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星のかわりに方位となるもの(4)

「兄さん、夜遊びはしないのか?」  雑貨を商う露店の男がそう声をかけてきたのは宿を出て間もなくのことだ。ひとなつこいというより馴れ馴れしい部類の声掛けで、大陸ではよく見かける――もっとも大陸ではジラールにこんな口をきくものはめったにいないが――タイプの男だ。 「いいコ知ってるし、俺を通すと安いよ。女も男もどっちでも」 「いや」ジラールは首を振った。 「だったらコレは?」男は指を丸める仕草をした。 「とっときの面白い場所がある。手持ちの小銭を増やすならこれがいちばんさ。あんた暇そうだし、どうよ?」  エヴァリストが同行を断ったのもあって夜の街はまだろくに見ていない。ジラールがうなずくと露天の男はとある酒場の名をいった。 「店の主人に俺の紹介だっていってくれ。もし主人があんたを気に入れば、馬蹄をもらえる」 「馬蹄?」 「通行手形さ」  男はジラールに無邪気な笑顔をみせた。「幸運を」  幸運か。  ジラールは幸運というものを信じない。すべてはなるようになった結果であり、それが幸運や不運とそれぞれの人間に感じられるだけなのだ。川の流れをみつめていると、すべてはここへ収斂するような、そんな気分になってくる。  王都の境界となっている川は青く、空を映して悠々と流れていた。  橋を渡らずに王都側の岸辺をジラールは歩いていく。首のまわりにはコルウスがきっちりと巻きついていた。激しい流れではないが、動く水が怖いのだろう。  川の幅は広いが、ジラールが長年根城にしている大陸のそれほど大きくはない。しかしこの国の川の水は大陸より透きとおっている。王都のこちら側の岸辺では漁網を使うのはご法度だが、釣りをする分にはかまわないらしい。付近に浅瀬はみあたらず、逆に深い淵があるようで、じっと眺めているとふいに太った魚が飛び跳ねる。視界の先に、石のように動かない釣り人の影がいくつかみえる。  道具が必要だ、とジラールは考える。竿と餌。疑似餌も。この旅には持参していない。  背後に気配を感じた。背を向けていても馬が川べりを通過中なのはさっきからわかっていた。蹄の音が止まる。自分を観察する視線にはなじみがあった。武人だが、殺意はない。それなら問題はない。 「いい天気だな。釣りをするのか?」  低めの声がいった。悪くない、とジラールは思った。  声の主は馬から降りてこちらに近づいてくる。ジラールはふりむいて、短髪で長身、戦士の体型をした男の姿を認めて、また川面に視線を戻した。 「興味はある」 「どこから来た?」  男はジラールの隣に立った。コルウスが警戒するように頭をあげ、耳を立てた。日光が徽章に反射して光る。 「騎士か」  あらためて口にするまでもないことだった。ジラールは続けて短く「十日前に船でついた」と答えると、すこし離れた川岸で釣り竿を支える老人に視線をやった。  また沈黙がおちたが、ジラールにとっては普通のことだ。馬の様子だけがいささか鬱陶しい。どうやら精霊動物が気になるようだ。 「釣りはよくするのか?」騎士がたずねた。 「あいにくなかなか実現しない」  残念ながら事実である。引退して釣り旅でもするというジラールの望みは、北方への旅でも実現せず、この国に至る旅程でも実現していない。 「王都へは仕事で?」  騎士はさらにたずねたが、尋問ではなく世間話のような口調だった。 「知人の護衛だ」 「そうだろうな」  騎士はジラールの答えに納得したようにうなずいた。なのでジラールは続けていった。 「この国では暇らしい」 「だから釣りを?」 「そうだな。やってみたい」  水面を散らしてぽちゃんと魚が跳ねた。  馬が鼻を鳴らし、騎士は手綱をひく。 「王都にしばらくいるなら試すといい。晴れた日は竿を貸す露店も出る」  ジラールは軽くうなずいた。去っていく騎士の方へコルウスがくいっと首をのばす。耳をぴんと立てて注意を集中し、変わった匂いでもするかのように鼻先をうごめかしていた。  その晩は露天の男に紹介された酒場へ行ってみた。店の亭主はジラールの顔を知っていて、気さくに接したものの、露店の男がいったように「馬蹄」を渡してはくれなかった。酒の質はそこそこだ。ジラールは何杯か飲み、周囲の客にも同じくらいおごった。  この酒場はジラールの宿にある店より庶民的でずっと騒がしく、交わされる言葉も荒い。しかし客の中に数人、いかにも貴族らしいふるまいの者が混ざっているのがジラールの注意をひいた。それにときおり人の流れが不自然に崩れる。さっき眼をとめていた客――庶民にやつした貴族――が奥へ消えて戻ってこないとか、めくばせや奇妙な手ぶりを交わす者たちがいるのもだ。  もちろん平和な王都といっても、何かを企む者はつねに存在するだろう。  そろそろ出るか。そう考えた時だった。唐突にジラールのうなじの毛がちりっと立った。殺気――ではない。しかし――?  胸元でふるりとコルウスがうごめいた。料理の煙を嫌がって、この店に入ったとたん懐の奥へともぐりこんだのだが、今も顔を出そうとはしない。  ジラールは金を置くと席を立った。外へ出たとたんコルウスはもぞもぞと鼻先を突き出した。ものいいたげにジラールをみつめている。ジラールは首をふった。 「俺にはわからん。エヴァリストにいえ」  宿へ戻ったときは真夜中を過ぎていたが、エヴァリストはいなかった。翌朝になっても戻ってこない。おまけに隣の続き部屋にいるはずの商人も不在だ。  禁制品の持ち込みで捕まった商人がいるとジラールが聞いたのはそれからまもなくのことである。昨夜遅くに起きた出来事は、屋台主のあいだでとっくに噂となっていた。

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