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何かが起きることはすべて尊い(1)

 川は凍りついていた。馬に引かれた橇が鈴の音とともに氷の上を走りぬける。すれちがう人々は毛皮で縁取った外套で頭から足元まですっぽり覆われている。ずんぐりした影が氷の上におちる。  川を渡っても景色は雪、雪、雪。森の間に道が切り開かれている。大陸北東部の冬は厳しい。水は凍り、森は白く染まっている。  ジラールは御者の横で黙ったまま白い景色を眺めていたが、橇の後ろに座ったエヴァリストはぶあつい背中から好奇心が強く放射されるのを感じていた。ジラールがこんな風に感情を放射するのは珍しいが、この土地がはじめてならうなずける。西の乾燥して暑い土地の出身ならなおさらだ。 「凍った湖で魚を釣ると聞いたが、本当か?」  実際、御者にたずねる口調からは好奇心をぬぐいようもないようだ。 「ああ――このまえ、解禁されましたよ」  橇の御者の口調はくぐもって不明瞭だった。ここよりも北の土地の訛りだった。 「旦那方、どちらから?」 「西だ」 「へえ。冬にわざわざこっちまで、商売ですか? それとも猟に?」といったものの、御者は首をふる。「いや、旦那方は猟なんてなさらねえ。銃はお持ちだが、猟師じゃねえ」  ジラールは御者の問いかけを無視した。逆に「どうやって凍った湖で魚を釣る?」とたずねる。 「水面まで届く小さな穴を氷にあけて、そこから釣るんです。氷の下の水はあったかくて、魚がうようよいるんでね。原住民の昔ながらのやりかただったんですが、偉い旦那衆が冬の遊びにしたんでね。湖に天幕を張って、ストーブであったまって、釣れた魚をその場で焼いて食べる」  御者はチラッとジラールに視線を送った。 「なに、小魚ですよ。旦那のような体格の方には到底足りないようなものしか上がらない。このごろは貧乏人もそんな遊びを見習ったんで、昔は祭りの日は湖で滑って遊ぶくらいだったのが、今やずらっとならんで魚釣りです」 「楽しそうだな」 「祭りは明後日からです。もしかして、これにあわせて商売に?」  御者からはジラールとは違う種類の好奇心が放射されている。エヴァリストにはいささかうっとうしかった。黙っているジラールのうしろから「そんなものだよ。領主に呼ばれてね」という。 「へえ?」 「西のものが欲しいと使いを寄こしたので、はるばる御用聞きさ」 「なるほど」御者は得心したようだった。「道理で、猟師ではないのに銃をお持ちなわけだ。護衛がいないと何かと物騒ですからな」  ジラールはエヴァリストの護衛ではないし、領主に呼ばれたわけでもない。第一、どうしてこの男がこの季節に北への旅についてくるのかエヴァリストにも理由がわからないのだが、御者には勝手に誤解させておくことにする。 「あとどのくらいだ?」ジラールの声には感情がこもらない。 「もう少しかかりますが、日が落ちるまでには何とか――おや?」  御者がいぶかしげな声を上げた。前方に白く伸びた道が黒い影に阻まれている。橇はゆるやかに減速すると、道幅いっぱいに広がる黒い木で組み上げられた柵の前で止まった。真ん中に木の板が吊り下げられ、ひっかくような文字で「この先で雪崩あり。迂回」と記されていた。 「何だ? 聞いてないぞ」御者は首をひねる。 「まだ新しいようだ」ジラールは橇を下りて柵を眺めていた。 「迂回というのは?」 「少し戻ると森をぐるりと回る道があります。大回りになるんで飛ばさないと」 「それでいいよ」エヴァリストは橇の中で立ち上がり、のびをした。 「やってくれ」  エヴァリストのふところでもぞもぞと温かいかたまりが動いた。外套のあいだから黒い鼻づらが外の匂いをかぎ、まるい眼がきらりと光る。ほんの一瞬だった。寒い空気はこりごりだというように精霊はまた外套にもぐりこみ、尻尾をエヴァリストの首に巻きつけたまま内側におさまる。精霊の毛皮のおかげでエヴァリストも暖かいが、外套の裏地はきっと台無しだろう。  橇は方向を変え、元来た道をすこし戻ってから別の道へそれた。今度は御者は黙って馬に鞭をくれ、橇はさっきよりも速いスピードで森を走り抜けていく。森は大きく、木々は太く厚い。あいだを縫う細い道はゆるやかに曲がって、橇の上にいると方向感覚を失いそうだ。やがて日が傾きはじめ、御者は焦ったようだった。掛け声をあげて馬を急がせる。  前方で道がふたつに分かれた。右の道は丸太が倒れて横倒しになっている。御者の心から迷いが放射されたのをエヴァリストは感じたが、一瞬のことだった。馬は左の道へ突き進んでいく。  幅も広く、脇には石積みのある整備された道だ――と思ったのもつかの間、この道はしだいに細くなった。御者は少しスピードをゆるめ、さらに不安な念を放射する。 「大丈夫か?」  ジラールがぼそりという。 「ええ。そう思うんですが――」 「あそこに何かあるな」  梢の上に立ちのぼる煙がみえた。明かりも。  御者は明らかにほっとしたようだった。仮に道を間違えたのだとしても、とにかく人はいるわけだ。橇はたちまち小さな集落に滑り込んだが、入ってみると集落というより荘園といった趣だった。砦のように石塀をめぐらせた屋敷の周囲に煙を吐く民家が集まっている。橇の音を聞いたか、黒っぽい外套に身を包んだ人々が橇を取り囲む。  御者は橇を降りて説明したが、相手の言葉がエヴァリストには聞き取れなかった。訛りがきついのだ。と、屋敷の正面扉が開き、長身の人影が現れた。 「道に迷われたようですな」  今度の声は鮮明に聞き取れた。御者がまた口早に説明し、人影はうなずき、橇のエヴァリストに向かう。服装からこちらを主人と判断したようだった。 「なるほど。湖の町まではそれほど遠くありませんが、このあたりの者でないと迷いかねません。もう日が暮れますから、明日案内させましょう。今夜は客人としてお迎えします」 「旦那方――」御者はますますほっとしたようだった。「幸運だ。こんな村があるとは知らなかった」

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