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星のかわりに方位となるもの(3)

 まったくこの都は平和だった。  おかげでジラールは、もの知らずでいささかトロくも見える従者を容易に演じ続けている。大陸の辺鄙な地方の出身の上、主人がほったらかしているので、雑用を片づければあとは自由にしていてよい、という体だ。  エヴァリストの方はというと、昼間は雇い主である商人の外出に同行し、夜はひとりで出歩いていて、戻ってくるのは真夜中である。朝から道具をひろげて回路魔術の装備をいじっていることもある。魔力の少ないジラールには、エヴァリストが何をやっているのか完全には把握できない。  エヴァリストはよく喋る男だが、回路を触っているときだけは違った。黙っている彼の横顔もジラールの好みだから、彼は隣で一度も鞘から抜いていない剣を手入れしながらエヴァリストを鑑賞している。  ジラールがエヴァリストを知ってから八年か九年、かなり長い年月がたつが、今のように近くなったのは「砦」をめぐるいざこざ以来だ。あのときエヴァリストが彼を助けようとしなければ現在の状況はあり得なかっただろう。そして鑑賞用としても話し相手としても楽しい連れにはなかなか出会えるものではない。だからジラールは現在の自分の環境をかなり気に入っていた。  ジラールが眺めているのに気づくと、エヴァリストはときおりちらっと眼をあげる。 「王都観光の調子はどうだい?」 「悪くない」ジラールは簡潔に答える。 「屋台のイモ料理が美味い」 「おまえ、ずいぶん食べ歩いているな」 「暇だからな。それと、川での釣りは許可がいらないとわかった」 「コルウスが暴れないように気をつけろ」 「大丈夫だろう」  ジラールは鑑賞中の人間にくっついている毛皮のかたまりをみつめた。コルウスと「命名」された生き物はいま、肢体を長く伸ばし、エヴァリストの腰に巻きつくようにして眠っている。おかしな姿勢で寝るな、とジラールは思う。  精霊動物は川や海のような流れる水を嫌う。元々は自分の縄張りで好き勝手に生きる野生の存在だ。精霊魔術の使い手に名づけられなければ、彼らは自由なのだ。しかしコルウスは多少例外的な存在らしい。エヴァリストには他にも名前をつけた精霊動物がいるようだが、海を越えてまで行動をともにしようとするのは彼だけだ。  ジラールは本来城下の路上食べ歩きになど興味がなかったのだが――食にうるさい性格ではないのだ――ここ数日の行動は、客観的にみれば暇な雇い人が旅先で買い食いをしているだけである。しかしこうなったのはジラールの意図というより、銀貨を渡したピザ屋の女主人に翌日、別の屋台の前で再会したためだった。ピザ屋の女は屋台主の男にジラールを好意的に紹介し、おかげでジラールはそこでまた新しい食べ物に出会った。細切りにしたイモを丸く成形して揚げ、甘辛いソースをかけた一品である。  この国の城下では、屋台料理は庶民の厨房を兼ねていて、日々の食卓を彩るものらしい。丸ごと一枚のピザは若干高級な部類に属するようだが、揚げた野菜や肉、香辛料で味付けされた炒め物など、平民は食卓に添える惣菜を屋台の店先で買い求めている。平民の食べ物だから価格は手頃だ。  ピザ屋の女主人は屋台主のあいだでは顔がきくらしく、彼女の紹介によってジラールはすっかり「赤い髪の異国の人」として、さまざまな屋台主から新しい食べ物を試せといわれている。そんなこんなで、これまではロースト肉の嵩上げに添えられているだけだと軽んじていたイモにも何種類かあること、これらは調理法によって実に多様な味わいになることをジラールは学んだのだった。  学んだのは庶民の味だけではない。警備隊はどんな風に城下を巡回しているか。庶民が警備隊やその上官である騎士、王家にどんな感情を持っているか。ごくまれに城下を闊歩している精霊魔術師や王立学院の学生がどんなふるまいをして、それに人々はどう反応しているか。  ジラールが接触した人々のほとんどは親切で、極端な悪意をぶつけられることもなかった。その根底には豊かさと平和に対する強い信頼感がある。大陸の無秩序で生まれ育ったジラールはなんとも不思議な気持ちを覚えたが、もちろん表には出さない。  回路魔術による強固な防備と銃を封じる魔術も、人々の信頼に大きな役割を果たしているだろう。銃の無効化についてはジラールも、荷物の底にひそませた愛用品で確認していた。いくつかの重要な機構がなぜか働かないのだった。火薬の点火機構を封じるのがこの魔術の基本的な働きらしいが、他にも何かあるのだろう。それにしても、魔力の気配もろくに感じられないジラールにはなぜそんなことが可能なのか、まったく見当がつかなかった。 「今日中に後発の荷物も王都へ届く予定だ」  エヴァリストは小さな丸い金属を指先でくるくる回し、窓から差し込む光に透かしている。遅れて届く荷物は旅の些細なアクシデントの結果だ。船荷の積み下ろしに不備があり、商人の積み荷がひとつ行方をくらましたのである。エヴァリストの回路魔術による追尾で荷物は無事取り戻したが、商人は余分に輸送馬車を雇わなければならなかった。 「取引先でブツを組み立てて試験して、つつがなく取引が完了すればこの国での用事は終わる。僕らの契約は今のところここまでだ。精霊魔術のいかさまがなければ、帰りの護衛は僕らでなくてもいいだろう。何しろ高いからな」  エヴァリストは自分の技術をけっして安売りしなかった。彼自身、抜け目ない商人でもあるから当然だろう。回路の調整を終えて道具を革のケースへしまいこむと、彼は膝に乗せたコルウスの耳の裏をかく。毛皮の生き物は心地よさそうに眼を細めた。 「そのあとは?」とジラールはたずねる。 「おまえの釣りにつきあうさ」 「知り合いを訪ねたりはしないのか」 「知り合い?」  この国にはエヴァリストの旧知、彼が「昔の相棒」と呼ぶ人物がいることをジラールは知っていた。詳しい話を本人から聞いたわけではないが、情報収集はジラールのかつての本業にとっても重要な要素である。  エヴァリストは大陸の有力者に知己が多いが、それはそもそも、彼がごく若い頃から大陸各地の統治者へ回路魔術の装置を仕込んだ武装を売り歩き、相当な成功をおさめたからだった。しかし当時のエヴァリストはひとりで商売をしていたわけではなかった。何年ものあいだ、彼の美貌と抜け目ない弁舌の影にはもうひとり、黒髪の回路魔術師がいた。 「そうだな、アーベルは楽しくやってるようだし、終われば挨拶くらいはしていくさ」  エヴァリストの口調には屈託がない。ジラールはうなずいて立ち上がった。 「俺は出かける」  背を向けて扉に向かったとき、何かが飛んでくる気配があった。ジラールはふりむかずに手を伸ばして受けとめた。毛皮のかたまりは急に空中に放り投げられて不満そうだった。 「そうそう、ジラール。夜外出することがあるなら、|面《・》|白《・》|い《・》|も《・》|の《・》に気をつけてくれ」  ジラールはうなずいただけで部屋を出た。

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