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けっして損なわれることがない(2)
自治領民警のラルフが戸口にあらわれたのは最後の客が店を出たあとだ。
この町の民警は制服を持っているが、だらしなく着崩す者から軍隊式に規則そのままの者まで幅がある。ラルフは軍隊式の典型で、肩に隊長の徽章が光っている。栗色の髪の下にみえる青い眼はどこか陰鬱な表情をたたえて、エヴァリストと話すときは一度も笑わない。仏頂面というのでもないが、眼だけがいつも張り詰めている。おかげでエヴァリストはふだんよりさらに軽い調子で声をかけたくなってしまう。
「おや、ラルフ」
「ブラザーズが来たな。ここに」
青い眼がまばたきし、不機嫌そうな声がぼそぼそといった。
テーブルを片づけているマルシアにエヴァリストは上がっていいと合図をした。タークとソランジはまだ厨房にいるはずだ。ストーブのそばのテーブルをエヴァリストが指さすと、ラルフはむっつりした顔で腰を下ろした。
「ああ、来たよ。帰ったけどね」
「帰った? ボコボコにしたの間違いだろう。尋問にもまともに答えられなかったぞ」
ラルフは店の隅のテーブルに足を組んで座るジラールに視線を投げた。エヴァリストはしらっという。
「そいつに何を言わせたかったのかしらないが、そのうち吐くさ。無礼で頭が悪くてのろまときていれば、答えられなくても仕方ない」
「やつらが現れたら伝声管で民警 に伝えろといったろう?」
エヴァリストは鼻を鳴らした。
「ここは僕が預かっている私有財産だ。状況にどう対応するかは僕が決める。そういう契約だ」
ラルフは苦虫を嚙み潰したような顔をした。エヴァリストは腕を組み、正面からラルフをみつめる。造作は悪くない男だと思うし、見かけほど四角四面というわけでもないのだ。意外に融通もきくし、部下の評判もいいらしい。悪くない。
悪くないのに――なぜかこの男はひっかかる。
「そもそも頼んだのはきみだ、ラルフ」とエヴァリストはいった。「僕らが護衛としてここに雇われたときもきみがいたし、店主が失踪した時にここを続けてくれと頼んできたのもきみだ。自治領政府の書類を持ってね」
「店の者は無事か?」
「当たり前だろう。ジラールも僕も腕がいいんでね。客も全員、何があったか気づいてすらいないよ」
ラルフは疑わしそうに眉をひそめた。
「エヴァリスト、あんたは回路魔術師にしては抜群に魔力が多いが……」
「何? 僕が精霊魔術でも使ったと思ってる?」
エヴァリストは呆れた顔をしてみせる。
「きみら自治領の役人は疑い深いし、この町は精霊魔術には免許だ許可書だとうるさいが、僕も進んで法を破ろうとは思わないさ。ここでは精霊魔術師はずいぶん肩身が狭そうだね? 禁止がたくさんあるらしいが――僕だって精霊魔術の免許が取れるほど魔力があるなら、さっさと取ってる」
暗がりからゴホっという音が響いた。ジラールが笑ったのだ。エヴァリストは無視した。
気ままな旅の途中で立ち寄ったこの町は、ジラールが釣りをしたいといった湖の近くにあった。訪れたのは風がこれほど冷たくない頃だ。長居するつもりもなかったのに「鷹の嘴亭」の護衛を引き受けることになったのは、急襲した嵐で崖崩れが起きて道がふさがれ、出発が妨げられたのがまずひとつ。ついで町に物資が不足し、さっきの男のような輩が略奪をはじめたのがひとつ。
たまたま現場に居合わせたのもあって、エヴァリストとジラールは鷹の嘴亭の略奪を食い止めたが、店主のワイルと、その場にいた民警のラルフに説得されて、当面の宿と食事をひきかえに、この店の護衛を頼まれることになった。ワイルは中肉中背の物静かな男だった。
