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星のかわりに方位となるもの(6)
詰所で紹介された安宿は王城から街路をかなり下った区画にあった。
おそらくこういうときの警備隊御用達の宿なのだろう。なんだかんだでもう午後もなかばを過ぎている。ジラールは空き部屋をすべて見せてもらい、裏通りに面した狭い一人部屋に入った。壁は薄かった。隣室でメイドが木の床を踏み鳴らしながら床を掃くのが聞こえる。
薄い布団を敷いた狭い寝台に腰をおろしたとたん、壁の羽目板でコツコツ、カリカリと音が鳴る。
ジラールはかがんで寝台の下をのぞいた。床をこするような響きのあとに黒い鼻づらが靴の間に突き出される。抱き上げると勝手に膝からよじのぼってきて、コルウスは肩の定位置におさまった。
さて、これからどうしたものか。
当初はエヴァリストの方で織り込み済みのアクシデントかと思ったが、思っていたのと多少、様子が違う。なぜなら船荷ではるばる運んだ遊戯盤は、この国で販売の許可が出たというお墨付きがあって、その書類はジラールも見たからだ。エヴァリストがこの商用に付き合うのを決めたのもこのお墨付きゆえだった。
エヴァリストはこの国で、ジラールには意外なくらい魔術の扱いに気を配っている。精霊魔術にせよ回路魔術にせよ、この国は大陸とは違って、王城による一連の規制が明確で、しかも厳しい。おまけに無理に破ったところで今のところたいして面白い話もないというのが、いつものおしゃべりの最中にエヴァリストが漏らした評価だった。ジラールはこれを嘘だとは思わなかった。つまり少なくともエヴァリストは、この王国の法を破るためにはるばる海を越えたわけではない。
ジラールは部屋の窓を開けた。安いが快適とはとてもいえないこの部屋を選んだのは、財布の都合からではなかった。裏通りをみおろしながら城下の地図を頭に思い描いていると、首のまわりでコルウスがもぞもぞと動いた。しきりにジラールの胸の隠しに鼻をつっこもうとする。
「なんだ」
コルウスの鼻先をよけようとしたとき、堅いものに指が触れた。そういえば、とジラールは隠しから金属の輪を引っ張り出した。
金属は黄銅色で、指輪にしてはそっけないが、それ以外の用途は不明な形だ。銅貨ほどの大きさの丸い金属の半球がついている。真横に走る薄い切れ目に指を添わせてこすると、くるりと回る感触があった。ネジが切ってある。
蓋のようになった半球を回して外すと、内側に回路があった。蓋と台座双方に刻まれ、水平にネジを嵌めるとぴったり噛みあう。エヴァリストが細工していたものだ。いったい何に使う道具だろうか。
ジラールにはまったくわからなかった。回路魔術師ならともかく、人並みの魔力しか持たないただの人には、回路などただの渦巻模様にしか見えない。しかし、この輪を取り出したとたんコルウスは嬉しそうな鳴き声をあげ、鼻づらと爪の生えた前足を器用に使っては、ジラールの指に輪をおしつけてくる。嵌めろ、といいたいらしい。
ジラールはコルウスの頭を軽く撫でると、左手の中指に輪を嵌めた。深い意味合いはなかった。動物の気分につきあっただけだ。
その瞬間だった。唐突に頭の奥で白い閃光が弾けた。
めまいで頭がふらりと傾いだ。まぶたを指輪をはめた手のひらで覆い、ゆっくり呼吸をする。また、眼をあける。
黄色がかった太陽の下で、街路には何も変わったことは見当たらない。コルウスがジラールの首筋にしめった鼻づらをおしつけている。ふと、建物の壁に虹色の線が光ったようにみえたが、一瞬で消えた。
いささか不審に感じたものの、ジラールはあらためて頭の中におさめている王都の地図――彼自身が歩きまわって記憶したもの――を思い浮かべた。エヴァリストは王城のどこかに拘留されているわけだが、安易に近づくのはやめたほうがいいだろう。
似たような出来事はこれまでもあった。なにしろエヴァリストは腕利きの魔術使い――本人は魔術師と呼ばれるのを嫌った――で、剣の腕もある「商人」だ。厄介事に巻きこまれてもしばらくすれば自力で解決して、何もなかったような顔をして戻ってくる。それが常だった。
もっとも自分はこの前何と彼にいったのだったか。面倒が起きたら呼べといったはずだ。
「一本の針を眼にさすか、千本の針を飲むか、か。ジラール、おまえはどっちがいい?」
からかうような、飄々とした声を思い起こしながら、ジラールは窓枠に手をかけ、外壁の状態を確認した。警備隊は彼を監視している。この宿の人間は彼らに定期報告を送っているにちがいない。
だが、決められたことだけに慣れた者は往々にして見たいものしか見ないものだ。そして、見ようとしないものは見えないだろう。
