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第12話
ジョージ・ヘルマンはいつもと同じ時刻に起きた。いつものように従僕が着替えや水差しを運んでくる。さらにいつもなら朝食の用意ができたとだけ伝えてくるのだが、この日は違った。
「カレン様がお見えです」
「こんな時間にか」
「緊急とのことで。朝食がまだだというので、お出ししました」
襟を整えながら食堂へおりていくとカレンが飲み物のカップを手に待っていた。自由連合の大立者で白髪まじりの黒髪を小さな髷に結っている。親譲りの財産や人脈を駆使する切れ者の女性で、昔はヘルマンの後ろ盾でもあった。カレンの隣にもうひとり長身の男が座り、両手でバターナイフをもてあそんでいた。何度会っても心を騒がせる美貌の男だ、とヘルマンは思った。
「これはカレン。朝早くからどうしました?」
「ジョージ、早くに悪いわね。聞き捨てならないことを教えてもらったものだから」
カレンの前の皿はすでに空だった。小柄な外見に似合わず健啖家で、声はつねに気迫がこめられたように強い。ヘルマンは用意された席に座る。まだナプキンを広げている最中だというのにカレンが口をひらいた。
「私の名前を騙ってエヴァリストを使った者がいるらしいの」
「あなたの名前もね、議長」
エヴァリストはさわやかに微笑んでいる。バターナイフの銀色が彼の器用な手の中でくるくると回った。
「もうカレンには話したけれど、あなた方の紹介で受けたある仕事がじつは〈Q〉からの依頼だったとわかって」
邪気を感じさせない口調だが、カレン以上に圧迫感が迫るのはなぜだろう。
「僕は知っていたら受けなかったのだけど、依頼人はあなた方の名前を出したものだから、見抜けなかった。あなた方も知っている通り、僕の仕事は身元保証が大切でね。でもほんとうにカレンとあなたが認めているのなら話は別だ」
「もちろん評議会は〈Q〉が単独で砦を制圧するなど容認しません」
カレンがぴしりといった。
「むしろヘルマン、あなたも承知のように、最近の〈Q〉の動きはバランスを崩すからもっと牽制しようとしていたくらいよ。エヴァリストが教えてくれなければ私もこのぬけがけを認めることになってしまっていた」
ヘルマンの眼はバターナイフのきらめきに吸い寄せられていた。
「もちろん私も知りませんでしたよ」
いつのまにか自分の口が自動的にそう話している。といっても、知らなかったのはエヴァリストがカレンにつながりがあったことだ。かなり親しそうにみえるが、どんな関係なのか。
「ひとつの勢力だけに力が集まるのは好ましくありません。とくに〈Q〉は新興だし、何を考えているかわからない。といっても川向こうの現状は好ましくありませんが」
「そうだよね。〈Q〉が何を考えているかなんて、きみは知らなかったんだ」
エヴァリストは話しながらもナイフを操るのをやめなかった。彼の手の中で硬い金属は生き物のように自在に動き、銀色の線が舞いを踊る。それを追ってヘルマンの視線はエヴァリストの眸と出会う。
「きみもよく知っている通り、僕は手品が得意なんだ」
エヴァリストはにっこりと笑った。
「評議会と自由連合は〈Q〉を牽制しなければならない。もちろん川向こうを将軍が好き勝手にやってるのは嬉しいことじゃない。あそこの農民がどんな暮らしをしているか、僕らはよく知っているものね? だけど〈Q〉が獲ったら将軍のあとがまを据えてきっと同じことをする。彼らは何もかも欲しいんだよ。川のこちら側も、向こう側も。そんなのは絶対、認められないよね」
「もちろんだ」
ヘルマンの口はまた自動的に動いたが、自分がほんとうに自分の意思で話しているのか不思議に思った。誰かの口を借りているような気がする。
「ともかく、私たちも動くことにします」とカレンがいう。
「砦には話ができる相手がいてもらわないと困るの。将軍はずっと川向こうを孤立させていたから話なんてできなかった。名を騙ってぬけがけするQもろくな話相手じゃないわ。私があらかじめ承知していたなどといいだされたらたまったものじゃない。至急招集をかけられるかしら?」
ヘルマンは黙ってうなずいた。おちついて食事をする時間はなさそうだった。
エヴァリストは先にヘルマンの屋敷を辞した。〈Q〉の男の様子からすると、昨夜彼らに渡した武器が使われる時は間近に迫っているに違いない。砦を守る防備が消え、それだけでひとつ均衡が崩れる。評議会が出てくるなら〈Q〉の一人勝ちにはならないだろう。
今のところ町には変わった様子はなかった。いつものように土埃がたち、いつものように川から風が吹いてくる。
評議会にしろ自由連合にしろ、川向こうの土地と支配が欲しい者たちは勝手にやればいいのだ、とエヴァリストは思った。ただ自分がそこに不本意な仕方で巻きこまれるのはごめんだ。加えて、たまたま出くわした友人を助けたために自分が死にかけるのもごめんというものだ。
「彼らは僕にとって利害は材料にならないということがわかってないらしい」
エヴァリストは久しぶりにひとりごとをいった。「せいぜいがところ、金のためだと思っている」
つぶやいてからこれは本当のひとりごとだな、と思った。精霊もいないから、自分の言葉を聞くものは誰もいない。
たいていの人間にはわからないんだろう――とエヴァリストは今度は胸のうちで思う。この広い地上では人間はある点に生まれ、自分が留まるにふさわしい、お気に入りの点を探す。生まれた場所こそが自分にふさわしいと考える者もいれば、移動すればもっと自分にふさわしい点へ行きつけるのだと思う者もいる。ある点に留まりたいのに、財産がないとか、縁故がないとか、そういった理由で移動を余儀なくされる者もいる。
点と点を移動する仕事を持つものもいるが、真の意味で点と点をめぐりつづける者はめったにいない。それは移動にコストがかかるからだ。慣れない土地で見知らぬ人々やなじみのない風や自然とうまくやるのは、ほとんどの人間にとって負担だ。
エヴァリストがそう感じないのは、つねに精霊がついているせいかもしれないし――精霊はこの大陸ではいつでもエヴァリストの前にあらわれるのだ――どこでも快適な暮らしができるだけの金を稼ぐ才覚があるせいかもしれない。面倒ごとに巻きこまれたら、その場所を離れてすっぱり忘れるくらいの方が楽なのだ。
この川の岸辺もそろそろ離れる方がいいのだろう。
「この道が通じる場所におまえがいるのは、悪くないんだが」
おまえは永遠に放浪するのか、とたずねた男の眼つきをエヴァリストは思いうかべ、またひとりごとをいった。ぼんやりした不安が胸をよぎるのが気に入らなかった。他人の仕事には口を出さない主義だ。自分の仕事に口を出すことを許さないように。しかし……
昔の相棒は自分について身も蓋もないことをよくいったものだった。誰と一緒にやっていくのも無理だとか、なんとか。
「いつも一緒でなくてもいいんじゃないのかな。道が通じてさえいれば」
肩をすくめるとエヴァリストはドノヴァンとシルヴァーの工房へ足を向けた。歩きながら川向こうに意識を向ける。名前のない精霊がぼんやりした気配を送ってくるのが感じ取れた。例の獣みたいな男と一緒にいるはずだが、異変が起きれば伝えてくるだろう。その気はなかったのに、かなり強いつながりがすでにできてしまったから。
いつものように工房の一角を借りると、エヴァリストはここ数年、つねに持ち歩いていたとある回路を取り出し、作業にとりかかった。
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