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けっして損なわれることがない(1)

「調子はどう?」  笑顔で問いかけたエヴァリストに淡い栗色の眸がまばたきをくりかえす。この娘は声をかけるといつも驚いたようにエヴァリストをみつめる。生来の美貌のおかげで他人にみつめられることにエヴァリストは慣れているが、この娘――ソランジの眸は十四歳という年齢にしては透明で邪気がない。いつも純粋な賛嘆のまなざしをむけるから、ひとのこころの邪悪をそれなりに味わったエヴァリストには可愛らしくも、面白くも感じられる。 「今日は昼のお客さんが多かったので――でも大丈夫……です」  ソランジは小さな声でそういいながら一度手をぬぐい、丸めたひき肉に衣をまぶす作業に戻った。ターク――十七歳になったばかりのソランジの兄が調理台まで小走りにやってきて、鍋に油を継ぎ足した。厨房にならぶ設備はタークには低すぎ、ソランジには高すぎる。しかしこの兄妹の息はぴったりで、足りないところを補い合っている。店の表から給仕のマルシアがせかせかとあらわれ、湯気を立てる料理の皿を運んで行った。 「僕は表にいる。何かあったら伝声管で」 「はい!」  タークが威勢よく返事をした。エヴァリストはきびすをかえして厨房を出ようとした。と、視界のすみに青い閃光が走った。 「ターク」  調理台を回って素早く少年に近づく。エヴァリストには明白でもタークはまだ気づいていない。たいして魔力を持たないふつうの人間には見えないのだ。少年に割りこむようにしながら「どいて」とひとこといってコンロに向き直る。その瞬間また青い閃光が走った。 「あ!」  タークが小さく叫んだ。今度は彼にも見えたようだ。しかしエヴァリストは慌てることもなかった。手袋をはめて側面の黒い取っ手を引く。指をつっこむとパチッと火花が散り、うすく白い煙があがっていた。この調理器具には炎の大きさを調節する魔術回路が組み込まれている。そのうちのひとつがショートしたのだろう。 「すぐ元に戻るから、他のことをやって」  エヴァリストはいった。タークは一瞬呆けた顔をしていたがすぐに立ち直って「はい。魔術師様」と答えた。聞き分けのいい兄妹だとエヴァリストは思う。この年頃の少年少女にしては良すぎるくらいだが、それは自分や表にいるでかい図体の相棒のせいかもしれない。  そんなことを思いながらも、エヴァリストの指は勝手に動いていた。ショートした回路をはずし、上着の内側から金属線や基板といった小道具を取り出す。ふだんエヴァリストが組んでいる複雑な回路を思うと簡単な仕掛けだった。交差し絡み合う金属を魔力の輝きが伝わっていく。生まれ持った魔力のおかげで、エヴァリストの眼には強く深い青色がはっきりと見える。魔力はこの世界に生きるものにさまざまな形態をとって潜んでいるが、こうしてひとの手が作った回路に流すとき、独自の深い青、けっして損なわれることのない光をはなつ。 「ターク、終わったよ」 「ありがとうございます!」 「調子が悪い装置があったらすぐ教えるんだ。僕にはたいしたことじゃないからね」 「はい!」  即座に戻ってきた大きな声になんだか調子が狂うなとエヴァリストは思う。自分がタークの年頃のときはとっくにひねくれていたものだし、みなしごで、養い親らしき人物も行方のしれない状況で、たまたまここに滞在していた怪しげな人間たち――つまりエヴァリストたちのことだ――に生死を預けて、よくもまあこんなにまっすぐでいられるものだ。  店の表側へと通路をたどるとブーツの踵に床板がきしんだ。煉瓦と木のこじんまりとした建物はこの町ではかなり古い部類に属するらしく、最初は小規模の宿屋か娼館だったにちがいない。店の正面ホールの天井には客の喧噪がこだまして、中心に据えられた長い円筒型のストーブから熱い空気があふれ、空間全体を温めている。  ガラス窓のむこうの空は白と灰色で、その中をちらちらと舞う雪をエヴァリストの眼はとらえる。初雪が降ったのは数日前だ。そのときはすぐにやんだが、今日の空の色は積雪を予感させるものだった。  大陸北東部の小さな自治領の中心にある町は、さびれてはいないが特に賑わっているわけでもない。目抜き通りから一本路地を入ったところにあるこの「鷹の嘴(たかのくちばし)亭」は、すこし前までは町にいくつかある酒場と食堂を兼ねた店のひとつだった。今は酒こそ出すものの、夕食が売り切れるとその日の営業を終えるようになっている。午後も遅い今の時間は食事を注文する客は少なく、小声で話し合っている商人たちや飲み物を片手にカードを繰る男たちが大半だが、隅のテーブルにはドレス姿の女たちの一団もいる。  無学な荒くれものが多い南の開拓地や大河の周辺と比べると、この町や自治領の住民はみなそれなりの教育を受けている。しかしこの町にも富める者と貧しい者がいることに変わりはなく、自分の力をやみくもに誇示する一団がいることにも変わりはなかった。エヴァリストがホールに足を踏み入れた時、正面の扉がきしみながら開き、男がのっそりと入ってくる。  扉をふさぐほど大柄で、身に着けた黒い革の上着は盛り上がる筋肉ではちきれんばかりだ。短く刈った髪を覆う黒革の帽子は近頃この町のいたるところに出没する「兄弟団」のしるしだった。体をゆすりながら立ち止まり、細い眼が店内を睥睨すると、男に気づいた商人がまず話をやめ、次にカードをしていた男たちが静かになった。 