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第10話

 エヴァリストが置いていった生き物が突然ぴんと耳を立てた。北側の壁に走り寄り、壁にそってうろついては鼻先を隙間に突っこもうとする。  ジラールは眺めていた地図を畳むと階上の部屋へ行った。壁にとりつけた梯子段をあがって屋根に備えた見張り台へ出る。川が流れる音が聞こえ、地上からは虫の声が響く。風はほとんどなく、空気は澄んでいた。遠くで町の明かりがぽつぽつと光るが、そろそろ真夜中とあってその光もとぼしい。  家の中に戻ると鳴き声がきこえた。あの生き物が壁際をうろうろしながら恋しげに鳴きつづけているのだ。警戒している様子はない。主人を呼んでいるのだろう――まだ名前ももらっていないというのに。  うんざりしたジラールは生き物を抱き上げるとまた見張り台へ出た。生き物はたちまち肩に乗り、首に尻尾をまきつけてくるものの、静かになった。  動物は人間よりはるかに知覚が鋭い。おまけにこの生き物はただの動物ではない。エヴァリストは単に精霊と呼ぶが、魔術師でない者はたいてい、精霊動物という。古くからこの大陸に住む部族たちにとっては土地の守り神のような存在らしく、当たり前だがめったに見かけるものではない。  エヴァリストが砦からジラールを連れ帰った日以来、そんな珍しい生き物が家の中でゴソゴソしている状況にジラールは慣れてしまったが、いくらか不思議にも思っていた。食事時にはジラールに寄ってきて食べ物をねだるのでわけ与えていたものの、エヴァリストによればこの生き物は「魔力を喰う」らしい。ごくふつうの人間にすぎない自分の周囲にいても大丈夫なのか。そもそもふつうの人間には馴れないものらしいのだが。  見張り台の暗闇でジラールはじっと動かなかった。肩の動物も動かない。待っているのだろう。  ジラールも待つことには慣れている。父の農地を離れて「あの人」に拾われてからというもの、ジラールの仕事は多くの場合、待つことに費やされた。待つことはこの稼業では重要なのだ。  けっして静かに待てない者がいる一方で、少年のときですらジラールは倦んだ様子を見せなかったので、何を考えているのかとよくたずねられたものだった。今回の仕事をあの人から持ってきた男に聞かれたこともあるし、ロリマ―に聞かれたこともある。 「ふつうのことだ。作戦の内容や、腹が減ったとか」とジラールは答えた。 「ほんとに?」ロリマーはジラールの答えに笑い出した。 「おまえは幸運なやつだ」  成功しようと失敗しようと、ジラールは事後に何度も仕事の詳細を思い出す。何度考えてみても、砦での狙撃の失敗は、将軍のすぐそばにいたロリマーによく似た面影の男に動揺したせいだ。しかしなぜだろうか。親しい友人ではまったくなかったし、最後に会ってから十数年経っているのだから、他人の空似と考えるのが妥当だろう。  ロリマーはジラールが知る人間のなかで、はじめて「あの人」を裏切った男だった。  今回の仕事については感傷的になりすぎているな、とジラールは分析する。良いことではなかった。  馬の蹄が土を蹴散らす音が聞こえるまで、どのくらいの時間が経ったのか。  外壁に灯した明かりにエヴァリストの金髪がちかりと光った。馬が水辺を渡るまで見届けてからジラールは階下へおりた。肩で丸まっていた生き物はジラールの腕まで降りてくると、期待するように目をくりくりさせている。 「よう、ジラール……っと、おい」  足音と同時に動物はジラールの腕から抜け出し、声の主へ飛びついた。エヴァリストの胸にしがみつくと顔に鼻面をよせて匂いをかぎ、あげく細い舌をのばしてぺろぺろと舐める。 「おいおいおい、僕を喰うな」  エヴァリストは笑いながら動物を抱きかかえた。かすかに顔が上気している。ほのかに酒精の香りがして、めずらしいことに少し酔っているのかもしれない。ジラールを見上げている表情は、昨夜ニコラスの店にいたときのぐったりした様子とはうってかわって、いつもの飄々としたものだった。瞼の下を覆っていた陰もみじんもない。  ジラールは安堵し――同時に、昨夜の緊張と物足りなさをありありと思い出してふと硬直した。動物は今度はエヴァリストの右肩によじのぼって耳たぶを舐めている。その下側にあった傷はいまや完全に消えているようだ。ジラールの内側でふたたびもぞりと鎌首をもたげるものがある。無視してきびすを返し、部屋の奥へ入った。 「ずっとおまえを呼んでいたぞ」 「悪いね」  水差しを持ってきたジラールにエヴァリストはへらへらと笑う。 「てっきり逃げたかと思ったのに。あまり僕の魔力に馴れると野生に帰れなくなってしまう」 「だが、そいつがいればおまえは昨日も何とかなったんだろう」  おだやかにジラールが返すと、エヴァリストはかすかに顔をこわばらせた。 