結い上げた髪の根元を引いて一部をほどき、頭に巻きつける。その上から職人がするように頭布を巻き、ジラールの胴回りや肩幅を実際より丸っこく、太く見せていた肩当てや胴着を外す。農民が着るようなくすんだ褐色の上下揃いを来て、脚絆の紐を締める。寝台をまるめた枕で形づくり、適当に乱す。
人は見たいものを見る。ありふれた偽装が意外に効果的なのをジラールはよく知っている。指輪をはめた上を手袋で覆って窓枠に足をかけると、少し離れたところにいたコルウスが先に飛び乗って、あっという間に外へ消えた。
窓の下の通りは暗い。少し離れたところで街灯の光が揺れている。張り出した煉瓦を足掛かりに降りるのは造作もない。壁に体を寄せるようにして立つと、ふりむいたコルウスの眼がちかりと光る。
ふいにジラールは気がついた。暗闇のなかに点滅する虹色の細い線がある。時たま壁や足元にあらわれては消える。そしてコルウスの足元にはあわい虹色の雲のような光がゆらめいている。
壁や石畳に浮かぶ線に触れてはいけない。どういうわけかそう思った。コルウスの光る眼が彼をふりむく。虹色の雲が少し進んで、また止まる。ジラールは後を追った。警備隊と時たま視界に入る虹色の線をやりすごしながら精霊動物についていく。
もっとも当初考えていたのはこうではなかった。面白いものに気をつけろといったエヴァリストの言葉がひっかかっていただけだ。そのあと出くわした露店の男が誘った面白い場所についても。
ジラールはまたあの約束のことを考えている。
警備隊は審判の塔への拘留がどのくらい続くのか、はっきりといわなかったが、ジラールは単に待つのではなく調べる必要があった。平和な王都にひそんでいる企みにエヴァリストが関わっているにせよそうでないにせよ、約束を守るには必要なときに必要な場所にいなければならない。街をさまよっている精霊動物を追っている場合ではない。
なのに不思議と、いま自分が完全に見当はずれのことをしているとは思えない。コルウスに誘われるまま進んでいくうち、ジラールはいつのまにか先日訪れた繁華街の近くにいる。精霊動物のたどる路地を選んで進む。
路地にも明るい場所と暗い場所がある。明るい場所は大きな酒場の裏口だ。ジラールは路地の暗い部分に壁に張り付くようにして留まった。光の中でひとつの扉がひらく。マントを羽織った者があらわれ、出てきたばかりの扉に向かって、何か話しているようだ。袖口に襞のついた飾りがみえた。裏口から出入りする人間には不似合いな豪奢な身なりだ。
マントが揺れ、金属が反射した。ジラールの網膜に馬蹄の形の残像が残る。
そのとき、またあれがやってきた。うなじにぴりぴりと不穏な感触が届いたのだ。
と、トコトコっとコルウスが明るい路地に向かうのが見え、ジラールは後を追うかと一瞬迷った。マントの男が表通りをめざして、つまりジラールに背を向けて歩いていく。そのあとを見送るようにひとつの頭が扉から突き出された。コルウスは扉の方へ、その突き出た頭をめざしてさらに歩いていく。
突如、強烈な危機意識がジラールを襲った。
『戻れ!』
ジラールは叫んだつもりだった。だが、声は声ではなく、何かべつのもの――異なる力、異なる流れになった。まるで自分の内側にあった力の流れが左手からコルウスに向かって飛んでいくような、奇妙な感覚だった。扉から出てきた男がふりむいた。明るい場所にいるのにその顔はひどく白く、眼のあたりは黒くおちくぼみ、まるでどくろのように見える。暗がりにいるジラールをその顔は捕らえ、凝視した。どくろの眼窩で虹色が輝くのをジラールはみた。虹色は点滅し、ジラールはそれをさらにみつめ――
肩に軽い重みがかかって、その衝撃で我に返った。
彼は暗い路地に立っていた。肩にコルウスの爪がくいこむ。片手でその小さな体を支えると、尻尾がいつものように首に巻きつく。一瞬前にみつめていた「明るい場所」はなく、今自分が立っているのと同じ、表通りのまぶしい街灯が遠くにのぞく裏路地がのびている。
ジラールはつい先ほど目撃した開いた扉をさがし、眼を疑った。路地の左右はどちらも煉瓦の壁で挟まれている。開口部はどこにもなく、小さな窓すらみあたらない。
ジラールの肩でコルウスはぶるりと体をふるわせ、そのまま胸元へ潜りこんで丸くなった。
足元に振動が感じられた。表通りを駆けてくる警備隊の馬の蹄だ。ジラールは煉瓦の壁をみつめたままじっと立ちつくした。蹄の音が十分に遠ざかると、夜の王都の影に沿って、慎重に歩きはじめた。
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