつに足を踏み入れ、半分壊れた壁を乗り越える。隣の建物は基礎に石が積まれており、実は見た目ほど壊れていない。  クルートが暖炉の前に寝そべって喉を鳴らした。エヴァリストはブーツで床のある一角を押した。  じりじりと暖炉の底が下がり、抜ける。地下へ続くはしごがあらわれるとエヴァリストは帽子を脱いで炉棚にのせる。待っていたといわんばかりにアイヴィが帽子の横に陣取った。  精霊を金庫番にしているなんて古老に知られた日には、さぞかし小言をいわれるだろう。  はるか昔、精霊の名づけについて教えてくれた老人のことを思い出し、エヴァリストは苦笑した。  銃工の作業場はさまざまな種類の物音がまざりあって騒がしかった。たがねで叩く音、旋盤と金属が触れる音、怒鳴り声、シューっと蒸気が噴き出す音。さらに窯の熱気が全体にたちこめている。中にいる者たちはみな汗どめを首とひたいに巻いていた。 「おいおい、兄さん、今度の設計図、アレぁなんだよ」  そっくりの顔をした男がふたりエヴァリストの前に立ちはだかる。灰茶色のツナギに縞のシャツを着た服装もそっくりなら、そろって片手をあげるしぐさもそっくりだが、あげた手が左右対称なのだけがちがう。  話しているのは左手をあげた方で、名はドノヴァン。横にいる双子の兄はシルヴァーだった。同じ工房の者ですらたまに取り違える兄弟だが、エヴァリストがまちがえたことはない。外見はそっくりでも才能と魔力の気配はまったく異なるのだ。 「だって前に元込め式の製造をはじめたっていったじゃない」  そう答えると兄の方があげた手をこんどは顎にやった。 「金属で薬莢を作るってぇのはいい考えだ。ガス圧に吹っ飛ばされずにすむし、どうしてこれまで思いつかなかったのかわからん。でももっと小さくてもいけるんじゃないか? 火薬を無駄にするぞ」  ふたりともびっしりと顎髭を生やしている。少年の頃から火と熱にさらされて働いてきたせいか、老けてみえるが、実際はけっこう若い。 「隙間に回路を仕込みたいのさ。他にも仕込みはするけどね」とエヴァリストはいう。 「何とも物騒だがなぁ、まあいいさ」とドノヴァンがうなずき、エヴァリストが渡した金貨が兄弟のあいだを行き来した。  これまで何度もやったように、エヴァリストは工房の一角を借りると精霊魔術で遮蔽を張った。  誰ものぞきこめない状態にすると、銃工たちが注文通りに途中まで仕上げた武器をいじりはじめる。工房をもたないエヴァリストは、この手の注文仕事をニコラスのような信用のおける宿と職人の作業場でこなしていた。夜は紙と計算尺をいじり、昼間は工房で銀と鉛を扱う。どちらの場合にも金貨は役に立つし、ときどきはエヴァリストが回路を組むために考案する仕組みが職人たちに歓迎される場合もある。  回路の設計と製作に関してはよく几帳面だといわれたものだが、エヴァリストは自分の限界を心得ていた。回路魔術もいけると自負していたのは20代の初めまで、天才肌のアーベルに出会ってからはあっさりとその自負を返上した。しかし記憶と応用にはそれなりに自信があるし、元相棒は武器が嫌いだったから、どうやって武装に回路魔術を積むかの試行錯誤はだいたいひとりでやってきた。  この世の生き物がもつ魔力がうみだす<力のみち>をそのまま利用する精霊魔術の使い手は、歴史の浅い回路魔術をとかく馬鹿にしがちだったが、エヴァリストの頭にそんな考えがうかんだことは一度もなかった。どちらも同じ道具にすぎず、たまたま自分はどちらも使えるのだから、ラッキーだとは思っている。なにしろ単に魔力が多いからといって魔術回路が設計できるわけではない。そして回路が組めるからといって、それを積んでいる機械を一から作れるわけでもない。人間の能力はさまざまなのだ。  その中にはひとの命を奪う技術に優れた者もいる。  ジラールを砦から連れ帰って十日がすぎると、やっとエヴァリストの自己嫌悪もおさまってきた。