「まあね。だがそうしたら最後僕はこいつの所有者になってしまう。ずっと面倒をみなければいけないし、こいつはこいつで僕の都合にふりまわされる」  エヴァリストは肩から生き物をおろすと腕に抱えあげた。勝手知ったる様子で長椅子に腰を下ろし、水差しの水でどこからか布巾を取り出して濡らすと、さんざん舐めたり甘噛みされた耳や首を拭いている。向かいに座ったジラールは眼をそらした。これまで何度も見ているはずなのに、今晩はエヴァリストのしぐさがやたらと気に障る――不快なのではなく、ただひっかかる。 「それはそうと、昨夜は面倒をかけて悪かった」  エヴァリストはジラールの気分を知ってか知らずか、謝罪とも礼ともとれる言葉をさらりと告げてから「ただこの件、いろいろ町で面白い話を聞いてしまってさ」と言葉をつづけた。 「おめでとうジラール、昨夜の本当の狙いはおまえだったらしい」  ジラールは眉をあげた。 「砦の報復?」 「いや、昨夜のは丘の部族だ。やつら、レジスタンスが嫌いなんだ」 「例のナイフか」ジラールはうなずいた。 「そう。さらにめでたいことがある。おまえ、〈Q〉にも邪魔に思われているぞ」  ジラールは腕を組んだ。〈Q〉は動きが派手なので話にはよく聞いていたが、ジラールが引退を考えはじめる頃に登場した新興勢力でもあり、直接関わったことはなかった。 「〈Q〉が噛んでいるのか」 「僕が襲われたのはどうも手違いだったようでね」 「なぜわかる」  エヴァリストは面白くもなさそうにつぶやいた。 「そりゃあ聞いてびっくり、僕が〈Q〉から注文を受けているからさ。まあ、今日やっと確かめたんだけどね」 「そうか」  ジラールは腕を組んで視線をおとした。頭の中で川と砦をめぐる勢力図を組み立てる。ふと眼をあげると、エヴァリストがしげしげとこちらをみつめていた。 「ジラール、なぜ今回の仕事を引き受けたんだ? おまえ、引退するつもりだっただろう」  エヴァリストからこんな問いかけを受けるのはめずらしい。  知り合って数年というもの、この男は予告なくふらりと現れては前置きもなく好きなだけしゃべっていったが、自分の過去についてほとんど話さなかったし、ジラールのこともたずねなかった。もっとも、ジラールについて知る価値のあることははじめに調べていたにちがいなく、それをいうならジラールの方も同じだった。  妻を亡くしてからというもの、周囲のあらゆる物事にこれといった関心を失いかけていたジラールにとって、この男の声は娯楽のようなものだった。たぶんエヴァリストはエヴァリストで、ジラールからなにか得ていたにちがいない。たとえそれが茶飲み友達との雑談で、孤独を紛らわしたいだけであったとしても。 「レジスタンスに恩人が協力している。彼の頼みを断れなかった」 「恩人って、もしかしておまえを拾った例の有名な人か?」 「ああ」 「馬鹿だな、おまえ」エヴァリストは上目でジラールをみてうすく微笑んだ。「いくら恩があったところで、結局物騒な連中に変わりはないよ。何だってその例の人はレジスタンスに肩入れなんかしているんだ」 「さあ。引退したからじゃないのか」 「あらゆるやり口で金を稼いで引退したら正義のために使うなんて、いい人生だね。僕には無理そうだ」  口調は嫌味にも皮肉にも、あるいは感嘆にもとれた。  ジラールは反論しなかった。かつて少年のジラールを拾った「あの人」は、いまだに昔の習慣で誰にも名前を呼ばれることがない。だがひと昔前「あの人」は川のこちら側で最大の権力者だった。その権力者が自由連合に自身の権力を預けると決めてから、有名無実だった評議会の決定が実効力を持つようになって、この一帯は安定したのだ。その後も抗争はたびたび起きているが、どれもただの小競り合いどまりで、軍隊が争う戦争にはなっていない。 「そのレジスタンスだけど、おまえに仕事を頼んでおいて、一気に勝利に出ようって感じ?」 「俺は作戦には関与していない」 「砦はいまや大人気物件だよ」  エヴァリストはまだすこし酔っているようだ。  上気した顔とこちらをみつめるまなざしからジラールは眼をそらす。どうも落ちつかない。動物はエヴァリストの腕の中でいつのまにか眼を閉じて、ぐっすり眠ってしまったらしい。 「Qが居抜きで欲しがってるし、Qが砦を手に入れたら漁夫の利を得られないか――と思ってる連中もたぶん評議会にいる。丘の部族はというと、もちろん彼らの段丘を取り返したい。一方砦の宮殿には、いまひとつ調子のよくなさそうな将軍の近くに、切れ者で生意気で自信たっぷりの新しい側近がいて――」  ふとジラールはエヴァリストの話を遮った。 「将軍は具合が悪いのか?」 「公式な情報はない。