部屋は余っていたし、エヴァリストはこの付近で偶然みつけた鉱物に興味を惹かれていた。腰をおちつけて調査したかったとか、連れていた精霊動物が姿をくらましたとか、いくつかの理由で仕事が決まった。
護衛といってものんびりしたもので――エヴァリストとジラールの基準にすればだが――そうこうするうちに秋が深くなり、ある晩突然、店主のワイルが消えた。
魔力のおかげで他人の機敏にさといはずのエヴァリストだが、なんの前ぶれにも気づかなかった。ワイルはジラールに似て、物静かで目立たないくせに強固な精神の持ち主で、ふつうの人間たちのように感情をうかつに洩らさなかったのだ。魔力によって他人の感情を雑音のように拾いがちなエヴァリストにとって彼は気楽な人間だったが、夜逃げされても気づかないとなると、かなりしてやられた感じもあった。
ワイルはタークとソランジの兄妹を養い子にして、店で出す料理や仕入れの詳細を教え込んでいた。ふたりともまだ若いが、きっちり仕込まれたせいか腕はよかったし、手順は飲み込んでいた。とくにソランジの味付けは絶品で、鷹の嘴亭にはこの味を目当てにくる客も多いようだ。しかしふたりともまだ子供のような年齢だ。食堂の店主が消えて、料理人と護衛だけ。バランスが悪いにもほどがある。
そのときラルフが現れたのだった。
「この店をタークたちだけにしてしまうと、遅かれ早かれ兄弟団に乗っ取られてしまう」と彼はいった。
「自治に移行して十年たつが、いまが正念場なんだ。兄弟団は阻止しなければならない。旧領主は昨年死んだが、隠れている跡継ぎを探して担ぎ出そうとする連中もいる。領主なら兄弟団くらい押さえらえるというんだ。そんな一派に押し切られてはたまらない」
なるほど、政治がらみか。
「ああいう連中を相手にするのは民警の役割だと思っていたけどね」そうエヴァリストはいった。
「俺たちも手が足りないから、四六時中は見ていられない。俺はワイルが悩んでたのを知ってる。彼が逃げたのも……」ラルフは言葉をにごした。「わからないではないが、今は困るんだ。今ここをやつらに占拠されたら、冬の間ずっと居座られかねない。雪が積もるまでにどうにかするから、それまで預かってくれないか。頼む。自治領の許可も取ったし、利益はそっちのものにしていい」
「僕の本業は回路魔術なんだが」
「精霊魔術は許可制だが、回路魔術は――好きにしてくれ。修理屋でも研究でも」
精霊魔術と回路魔術。ずいぶん扱いがちがうものだ。エヴァリストはあきれたが、ジラールはうなずいた。
「俺は別にかまわん」
あっさりというので、エヴァリストはあっけにとられた。
「なんだよジラール。それはずいぶん――」
「ずいぶんなんだ」
「面倒だと思わないのか?」
「退屈はしない」
退屈ね。たしかに。
エヴァリストのような人間にとって退屈はつねに悩みの種だ。そう、退屈はしないだろう。食堂の経営もそうだが、兄弟団や、この土地の人間のふたつの魔術に対する応対の差――かつての相棒、アーベルの故国を思わせる違いだ――や、どこかひっかかりを感じるこのラルフという男。
というわけで、エヴァリストとジラールはここに留まっているのだった。小さな町のくせに人々は寛容だった。タークやソランジだけでなく出入り商人のような鷹の嘴亭にかかわる面々も、客である町の住民も、店主代理となったエヴァリストを受け入れたし、ジラールは護衛として店の隅にたたずんでいる。
「ラルフ、そろそろ雪がつもる」とエヴァリストはいった。「どうする?」
ラルフははっと顔をあげた。
「出て――出ていきたいのか?」
「いや」エヴァリストは薄く笑った。
「まだ見たいものがあるから、もう少しいるさ」
外は静かだった。雪が降りはじめたらしい。
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