まちがっても表には出さないが、今回は馬鹿なことをしでかさずにすみそうだと安堵する。名付けなかった精霊もまだジラールのところにいるのか、それとも野生にかえったか。少し冷える夜は首に襟巻があればいいのにと思うこともあったが、精霊というのは気まぐれなものだ。 「なにしろ獣だからね」とエヴァリストはひとりごちた。  この夜はドノヴァンとシルヴァーに夕食をおごり、その後ニコラスの店へ戻るために川べりを歩いた。職人たちはニコラスの店を高級すぎると敬遠するので、もっとくだけた酒場へ行ったのだ。工房で使い走りをする少年にも行きわたるだけ銀貨をばらまいたから、全員がそこにいたはずだ。  工房の間借りも明日には引き払うつもりだった。そろそろ適当な相手をみつけて遊んでもいいだろう、と考える。あるいはヘルマンの屋敷にでも行くか。  満月より少し欠けた月が高くのぼり、川を照らしていた。川波に光が反射するのをみて、安っぽい輝きだとエヴァリストは思う。  なぜか道のことを考えていた。川沿いの道をずっと行けばどこへ着くのか考えていたのだ。支流のところでそれて、さらに先へ進めばジラールの家があるだろう。この月はジラールの家も照らしている。  妙だな、とエヴァリストはぼんやり思った。道なんてただの線、点と点をつなぐだけのものだ。なのにその先に目的があるというだけで、周囲の景色がちがってみえる。どこへ通じるともわからない道と、誰かがいる場所へ通じる道では、距離の感覚も違ってくる。あてがないと道行はずっと長く感じるのだ。  エヴァリストはそれをよく知っていた。だいたい子どものころから自分の道はそればかりだと思う。  だから始終退屈しているのかもしれない。  がらにもない内省をしていたせいか、背後をつける気配に気づくのが遅れた。相手はこちらへの害意をむきだしにしていたから、いつもなら姿が見えない距離でもわかっただろう。魔力で他者の感情を読み取れるエヴァリストにとってはある意味で無防備すぎ、だからただのごろつきだと思った。  実際、カード勝負で巻き上げすぎた若者や、名前もろくに覚えていない相手と一晩遊んだあとで夫ないし妻を名乗る男女から脅迫されることはわりとよくあった。とはいえ最近はおとなしかったはずだから、いったいどこのどいつだ。まだ距離がすこしあるが、通りを渡ってニコラスの店までたどりつけば――  そのときブーツの足首を、うしろから飛んできた何かがかすめた。  エヴァリストが硬直したように立ち止まったのはほんのわずかな時間だったはずだ。しかし襲撃者にはそれで十分だったらしい。耳のすぐそばで風を切る音がして、チリっと痛みが走った。とっさに頭をかがめたエヴァリストをかすめるようにして、また頭上を風切り音が越えていく。  エヴァリストは走り出した。背後にいた誰かの走る音もきこえる。走りながらただのごろつきにしては使うものが洒落ているなと思う。さっきの武器がかすった耳のうしろからぬるりと血が垂れる。あの風切り音からして、飛んできたのはどこかの部族が使う曲がったナイフかもしれない。狙った獲物を倒してから、投げた者に戻ってくる武器だ。妙なものが塗ってなければいいが、洒落た武器を使う人間はだいたい、たちが悪い。  そして健脚でもあるらしい。すぐうしろに襲撃者が迫るのがわかる。耳のあたりに痛みがやってきた。どうも最近痛い目にあうことが多いじゃないかと、こんなときだというのにエヴァリストは頭の片隅で考えていた。  痛いのはごめんだよ。  そして自分の脚がまともに動いていないのをやっと自覚した。  やはりさっきのあれは何か妙なものが塗って――  背後で「うっ」と誰かがうめいた。  ついであまり気持ちのよくない音が聞こえた。獣の骨を砕くような鈍い響きだった。エヴァリストは反射的に目をつぶった。

ともだちにシェアしよう!