だが確実に健康を損ねている」 「どうしてわかった」 「おまえを助けた日、じかに会ったからさ」  そういってエヴァリストは肩をすくめると、突然話を変えた。 「なあ、かならず当たる銃というものをどう思う?」  今日のエヴァリストは質問が多い。 「あれば便利だな」とジラールは答えた。 「もしそんなものができたとする」エヴァリストは歌うようにいう。 「戦場でもどこでも場所を選ばない。どんなところでもすぐに使える。おまえがそれを手に取るだけでいい。狙った相手は、銃がかならず撃ち落としてくれる」 「それは魔術の話か」 「そうだね」  うつむいてエヴァリストは腕の中の動物に顔を近づけた。まるで人間の赤ん坊のように、動物が立てる寝息をきいているのだった。そっともちあげて床に置くと頭を撫でる。毛皮の生き物はぐっすり眠っていて、動かされたのにも気がつかなかった。 「そんな銃があれば、僕だっておまえを殺せるかもしれないよ」 「そうだな」 「僕はいつだってのんきなものさ。おまえが死ぬかもしれない武器を作って、それでこっちの仕事は終わり、あとは高みの見物だ。だけどおまえが僕を殺すのは簡単だから、おあいこってところか?」 「仕事で死ぬつもりはない」  ジラールはおだやかに答えた。 「いつもそうだ。そして、これが最後だ」 「へえ」  エヴァリストは最高の冗談を聞いたといわんばかりににやにやと笑う。 「これで本当に引退するんだ?」 「ああ。のんびり釣りでもする」とジラールは答える。 「笑わせるな。釣りだって?」 「おまえこそ永遠に放浪するのか」 「僕は選ぶ自由がほしいんだよ」エヴァリストは顔の前で手を振る。 「おまえみたいに素敵な大事な家なんて持った日には、どこかへ行きたくても行けなくなってしまう」  話しながらかがみこみ、床で眠る生き物の様子をみて、また体を起こした。 「でもこの家は好きだよ。道の先に行くべき場所があるのは悪くない」  ジラールは黙ってエヴァリストをみつめていた。  あまりにも長く凝視したせいか、エヴァリストは怪訝な眼つきになった。 「どうした? ジラール?」  ジラールはゆっくりと口を開いた。 「試してみたいことがある」 「何?」 「おまえにキスしてみたい」 「……何?」  エヴァリストは言葉の意味がわからないというようにまばたきをした。ジラールは立ち上がった。エヴァリストの正面に覆いかぶさるように立つと、両肩を抱いてそのまま唇を重ねた。  エヴァリストの唇は乾いてさらりとしていた。かすかに酒精が香り、甘い木の実のような味がした。昨夜のように魔力が流れこむことはなかった。  ただのキスだ。 「――っおい……どういうつもりだ」  いきなり顔をもぎ離された。エヴァリストの挑むような眼がジラールの視線に出会ったが、それも一瞬で、ついとそらされる。ジラールはその背中に腕をまわすとそのまま長椅子に押し倒した。腕の中で体をよじるエヴァリストを抱きしめて、ぼそりとつぶやいた。 「どうも――妙なことが起きていてな」  胸の下からため息のような長くほそい息が吐きだされた。エヴァリストの唇がすぐちかくにあるのだ。 「だからなんだよ……」と、その唇がいう。 「おまえのことは何年も友人だと思っていたんだが――」とジラールはいいかけ、言葉につまった。エヴァリストはまた顔をあげた。腕の中にいるのだから当然のことだが、距離が近すぎた。近すぎてその鋭い美貌に頭がくらくらする。 「その――何年もただの友人と思っていた男に、俺は欲情してる」 「……それで?」 「困惑している」  エヴァリストはなにかいいかけたかもしれない。だがジラールの方が速かった。止められなかったのだ。唇を重ねると自然にさっきより深くなる。下唇をやわらかく噛むように舐めてほぐし、ひらいた隙間に舌先をさしこんで内側に侵入する。むさぼるように舌をからめて吸う。唾液がこぼれ、温かい息を交換しながら腕の中の体を抱きしめる。シャツの上からはっきりわかるほど熱かった。自分の中心も熱く猛ってくるのがわかる。股間がきつくなり、痛いほどだ。 「困ったことに、おまえを抱きたい」  まっすぐみつめてささやく。エヴァリストの瞼がふせられ、まつ毛が影をおとした。ジラールは金髪をかきわけ、隠れている耳をさぐって、裏側をなぞった。吸われて赤く染まった唇から小さく声がもれる。 「おまえ…前もやったぞ」  低くかすれた声にかすかな棘があった。わずかな罪悪感を覚えつつ、ジラールはささやきを返す。 「すまん。前のことは覚えていない」 「獣と同類だからな」  見ひらかれた眸が強い視線でつらぬいてくる。あきらかな欲情に濡れた色だった。ジラールの胸のうちがざわめき、体が欲望にふるえる。 「今度は覚えている」とささやいた。

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