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第8話
ジラールが背後から襲撃者の頚椎に一撃を加えると、相手は鋭いうめき声をあげて土に崩れた。その手から片刃の武器が落ちる。
ジラールは肘ほどの長さほどのそれを足で蹴った。武器が道の端まですべっていくのを横目に、襲撃者の両腕をつかむとずるずると川べりまでひきずっていく。上着の隠しを探ってから、一段高くなった土手の上に意識のない男を持ち上げ、そのまま川の方へ突き落した。それからすばやく通りに戻って襲撃者の武器を拾い、刃を触らないように手ぬぐいで巻くと、また川へ投げ捨てた。
ここ数日、町の違和感に注意していたのは正しかった、とジラールは自分の勘をあらためて信頼する。砦からなんらかの報復がある可能性は予想していたが、それが自分に来るのか、自分を救出したエヴァリストへ行くのかまでは予想できなかった。今回はエヴァリストで当たりだったようだが、それにしても変わった武器を使う敵だ。
何かがおかしかった。しかしおかしいという気分だけがあり、正体がはっきりしない。
将軍の暗殺については確認済みだ。ジラールは依頼主の代理とニコラスの店で二度目のコンタクトをとっていた。組織は再度の武器の調達に手間取っていたが、依頼はまだ有効だった。砦の軍隊にも目立った動きはみえない。しかし失敗した計画を見直すにつけ、将軍の新しい側近をはじめ、与えられた情報には齟齬が多すぎた。ハメられただろう、というエヴァリストの声はジラールの記憶にまだ鮮やかだ。砦、抵抗組織 以外にも、動いているものがある。
いったい、騙されているのは誰だ。
通りに戻るとエヴァリストは両手と肘をついてうずくまっている。ジラールが耳元に口を寄せて名を呼ぶと、緩慢な動作でこちらを向く。目の焦点が会わず、耳の下の裂傷から血がぷつぷつと噴き出して襟の内側へ垂れていた。ジラールが傷に袖をあてるとゆるく頭を振るような動きをして、聞き取れないほど小さな声で何事かいった。
「なんていった?」
ジラールが顔をよせるとエヴァリストは嫌そうに眉をしかめた。やっと聞き取れた。
「……素手で血に触るな」
「わかった。自分で押さえてくれ」
ジラールはそのままエヴァリストの背中と膝の下に腕をつっこみ、ひょいと抱き上げると早足で歩きはじめる。
「おい――ジラール……やめ――」
うめき声とともに抗議らしき言葉が聞こえてきたが、完全に無視してそのまま運ぶ。ニコラスの店の酒場は店じまいしていた。開放されていない奥の玄関にまわると向こうから扉がひらく。主人が意外そうに眼をみひらいている。
「ご一緒とはお珍しい」
エヴァリストは観念したように眼を閉じ、ぴくりとも動かなかった。
「こいつが借りている部屋があるだろう。案内してくれ」
「ジラール様もお泊りで?」
「いや、俺は――」断ろうとしたものの、ジラールは考え直した。
「部屋はあるか?」
「最上階なら空いていますよ。エヴァリスト様のお隣です」
「そこでいい」
「ではご用意します」
エヴァリストが借りていたのはニコラスの店でも最上等の続き部屋だった。厚い絨毯が敷き詰められて足音もせず、調度も灯りも整っている。借主を寝台へ横たえ、ジラールは上着に手をつっこんで金貨を出す。
「突然すまなかった。足りるか?」
「もちろん。怪我をされていますか? お医者様は?」
主人は動じた様子もなくたずね、ジラールの手に鍵をふたつ――この部屋と隣のと――落とした。
「酔って転んだだけだ。布と手桶を借りられるか」
「続き部屋の方に用意してあります」
「すまない」
「御用があればいつでもお呼びください」
主人は静かに出て行った。廊下を歩く足音が遠くなる。
「冗談じゃない……」
すぐさま寝台から声があがった。しかし語尾はもつれて弱々しい。ジラールは無視して続き部屋の扉をあけた。浴槽の横に整然と並べられた水差しやリネン類を取って戻ると、エヴァリストが寝台の上でもがいている。起き上がりたいのに、体が自由に動かないらしい。
「それ以上服を汚したくないならじっとしていろ」
焦点が定まらない眸がジラールをみあげた。
「よりにもよってニコラスの店におまえといるなんて、この――」
