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けっして損なわれることがない(4)

「待って! 逃げないで、おいで!」  朝日に輝く雪の上でソランジが木を見上げて呼んでいる。足元には雪。数センチにすぎないが、この秋――いや、冬になってはじめての積雪だ。枝先で毛のかたまりが揺れているのをジラールは認めた。襟巻めいた尻尾はリスに似ていなくもないが、もっと長い。  この町の近くには中規模の澄んだ湖と、湖に流れこむ清流が何本もある。湖は精霊動物が嫌う「動く水」ではないが、清流の数は多く、流れも速い。コルウスはエヴァリストが拾い名付けた精霊動物だが、主人の命令がなければ近寄ろうとはしなかった。ずっとジラールかエヴァリストの肩に止まっていたのだが、それはそれで退屈していたらしい。ある日の午後、ジラールが釣りをしていると、遠くから響いた生き物の声に反応して行方をくらました。  その晩はジラールのところへ戻ってきたが、次の朝また消えて、それからたびたび姿を消すようになった。エヴァリストはかまわないといったが、コルウスを置いたままこの地方を離れようとしなかった。そうこうするうちにふたりが鷹の嘴亭の護衛を引き受けると、すぐにコルウスは彼らの近くに戻ってきた。しかし建物の中に入ってはこないし、ときたまジラールとエヴァリストにまとわりつきはするものの、他の人間からは姿を隠している。  ただしソランジは別だ。この娘にはこの種の生き物に――エヴァリストも含めて――気を許させる何かがあるらしい。触らせようとはしないものの、コルウスはソランジからは隠れなかった。枝の上からじっとみつめて首をかしげ、走り去る。 「ああ、いっちゃった……」  ソランジは残念そうにつぶやき、厨房の裏口へ向かおうとしてジラールに気づき、びくりと体を震わせた。 「おはようございます。剣士様」  ジラールはうなずく。エヴァリストやコルウスと違って、ジラールは彼女に少しばかり恐れられているらしい。とはいえ、顔に傷跡が残る無表情な大男に懐けというのも無理な相談だろう。 「厨房の火は問題ない」とジラールはいう。 「ありがとうございます。晴れてよかった。午後が忙しいから、仕込みをがんばります」  ソランジはそういって走り去った。  この町では人々は週に二日休みをとる。今日がその一日目だった。ジラールが長年暮らしている河沿いの地方では公の休日は週に一日しかないから、いまだに彼には物珍しく感じられたが、休日が二日あるのは自治領の住民の信仰に基づく慣行らしい。  この地の信仰では二日ある休日のうち、一日目は料理が許され、二日目は許されていない。祈りに捧げるために家事も商売も禁止されているのだ。そのため多くの家庭では一日目にシチューなどの煮込み料理を作り、パン屋は休日前の夕方に二日分のパンを売る。そして鷹の嘴亭はというと、休日の一日目は食堂を営業するかわり、ポットを持ってくる人々に料理を売るのだった。だから鷹の嘴亭の休日は人々の休日より一日ずれている。つまり二日目とその翌日が休みになるのだ。  この習慣は法律のように長く続いている。店主のワイルが消えてもラルフが店を続けてくれとエヴァリストに要請した理由のひとつもこれかもしれない。鷹の嘴亭が閉まると一部の住民の生活が変わってしまうのだ。  もっとも住民は、自分たちに不便が起きなければ鷹の嘴亭のことなど気にしないのではないか。たとえ店主が兄弟団の一員でも、休日の食事さえ提供してくれれば問題ないのかもしれない。  この町は変化を嫌っている。住民のなかには変化を避けるためなら兄弟団に従ってもいい――と思っている者もいるようだ。かつてこの町には領主がいたが、私欲に走った統治の結果人々に退けられた。しかし自治領の運営にも個人や集団の私欲が絡み、近頃はそれなりに腐敗しているようだ。鷹の嘴亭では旧領主の時代を懐かしむ声もささやかれている。多少私欲に走ろうが、たったひとりに統治される方がむしろ簡単だというのだ。 「ジラール」  雪を踏む足音には気づいていた。ジラールはゆっくりふりむく。ラルフはそこそこ腕が立つが、気配を隠すすべをほとんど知らない。 「兄弟団に気をつけてくれ。やつら、冬が深くなる前にここを獲りたいと思っている」  ジラールは黙ってラルフを見返しながら、彼がどの経路をたどってここまで来たかと考えていた。出入りの商人は鷹の嘴亭正面扉の脇にある勝手口から厨房の方へやってくる。裏側にも小さな出入口があるが、扉の鍵は閉まっているはずだ。雪が積もった今なら足跡が残っているはずだが―― 「今日と明日は休日だろう。連中は休まないのか?」  ジラールの問いにラルフは肩をすくめた。 「彼らにも信仰はあるが、油断は禁物だ。ここが休日に荒らされると町の者の動揺は大きい。祈りの日の準備ができない者も出るし、他の人々にとっても、安息それ自体がおびやかされてしまう」  ジラールはうなずいた。ラルフの外套の襟で朝日を受けた徽章がきらりと光った。

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