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第9話
皿とグラスが床に落ちてけたたましい音を立てた。
「おまえ……なにぶつかってきやがるんだ!」
「なんだと、それはこっちの――」
しんとあたりが静かになった中、酔っぱらいが別の酔っぱらいにいちゃもんをつける声が響く。エヴァリストの真後ろでの口喧嘩だ。ぶつかったことに端を発する他愛ないきっかけらしい。どちらの酔っぱらいもろれつがまわらず、しかもどちらも腰に銃をぶら下げている。煙でいぶされた壁に酔っぱらいの影がおちるが、元の壁の色がわからないくらい汚れているおかげでほとんど目立たない。それでもエヴァリストはその影をみつめている。待ち人はまだ現われなかった。
うるさいな。
エヴァリストはグラスを片手に指でコツコツとテーブルを叩いた。ニコラスの店ならこんな騒ぎは許されない。今朝、予定より早くチェックアウトしたのを間違ったとは思わないが、面倒はふえたかもしれない。
自由とは、自分で選択できること、動くことが可能な領域をつねに残しておくことだ。ニコラスの店に居たくないという理由で依頼人との面会にこちらを指定したのはエヴァリスト本人である。内心ため息をつきながら、エヴァリストは背後に魔力の触手をのばした。
どちらの酔っぱらいも何の防御も持たない輩で、心に触れるのは簡単だった。まるで穴のあいた靴下のようだ。その靴下は眼の前にいる人間への敵意でぱんぱんにふくらんでいる。エヴァリストは魔力の触手で糸をほどくように靴下の形を変えた。
たちまち糸の隙間から敵意が抜けていき、どちらの靴下も急激にしぼんでしまう。
背後でまたガチャンと音がする。
「おまえら、いいかげんに出ていけ!」
どうして自分が立っているのかわけがわからなくなった酔っぱらいたちが途方に暮れて立っているところに、店の亭主がやってきたのだ。急に元気がなくなった酔客が連れ出され、安酒場に喧騒が戻る。
ほらね、とエヴァリストは内心でつぶやく。精霊魔術だって時々は使えるものさ。
精霊魔術なんてちょっとした手品にすぎない、というアーベルの言葉はなかなか要を得ていると、いまだにエヴァリストは思うことがある。エヴァリストがこの手品を使えるのは生まれ持った魔力が多いせいだが、子供の頃は感情をぶつけてくる周囲の人間たちにいいようにふりまわされて迷惑だと感じていたし、成長してからは編み物か粘土細工のように他人の弱い心を操るやり方を身につけたとはいえ、意識のどこかにはいつも、だから何だというのか、という思いがあった。
それに多少の手品が使えたところで、人の心はやはり混沌としてわけがわからないものだ。精霊魔術の「原理」をつかんでいる魔術師はいまだにいない。エヴァリストが一番得意とする治癒能力にしても、やり方に制限がありすぎて逆に弱点になりかねない中途半端なものだ。こんな技術に信をおいて何になるというのか。
もっともエヴァリストがかつてつるんでいたアーベルの国では、精霊魔術の才能は大変な尊敬を受けるだけでなく、魔術師は王家にも深く関わっていた。かの国では、この手の魔術は学校で教育し、制御を教えられるものらしい。そのせいなのだろう、かの国の精霊魔術師たちはずいぶんと尊大で、アーベルはエヴァリストが精霊魔術を使えることに劣等感を持っていた。本人は回路魔術の始祖の直系のくせに。
そのアーベルと別れたのはもう八年前になる。それまでの日々は、アーベルの発明とエヴァリストの才覚の組み合わせがうまくいったときなら、なかなか楽しかった。エヴァリストが鉄壁を誇る砦の防御を構築できたのは、アーベルの才能に接した年月があったからこそだ。
取引で全面に出ていたのはいつもエヴァリストひとりで、表に出るのを嫌がったアーベルはいつも陰の技術屋だったから、別れた後もエヴァリストの商売に支障はなかった。しかし口うるさい平和主義の相棒がいなくなって暇を持て余したせいか、防御装置ばかり納品していた過去と違って、この数年は武装を作ることが増えている。武装はいつも需要があった。
依頼人というのはつねに勝手で、あれもこれもと注文をつけるが、エヴァリストはできることとできないことをはっきりさせている。回路魔術は直接肌身につける武装にはもともと向いておらず、素材ではなく機構に作用する。回路魔術は鉄を黄金に変えるわけではない。武装に使えばそれは、武器の構造を通して使う人間に作用するが、元の武器の素材や仕組みを変えるものではない。設置するだけで効力を発揮する防御装置とは違うのだ。