そのあとの言葉がスムーズに出てこないようだった。エヴァリストは眉をしかめ、形のいい唇をゆがめている。何やら悪態をつきたいようだが、うまく口がまわらないのだ。
まったくこの場にそぐわないのにジラールの中にふと愉快な気分が生まれた。口から先に生まれてきたような、いつもおしゃべりな男が言葉に詰まっているのは気の毒だったが、今日はそれを可愛らしいと感じたのだった。
こんなエヴァリストが珍しいからだろう。たいていは自信たっぷりで、うるさいくらいよくしゃべり、それによってつねに他人の先手をとろうとする男が弱り切っている、その落差のせいなのだ。
もっともこの男のそんな様子はついこの前も見たのだった。それも原因のひとつだろうか。ジラールはふだん、他人の虚勢に興味をひかれることなどまったくなかった。
「出血は止まったか?」
ジラールは寝台の端に腰をおとして横たわった男を見下ろす。耳の下の傷からはまだうっすらと血がにじんでいる。清潔な布をあてがって血で汚れたシャツを脱がそうとすると、エヴァリストはのろのろと腕をあげた。明らかにジラールを阻もうとしているのだが、いつもの力も勢いもない。
「手当てするからおとなしくしていろ」
横たわった男はぼやいた。
「ナイフに毒が塗られていた…と思う。動けないのはその……」
「動かなくていい」
「いいから――触るなって……」
「触らないと手当できん」
こちらを睨んでくる眸にかまわず背中をもちあげて袖を抜く。濡らした布で首から肩にかけて汚れた皮膚を拭うと、エヴァリストの唇がひくついて、肩がびくりと動いた。むきだしになった鎖骨から肩甲骨にジラールの視線は吸い寄せられた。体の奥で鎌首をもちあげるように何かが立ち上がる気配がある。
気をとられるな。ジラールは首をふり、裂傷の具合をみた。ほとんど時間もたたないのにたちまち紫色がかっているのが気になった。通常の切り傷ではない。
「精霊魔術が使えるんだろう?」
あいかわらず睨みつけてくるエヴァリストにたずねる。
「自分の治癒はできないものなのか?」
エヴァリストは唇をかんでジラールを上目でみあげ、唐突に「例の精霊は?」と聞き返した。
「俺の家にいる。おまえと一緒でないと流れを越えられないらしい」
「そうか……」
「あの精霊が必要なのか」
「僕の魔力を一度外部に出してから戻せば〈力のみち〉が作れる。精霊に名を与えればできるだろうが、僕ひとりでは……自家治療は無理だ」
「魔術とは縁がなくてわからんが、このまえおまえは俺を治したんだろう。どうやって?」
すると突然エヴァリストの白い顔が赤く染まった。肩を支えるジラールの腕をはらいのけ、口早にまくしたてる。
「だいたいおまえ、どうしてあそこにいたんだ? なんで都合よく僕を助けているんだ? あの襲ってきた野郎はどうした――」
「川に捨てた」ジラールはあっさりと答える。
「なぜ助けたかというと、おまえが俺を砦から連れ帰ったからだ。報復があるかもしれないと思ってな」
「報復?」
「川向こうのな。だが今日の男は砦の軍隊らしくなかった」
エヴァリストは不満そうだったが、いったい何が不満なのかジラールには読みとれなかった。
「うしろから僕を刺したいやつなんてどこにでもいるさ」
「物騒だな」
「おまえの方こそコソコソ僕をつけてたのか? 予想しているなら先に教えてくれればいいだろう」
「今日まで町でおまえをほとんど見かけなかった。今晩は――ついていた」
「そりゃ……どうも――」
どうやらこれでエヴァリストの気力がつきたらしい。急に声が力なく先細り、だらりと枕に頭をおとす。眼の下に黒いにじみがあらわれている。
ジラールの胸のうちに不安がじわりと染み出した。いったいどんな種類の毒だろうか。医者か治療者を呼ぶべくジラールが腰をあげようとしたまさにその瞬間、低く長いため息が横たわる男の唇からもれた。
「ジラール」ゆらりと重たげに白い手首がもちあがる。
「あとで忘れてくれ」
自信のなさそうなかすかな声だった。
何が、とジラールがたずねる前にエヴァリストは上半身を起こした。だるそうな動作だった。そしてジラールの肩をぐいっとつかむと引き寄せて――唇を重ねた。
予想もしていなかった行為に瞬間ジラールは硬直した。そのすきに首にエヴァリストの腕がまわり、下唇が軽く噛まれ、隙間から舌がさしこまれる。
その一瞬、ジラールの内部に〈道〉が通った。
