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操ること操られること

 ズボン下だけを履いたその少年がすばしこく脱衣所をすり抜け、浴場へと駆けていったのはジラールもみていたが、まったく気に留めていなかった。しかし気にした客はいたようで、数拍おいて怒声をあげ、やはり半裸で少年の後を追いかけて行ったのは、こんな船着き場に近い公衆浴場にはいくらか不似合いな身なりの中年男だ。  まともな人間であればこんなところへ金目のものを持ち込むわけはなく、だからコソ泥といったってせいぜいがこぼれ落ちた小銭を拾うくらいだろうが、荒くれの船乗りが闊歩するこの界隈ではそれすら時に危険なことだ。そしてまさしくそんな中で、周囲を出し抜いて生きのびている子供なら、カモを見逃すはずはなかった。  少年の後を追った男の体はただでさえ腹が出ている上に蒸気風呂あがりでゆるんでもいて、あれならたぶん追いつけまい。そんなことを思いながらジラールが服を脱ぎ捨てたとたん、自分に向けて無言の視線がいくつも走ったのはわかったが、これまた気に留めずに腰布を巻き、浴場へ足を踏み入れる。入れ墨だらけの船乗りや、船乗りに負けないくらい鋭い目つきをした漁師の中では、ジラールもちょっと毛色のちがう獣程度でしかない――少なくとも当人の認識では。  もうもうと湯気のたつ浴場の中はかすかに硫黄の匂いがする。このあたりの浴場では地中から湧き出す温泉を薄めて沸かしているから疲労に効く――たずねもしないのにそう教えたのは先ほどとったばかりの宿の受付にいた男だが、それは野営つづきだったジラールと連れの視線が剣呑だったせいかもしれない。この町で最も上等をうたっている宿のくせに、今日に限って内湯が使えないというのだ。  とはいえ熱い湯がふんだんに使えるのならどこの湯だろうとジラールには問題はなかった。もっとも先に風呂へ入った連れがどう思ったのかはわからない。なにしろ連れは贅沢が好きな男なのだ。  洗い場を使った後はジラールの髪も体も石鹸と同じハーブの香りがして、それが湯から立ち上る硫黄の匂いと混ざりあった。ざらざらした石の床を踏みながら浴槽へつかろうとしたとき、湯気をわけるようにして連れの姿がちらついた。  浴槽のむこう側にみえる垂れ布で仕切られた小部屋の列は湯上りの休憩場だろう。その手前で、脱衣所で怒声をあげていた中年男を見下ろすように、長身が立っている。その手は脱衣所にいた少年の手首を握っていた。  濡れた金髪の下の美貌がふいとジラールの方へ向いてすぐにそれる。  そして中年男をもう一度睥睨して、何かをした。  何をしたのかはジラールにはわからない。それは眼に見えず、ジラールには感じられない。だが何かが起きたのは確かだった。一瞬にして意気軒高だった中年男の肩がおち、ついできょとんと顔をあげて周囲をみまわしたからだ。ついで、なぜ自分がこんなところにいるのかわからない、といった風体で首を振り、よたよた歩いて石の床を戻っていった。  ほんのわずかな時間だった。湯気の中に浮かぶ他の客はたぶん何も気づいていないのだろう。一方ジラールの連れはというと、少年の手首をとったまま、そのまま垂れ布のむこうへ消えてしまう。  ジラールはわずかに肩をすくめ、湯に体をしずめた。いつものように癖で数をかぞえるが、十を超えないうちに、また立ち上がった。  垂れ布をあげて通路を進んだ。暖かい蒸気にまじってかすかに淫靡な香が漂った。ジラールの敏感な耳は何人もの吐息を聞き取る。そして一番奥の布の仕切りをぐいっと押し開いた。  案の定、金髪の連れは狭いベンチの端に座って壁に背をもたれさせ、床に膝をついた少年の奉仕を受けているところだった。朱をはいた眼元があがり、ジラールをみた。 「ジラール、邪魔するなよ」  ジラールは気にせずそのまま中に押し入った。片手で少年の肩を引き、驚いて硬直する頭をぽんと撫でてやる。 「もういい」  少年はジラールと金髪の連れの顔を交互にみて、ジラールの体躯をみつめ、びくっと体を震わせて立ち上がった。仕切りをゆらして走り抜けるとき少年の鳶色の前髪が揺れる。 「邪魔するなっていっただろう」  不機嫌な口調で連れ――エヴァリストがいった。  ジラールはまったく気にしなかった。 「逃がしてやったのか」 「あのオヤジがうるさかったからな。くつろごうと思ったのに」  エヴァリストは強力な魔力の持ち主で、精霊魔術を使う。