「店主はどこだ?」と男がいった。  人々がいっせいにエヴァリストの方を見た。  男は鼻を鳴らした。 「思ったより伊達男だな」  そういったあとに吐き出された声はおそらく哄笑の一種だろうが、低すぎる上に妙な響き方をしたせいか、可笑しそうには聞こえなかった。 「いかにも、僕が店主だ。代理だがね」  エヴァリストは男に向かって歩いていく。ブーツの踵が鳴る。ストーブの光が金髪に赤みを加え、輝かせた。 「何の用かな?」  長身のエヴァリストより男はさらに背が高かった。細い眼をさらに細めながらエヴァリストをねめつける。 「わからないのか」 「わからないね。名乗りもしないし」 「兄弟団(ブラザーズ)を知らないとでも?」 「兄弟団だって?」エヴァリストは鼻でせせら笑った。 「礼儀知らずの兄弟たちか。それならここにいるな」  男の眼に苛立ちが浮かんだ。エヴァリストの全身を舐めるようにみて、取るに足らないと評価したらしい。さらに一歩エヴァリストに近寄った。 「知らないなら教えてやろう。この町で店を構えていられるのは|兄弟団《ブラザーズ》があるからだ。こんな繁盛する店を持っていれば厄介ごとがいろいろあるだろう? それをまとめて解決するのが兄弟団(おれたち)だ」  男はすごむように肩をいからせ、にやりと笑った。 「俺たちにすべてを任せればここは」 「覚えが悪い」  男をさえぎるようにエヴァリストはいった。 「は?」 「おまえら『愚鈍な兄弟団』のひとりは前にも来た。その時僕はおととい来いといったんだが、今度はおまえだ。覚えていられないのか、それとも、おまえの頭の悪い兄弟はおまえたちのところに帰らなかったのか?」 「何を」  ぱっと男の腕が伸びた。エヴァリストの襟をつかもうとした指先が空を切る。男の眉があがった。エヴァリストは一歩後ろに下がっている。 「それにすこし遅いな。『のろまな兄弟団』だ」金髪の下でエヴァリストの眸がきらめいた。「無礼で愚鈍でのろまだなんて、三重苦だ」  男はまっすぐエヴァリストをみつめ、こぶしを突き出した。  ブラザーズの男にとって、鷹の嘴亭は新たに自分のなわばりとなったこの地区にあるただの小店に過ぎなかった。兄弟団の理屈では、この町で人々は男に「料金」を払うべきなのだった。自治領には民警なる組織があって何かと兄弟団の邪魔をするが、ほとんどは力のないひ弱な連中で、実力行使で容易に引き下がる。そもそも自治領などといってみたところで、十年前までこの土地は旧領主のものだった。  男はエヴァリストの言葉が終わる前に動いたはずだ。だが金髪の優男はまた彼を逃れて脇に飛んだ。ちょこちょことせわしないやつだ。そう思ったとき背中を鋭い殺気がつらぬいた。  ふりむこうとした肩が何かに押さえつけられる。  ふいに強烈なパンチが顎を直撃した。うしろに吹っ飛びそうなほどの力だが、男が持ちこたえたのはこれまで積んだ格闘の経験のおかげだった。素早く体勢を立て直し、背後から襲ってきた獣を思わせる姿と対峙する。結んだ長い黒髪が馬の尻尾のように揺れた。男より一回り小さいが、同じくらい鍛えられた肉体から力がふたたび繰り出される。 「遅い。ジラール」  金髪の声にもかまっていられなかった。相手は男より早く、確実に急所を狙ってこぶしを打ち込んでくる。脛、膝頭、そして腹と――股間。  あっと思ったときには天井が見えていた。火花が散るような、眼がくらむ痛みの中で足を引きずられる。 「お疲れ様。無礼で愚鈍でのろまなブラザーズ」  嫌味な声が爽やかに響いたが、頭を床に打ちつけた男にはよく聞こえていなかった。 「ジラール。それどうする」 「捨ててくる。民警が気付くだろう」  背中が戸口の石段をこすった。男は雪がちらつく空の下を引きずられていった。 「騒がせて悪かった。ゆっくりしてくれ」  エヴァリストは笑顔で店内を見まわした。奥の女たちは硬直して固まっているし、たった今の格闘に一番近いところへ座っていた商人は、のそのそとテーブルの下からはいだしている。  給仕のマルシアがふりむいて「しっ」といった。厨房に続く通路にタークとソランジの顔がのぞく。 「初雪が降ったばかりだからな。ああいう輩はいずれ雪の下だ」  人々が注視する中、エヴァリストは耳の横で細く長い指をぴんと立てた。髪を一本引き抜くと、ストーブの光に照り映えてきらりと光る。  店中の人々がみつめていた。  どう考えてもふつうは髪の一筋がこんな風に輝くことはないだろう。だが人々は不思議に思わなかった。エヴァリストは手首をひらめかせる。きらめく一本の金の糸が宙に浮かび、ストーブで暖められた空気にのって羽根のように昇っていく。  パチンと指が鳴った。  人々は夢から醒めたかのように顔を見合わせた。そして肩をすくめたり、咳ばらいをすると、ついさっきまで――兄弟団の男があらわれる前までやっていたことに注意を戻した。商人たちは取引の情報に、男たちはカードの勝負に、女たちは町の噂話に。 「ターク、厨房は大丈夫か?」  エヴァリストは兄妹をふりかえる。 「マルシア、一緒に見てきてくれ。僕がここで注文を聞くよ」 「は、はい!」  三人はパタパタと厨房へ戻っていった。エヴァリストは腕を組み、はた目にはわからないように肩をほぐした。大勢に精霊魔術を使う――それもこっそり使うのは、少し骨が折れるな、と思いながら。

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