今回の依頼人も、砦の防御を破る「魔銃」などとあっさりいったが、それが「持ち主が思いのままに扱えて、何でも破壊できる銃」だとしたら、ただの伝説に過ぎなかった。もともと絶対の防御なども存在しないのだ。どんなものについても絶対などありえない。
エヴァリストが作るのはもっと実用的なものだし、適切なやり方で扱う必要があった。もちろん使う人間に左右されるところもある。
使う人間――そう、ジラールのような使い手なら、確実に……
脳裏に寡黙な男の顔が浮かび、エヴァリストは無意識に身じろぎした。何年も前から知り合っているのに、ついこの前の「事故」以来、こいつのことは思い出したくなかった。
そう、思い出したくないはずなのに、何かのはずみに頭に浮かんでくるのも苛立つのだ。そのたびに体の奥が期待じみたものでうごめくのも腹が立つ。奪われるのも泣かされるのも嫌悪しているはずなのに、まったく自分が信じられない。昨夜も、もしジラールの方で引かなければいったいどうなったか……
おまけに彼の家に精霊を置いてきてしまった。「動く水」を越えられないのなら、いずれは連れ出してやらねばなるまい。魔力を喰えないと精霊は弱る。精霊を死なせると後味が悪いと思ってしまうのは、きっと昔古老にいい聞かせられたからだろう。ジラールを見捨てるのが後味が悪かったのもそのせいだ。あいつが――獣じみているからだ。
「だからあのとき、一緒に来ていいかときいたのに」
「何がだ」
思わず口から出たひとり言に予想しない返事がきて、エヴァリストは眼をあげた。
待ち人は以前と同様、不透明な殻に入ったような印象だった。それで接近に気づかなかったのだろうか。前に会った時と同じように羽振りのよくない商人の身なりで、ほかにこれといった特徴がない。周囲をみまわし「うるさいな」と顔をしかめながらエヴァリストの前に座る。
「ニコラスの店じゃないのか」
「気分を変えたくてね」
「それで、頼んだものの首尾は」
「せっかちだな」
エヴァリストは相手のグラスをみつめた。
「その前に聞きたいことがあるんだけどね」
「なんだ」
「昨夜僕が〈丘のナイフ〉を投げられたのは、どういうわけかな」
男はぴくりともしなかった。
「なんだそれは」
エヴァリストは相手をみつめ、わざとらしく眼を回して見せた。
「まさか、砦を破壊する武装を注文しておいて〈丘の部族〉について知らないわけじゃないだろ?」
「当たり前だ」
男は苛立ったようにグラスを手の中で回した。
「川向こうの水場を将軍が押さえる前に住んでいた連中だろう」
「彼ら、変わった武器を使うんだよ。投げると手元に戻ってくるナイフでね。もちろん知ってるよね」
「知っていたらなんだというんだ」
「なるほどね」
酒場の扉が開いた。流しのヴァイオリン弾きが入ってきたのをみて喧騒がわずかに静まる。最近の流行り歌を告げる声が響き、陽気なメロディが流れはじめた。
「なあ、あんたの所属、〈Q〉だろう?」
エヴァリストは歌うように、川のこちら側で近年野心的に動く勢力の名を出した。男は舌打ちをした。
「契約書で名前は確認しただろうが」
「いやあ、〈Q〉が丘の部族とつながっているとは思わなかったよ。しかし自由連合や議長はどこまで噛んでるの?」
「あんた、話を聞いているのか?」
「聞いてるよ。何しろ昨日死にかけたからさ」
今度は男は眼を瞬いた。
「おい」
「だから〈丘のナイフ〉っていっただろう。彼らの毒は効くんだよ。馬鹿だなあ」
男を驚かせたことに満足してエヴァリストは笑った。
「よかったね、納品前に僕が死ななくてさ」
男の殻が崩れはじめ、やっと動揺が伝わってくる。こうなると人間は話すつもりもないことをうっかりしゃべりがちだ。案の定「こっちはレジスタンスに加担した方を――」という言葉がもれるのにたいしてエヴァリストは鼻で笑った。
「ふん。やっぱりね」
グラスの中身を飲み干す。チップをはずんでいるので、そこまで上等の酒ではないが、妙なものは入っていない。
「丘の部族は将軍とおなじくらいレジスタンスを嫌っているからな。それでジラールを助けてしまった僕が邪魔だった?」
「それは手違い――」
「じゃあ狙いはジラール本人か。なるほどね」
タン、とグラスがテーブルに叩きつけられた。男はついに開き直ったようだった。
「ああ、そうだとも。しかしあんたジラールと組んでるのか? 初耳だぞ」
「まさか」エヴァリストは瞼をわざとらしくパチパチさせた。「腐れ縁は否定しないが、組んだことなんて一度もないし、今後もその予定はないね」