この魔術師は他人の心の声、特に感情的な叫び声を聞き取るが、それは時に相当「うるさい」ものらしい。一般人の魔力しか持ち合わせないジラールにはおよそ想像がつかないが、聞こえてくる近くの人間の叫びがうっとうしいという、単にそれだけの理由で、エヴァリストがこれまで何度か他人の心に干渉するのをジラールはみたことがある。  実際のところ感心できる習慣とはいえないが、エヴァリスト以上に手を汚して生きてきたジラールにとっては、問題は倫理ではなく、別のところにあった。エヴァリストが気まぐれにやってのける他人の心への干渉は、騒動を未然に防ぐこともあれば、逆に騒動を呼びこむこともある。今回はことさら騒動を呼ぶとも見えないが。 「いいじゃないか、くつろいでいれば」とジラールはいう。 「これからだったのに、おまえが追い出しておいて、何いってるんだ」  エヴァリストはベンチに座ったままだ。ジラールを見上げた眼元はまだ少し紅みを帯び、しなやかな筋肉におおわれた体もほのかに上気している。  その視線が自分の裸を上から下にたどっていくのをジラールは意識する。  近づくのはほんの一歩で事足りた。  いつもながらどこか格闘に似ている――仕切りの上からただよう香をかぎながらエヴァリストの頭をかすめたのはそんなことだった。こんな狭いベンチの上でもだ。慣れない手と口でおずおずと奉仕していた少年とちがって、ジラール相手だとすぐに後に引けないことになる。おまけにのしかかってくるジラールから主導権を取り返そうと取っ組み合ううちに腰布がずれて、自分も向こうも息があがってくる。たがいに相手の弱い場所をさがし、それぞれ不意をつこうとするからだ。  じっさい、手首を片手でうしろに拘束され、舌で腋のしたをなぞられた瞬間、エヴァリストはびくりと背中をふるわせてしまう。ジラールがしめたとばかりに低く笑った。  むかっ腹が立つが相手は百戦錬磨の獣のようなもので、隙を見逃してはくれなかった。太い指が後ろに差しこまれてエヴァリストの中を解しにかかる。逃れようもなく荒い息をついてしまうが、ぶ厚い胸筋に頭を押しつけて声を殺す。合わせられた股間の猛りが触れあって、浴槽で濡れた体の上に先走りの雫が垂れた。首筋のうえでまた低く短い吐息を感じた。笑っているのだとわかった。 「啼くのも好きなくせに」とジラールの低い声がささやく。 「いってろ……あ――」  吐き捨てたはずが思いがけず甘い響きになった。強力な腕がエヴァリストの腰を持ち上げ、ジラールの膝に座るような形で下から一気に楔を打ちこまれた。そのまま突き上げられ、揺さぶられる。無意識に腕をジラールの首にまわすと腰にまわった両腕がさがり、膝の裏を抱えられた。密着した肌のあいだで漏れそうになる声をこらえたとき、ふいに両足が宙に浮いた。 「っ――ジラール――?」 「しがみついてろ」    この男阿呆――と思ったのも一瞬だった。背中に壁が当たるのを感じたのも一瞬で、自分を抱く男へ体重を預けてしがみついたとたん、エヴァリストは宙に浮いたまま突き上げられて、これまで感じたことのない奥まで侵入された。深く自分の重みで貫かれ、耐えられずに声がもれる。ジラールは微妙に角度を変え、そのたびにもっと奥へ、これまでエヴァリスト自身も知らなかった場所へ楔を打ち込んだ。視界のどこかで白い火花が飛び、ゆるんだ口元から唾液が垂れる。まったく知らなかった快楽の穴を穿たれたようだ。  叫びそうなエヴァリストの唇にジラールの舌が絡む。甘い快感に侵されるまま舌をからめ、吐息をもらすと、中を突かれる感覚がもっと激しく、強くなる。 「お風呂はいかがでしたか。どこの浴場へ行かれました?」  宿の受付は同じ男で、ジラールとエヴァリストを前にへつらうような笑みを浮かべていた。何しろこの二人連れは一番いい部屋をとっただけでなく、一方は貴族めいた服装の上にあの美貌だし、もう一方はやたらと凄みのきいた顔と図体をしているのだ。おまけにチップも相場の倍払うときている。  だがエヴァリストは無言で男の前を通り過ぎた。まだかすかに眼元が紅かった。一見たしかな足どりにみえて、ふらりと腰が揺れたのをジラールは見逃さない。 「お気に召さなかったのでしょうか?」  宿の男が心配そうにたずねた。ジラールは首を振る。 「いや。いい風呂だった」

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