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星のかわりに方位となるもの(1)

「そこのお兄さん! これひとつ試してみなさいって。出来立てだよ!」  通りすぎざまに投げられた声へ視線をやると、うっすらたちこめる青みがかった煙の向こうから、屋台の女主人がジラールに笑顔を向けている。青と橙の縞模様のひさしが長く突き出し、街路に日陰を落としている。女の前に並んでいるのは肉や野菜が盛られたパンの円盤だ。溶けたチーズやソースの焦げた匂いがジラールの鼻をくすぐった。 「立派な体だねえ。異国の人だろう? お国にはこんなのあるかい?」  女はジラールを頭の天辺から靴の先まで眺めてさらりとたずねた。大柄な体格に浅黒い肌、赤い髪を頭頂で結ってまとめた外見はあきらかにこの国の人間ではない。王都には異国の商人も訪れるとはいえ、この髪型は珍しい。  ジラールは返事をせず、屋台の食べ物を観察した。大陸にも似たような薄焼きはあるが、チーズは粉をふりかけるだけだし、こんなに贅沢に具材を盛らない。女は黙ったままのジラールを気にした風もなかった。ジラールの視線のもとでナイフをキツネ色の円盤に入れる。放射線状の切り口から黄金色のチーズがとろりとこぼれる。 「ピザさ」女はジラールの視線を追って得意げにいう。 「うちの生地はふかふかだ。食べ応えあるよ」 「一切れくれ」 「そこで食べるかい?」  女は屋台のひさしの影に置かれた椅子とテーブルを顎でさし、ジラールも顎でうなずいて応えた。小銭を支払い、紙で包んだ一切れのピザを手に腰をおろす。女は水のコップを持ってきてくれた。日射しにあたためられた空気が石壁に沿って漂っている。雰囲気は気安く暖かく、平安がまどろみのように覆っている。  エヴァリストの商用――大陸商人の護衛と助言役――の旅の最後に訪れたこの国は、こじんまりとしているが豊かで平和だった。手入れされた農地に荒れていない森を抜け、川を渡った先の王都では、街路で遊ぶ子供もぼろを着ていないし、女性たちは物陰に隠れたりせずまっすぐ顔をあげて歩く。警備隊の姿はあるが威圧感はない。小さな村や町ならともかく王都がここまで穏やかな国をジラールは知らなかった。おまけにここでは銃が魔術で無効化され、一般人が威嚇するように剣を下げて歩く光景もない。  魔力が少なく感受性が低いジラールにはよくわからないのだが、エヴァリストによるとこの都は大規模な防備の魔術を仕掛けており、王都のすみずみにその印があるという。大陸の城砦によくみかける防御の仕組みと似たものもあるが、まったく違う種類のものもある。この国は魔術に対する人々の捉え方が大陸とすこし異なるようだ。精霊魔術師の一団は多くの人の信望を集め、王城での政治にはっきりと介入している。その一方で銀と鉛で作られた回路魔術の仕掛けは数々の日用品に施されて、より民衆の近くにある。  熱く香ばしい食物をむきだしにすると、ジラールの胸元でもぞもぞと動く気配があった。黒い鼻づらがのぞき、毛皮に包まれた細長い肢体がぬっとあらわれて匂いをかぐ。  ジラールは無視した。最初のひと口を咀嚼する。 「まだ熱いぞ」とつぶやく。  生き物はジラールの声に耳を立てたが、ひょいっと首をのばしてチーズの匂いを嗅いだ。 「舐めるな」  ジラールは大きく口をあけ、続けて残りを咀嚼した。何といってもたった一切れだ。水を飲み干して立ち上がったが、生き物はジラールの胸元から顔を突き出したままだった。屋台のカウンターにコップを返しながら「一枚まるごとくれ」と告げる。女はジラールの言葉ではなく突然現れた生き物に驚いたようだ。しかし異国の人だからねえ、と勝手に納得したらしい。 「お兄さん、宿はどこ? 容器に入れて配達してあげるよ」 「容器?」 「回路魔術のおかげで熱いまま運べるのさ。かさばるけどね。あとで器は宿に取りにいくから」 「鹿の角亭だ」  女は屋台の横に積んだ平たい箱の蓋をあけた。銀貨を出すと「もう少し細かいのはないのかい?」という。 「しばらく滞在するから、また寄る」 「そうかい」  女はしげしげとジラールをみたが、軽く首を振って貨幣を受け取った。

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