「だったらなぜ――」
「行きがかり上ってやつだよ。タイミングが良かったんだ。――いや、悪かったというべきかな、あんたらにとっては」
男は言葉の真偽をはかるようにエヴァリストをしばらくみつめていたが、みずからを納得させるようにゆっくりと頭を振った。
「わかった。今はそういうことにしておく。だが確かに、我々はレジスタンスの目論見を排除できなかったのが不満だし、あんたのせいでそうなったのも良くは思っていない」
男は自分の所属について誤魔化す気はなくなったらしかった。〈Q〉は大陸の西から移り住んだ商家が中心の勢力で、ここ数年は活発に小競り合いに参加しては土地や販売ルートを強引に買い、評議会で大声をあげるようになっている。
「へえ。僕の契約とは何の関係もないだろう」
「そうはいくか。だいたい川のこちら側にジラールが戻ること自体――」急に男は口を閉ざした。「ともかくあんたは契約を果たす。そうだな?」
念を押すようにたずねる。エヴァリストは軽く顎をそらした。
「もちろん」
「この際だ、もうひとつ引き受けないか?」
「何を?」
男は唇をほとんど動かさずにいった。
「ジラールの排除」
エヴァリストは表情を変えず、ただ男をしげしげとみつめていた。あまりにも長い間みつめているので男の方が居心地悪そうに顔をそらす。
「どうなんだ?」
「あんたが馬鹿なのか、〈Q〉が馬鹿なのか、どっちだ?」
エヴァリストはため息をついた。
「僕は殺し屋じゃないよ。そんなのは専門職に頼め」
「あんたが作る武器はそれを可能にするものだと思っていたが」
「だったらそれでジラールを殺れば?」
男は肩をすくめた。
「たしかに。文句はないな?」
「ただの道具だ。好きに使えばいい」
まったく、どいつもこいつも。
内心のぼやきを聞きながら、酒が足りないなとエヴァリストは思う。もうこの男との会話はもう終わらせたかった。
「完成品の受け渡しについてだが」
「明後日の夜、川で」エヴァリストは立ち上がる。そしてふと思い立ち、付け加えた。
「今回の注文は砦の防御を破壊するものだ。可愛らしい拳銃や素敵な小銃とちがって反動も大きい。使う人間には注意が必要だ。受け渡しのとき教える」
男はかすかに眉をひそめた。不安に駆られでもしたのだろうか。何をいまさら、とエヴァリストは鼻で笑った。
「お望みの「魔銃」は砦――宮殿の防御維持に使われる魔力を吸いとって逆噴射し、無効化する。弾薬もボルト機構も特別製だ。命中すれば人も吹き飛ぶが、撃つべきなのは「枢」の中心でなければならない。僕はサービス過剰なんでね、照準の調整はしておいた。射程距離に入りさえすれば誰でも撃てる。しかし宮殿の防御がなくなれば砦はがぜん攻めやすくなるからな。レジスタンスも丘の部族も張り切るだろうね」
いい捨てると背を向けて歩き出した。酒場の喧騒の中でQの男はまだ座ったままでいた。エヴァリストは魔力で感覚を拡げ、背を向けたまま男を観察する。探知されているとも知らず、男はぼそりとひとりごちた。
「我々は先手を打つさ。砦は獲る。だが将軍には生きてもらう。そうでなければ困る」
そういう話か、と酒場の外へ出たエヴァリストは馬を預けている納屋へ向かった。昨日とちがって周囲を警戒していたが、害意を持つ者が近寄る気配はない。
Qと、レジスタンスと、丘の部族。丘とQはつながっていて、砦にはそれぞれの内通者がいる。レジスタンスも何者かが支援してるだろう。ジラールがレジスタンスから直接仕事を引き受けるとは思えなかった。
そしてQに自分を紹介したのだろうヘルマンの屋敷は、もう寝床に使えない。
やれやれ、とエヴァリストは内心でつぶやいた。残念だとは感じていない。こういう風に利用されるのは趣味ではないのだ。ヘルマンにしても、議長の地位を維持するにはそれなりの代償が必要なのだろう。
それにしても今晩はどこで寝ようか。
とたんに脳裏に寡黙な男の顔が浮かび上がり、エヴァリストは舌打ちした。手綱をひくと馬が機嫌をとるようにこちらに長い顔をすりよせてくる。
「おまえじゃないよ」と撫でてやり、体の芯に居すわる疼きを無視しようとした。
そして思わず、頭をかきむしった。
「……あああああっもうっ――」
昔あれほど古老に怒られなければ、満足いくまで千回は天を呪ったのに。
エヴァリストは悪態を飲みこむと馬にまたがり、川沿いの道を目指した。
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