道、としかいいようがなかった。あるいは川のようだといえるかもしれない。大河だ。勢いをもった流れのようなもの、形ある存在のように幅広く深く感じられる何か――たぶん、力そのもの。背中から足先、そして体全体を高揚が駆けめぐり、圧倒的な全能感がわきあがり、そしてある方向へ、何かをめざして力強く流れていく。
いつのまにかジラールは眼を閉じていた。腕を伸ばしその先にある体を寝台に押し倒す。ひんやりとした皮膚をつかみ、唇を強く押しつけて相手の舌をさがす。と、自分の内側を走っていった道、あるいは川の流れが逆流して、向こう側を満たしていくのがわかった。ぞくぞくと腰から背中を快感が駈けのぼる。手のひらに触れる裸の胸を撫であげ、なめらかな皮膚に体の中心が堅くなるのを感じて――突然我にかえった。
すぐ下にエヴァリストの顔があり、ジラールをみつめていた。たしかにその眼つきに覚えがあると思う。吸われて赤く色づいた唇が誘うようにうすく開き、艶めかしい。半分伏せた瞼の下に濃く欲情の影がおちている。
上にのしかかって相手を片腕で抱いた姿勢のまま、ジラールの指は傷口があったはずの場所へのびた。裂傷はきれいに消え、いまや切られた跡がうすい線になって残るだけだ。〈治療〉の効果はこんなに素早く出るものなのか。
傷跡をなぞるとかすかに汗ばんだ肌に震えがはしった。金髪が枕の上に散らばり、ジラールの体重で抵抗を封じられたまま、こちらを見上げてくる挑発的な眸に欲望がわきあがるのを意識する。ずいぶん……
「前も――」ジラールは低くつぶやいた。
「こうだったのか? 俺をおまえが、その……」
「これが僕には一番手っ取り早いんだ。魔力を動かす〈力のみち〉をつくるには」
エヴァリストの声はかすれていた。
「ちくしょう、精霊魔術なんかくそくらえだ。回路を組む方がましだよ」
「エヴァリスト」
「今回はおまえにひとつ借りだ。これでおあいこだね。どけよ」
自分の腕の中でエヴァリストが震えているのをジラールは悟った。
急に相手がひどく脆い、はかない存在に感じられた。何年も前から知っている人間なのに、まるではじめて会う人物のように。しかもふと、このままこの体を抱いているのが正しいような、あるべきことのような気もするのだった。驚くほど自然でしっくりした感じがあるのだ。触れた体と体、絡みあった場所と場所がぴたりと重なって、やたらと熱く――
「うっ……」
ふいに耳を強く引っ張られてジラールはうめいた。
「おい――」
「ジラール……」
腕の中の男の息は熱く、肌はかすかに汗ばんでいる。
「これは――僕の手品のうちでは他人に知られたくない類のものだ。忘れてくれ。僕と……」
エヴァリストは続きを迷うかのように言葉を切った。ふだんは次から次へと言葉が出てくるくせに。ジラールは鑿で刻まれた彫刻のような鋭い美貌を間近でみつめ、また慣れない驚嘆にかられた。たしかにきれいな男だと知っていたが、こんな風に興味をひいたことはかつてない。
「僕とおまえの温かい友情に免じてな」
「エヴァリスト」
「どいてくれ。はやく――どけ!」
声は小さかったが、なかば悲鳴のように聞こえた。
ジラールはゆっくり腕を解き、体を離した。
黙って立ち上がると自分の鍵をとって部屋を出る。ふりむかないでうしろ手で扉をしめた。内側から鍵をかける音が聞こえた。隣室に入り、暗いなかで寝台に腰をおろした。
くすぶる物足りなさとその底にある凶暴な衝動から意識をそらそうとして、失敗したのがわかった。友情とは恐ろしい言葉だとふと思う。一瞬脳裏にうかんだ光景は友情とは程遠く、しかも名付けられなかった。
その夜の夢はジラールの欲望を満足させたが、にもかかわらず、夜明けよりずっと早い時間に目覚めたときの後味は悪かった。もう一度眠って、朝食に階下へおりたとき、隣室はすでに空だった。
エヴァリストは夜明けに引き払ったという。
「ジラール様に伝言がございまして」とニコラスはいった。
「動物はしばらく預かっておいてくれ、とのことでした」
「引き取りに来ると?」
「いえ、これだけです。問題がございましたか?」
ジラールは首をふった。
「とんでもない。いつもありがとう」
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