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けっして損なわれることがない(5)
男が鷹の嘴亭を訪れることはめったになかった。小さな町とはいえ男の行きつけの店はほかにある。ここへ来たのは緊急の用事で隊長を迎えに行ったときだけで、それも何年も前のことだ。
馴染みでないからこそ今回の頼みを引き受けやすかった。一見平穏そうにみえるこの町では、憎悪も愛着も簡単に増幅する。それは小さな町だからこそだ。人々の感情は思いがけず深いところで亀裂や癒着を作っているが、いつもは自分でもそれに気づかない。男もそのひとつに囚われている。
一昨日の雪はほとんど溶けていた。男は下弦の細い月をたよりにぬかるんだ地面を避けて草の上を歩いた。慣れない服と帽子が心許なかった。祈りの晩であるはずの夜に外にいるのも、これからするべきことも。
厨房に面した裏庭には細長い木が立っている。男は室内の明かりがすべて消えているのを確認した。中に入ってからやるように、と言われていた。外から石を投げこんだりしてはいけない。忍び込んだらことをはじめるまえにあらかじめ退路を正面に確保する。住人に見つかったら逃げること。その時に証拠を残しておくこと。万が一捕まっても、最終的な目的が達成されるまでは弁護してやれない。
男が持っている相手は合鍵は盗んだものだった。その時は良心が痛んだものの、今はもう忘れている。庭を通り過ぎたとき足元に影が走ったような気がしたが、一瞬のことだった。ネズミだろうかと男は思った。裏口の鍵はあっさり開いた。中は月が出ている屋外よりさらに暗く、男は眼が闇に慣れるのをしばし待った。
*
湿った鼻先でつつかれるような感触があった。
ジラールは眼を覚まし、同時に体を起こしている。暗がりの中に宝石のような光がふたつ。
コルウス。
やわらかい革の靴を履くと、獣は足元にまとわりつきながら尻尾をふった。ジラールは剣を腰にさし音を立てずに部屋を出た。隣の扉がわずかに開いているのを確認して、階段を下りていく。
隣に気配が立った。
「殺すな」とエヴァリストがささやく。「この男、簡単に視ることができそうだ。洗ってみたい」
ジラールはうなずきもしなかった。闇になじんだ眼が階下に侵入した男の姿をとらえる。警戒しているつもりなのだろうが、ジラールにとっては隙だらけだった。手慣れたコソ泥のようにも見えない。頭には特徴のある形の帽子。
「ブラザーズね」エヴァリストがささやいた。呆れたような口ぶりだった。
ジラールは厨房に足を踏み入れた男の背後に忍び寄ると、その首に腕を巻きつける。
あっさりしたものだ。
エヴァリストはジラールの手際を目撃しながら、なかば感嘆、なかば呆れた調子でそう思っていた。もちろん口には出さず、男が崩れ落ちると即座にそばに膝をつく。
兄弟団の帽子を取ってあらわれた顔に見覚えはなかった。しかしこの男が兄弟団の一員でないのは、彼が最初に足を踏み入れた時からわかっていた。コルウスの警告の前から、大きく振れた感情がエヴァリストの注意を引いていたからだ。コソ泥や強盗とは緊張の種類がちがったし、前に店に訪れたごろつきにも似ていない。
ランプをひとつだけともし、男を腰壁にもたれさせる。ジラールは腕を組んで魔術師の相棒を眺めている。エヴァリストは男のひたいに手のひらをあて、いつもは抑制している魔力の触手を伸ばした。
意識の網目の空白部分から侵入し、男の記憶や思考の結び目をほどいていく。防御がない人の心はなんと柔らかで隙間だらけなのだろう。自分の指から青い光が男に吸い込まれていくのがわかる。魔力の光が照らす心の底はいくつもの層にわかれ、つながりもつれた思考や感情がひくひくと波打っている。欲望によって判断は混乱し、浅い記憶と深い記憶がまざりあう。
この奥へ入っていきたい。そんな好奇心がエヴァリストの中でふくらむ。罠なのは理解している。ただの人にすぎないこの男が仕掛けた罠ではなく、精霊魔術があやつる「力のみち」そのものに潜む罠だった。
そのとき視線を感じた。獣の眼がエヴァリストをみている。二つ、いや、四つ。
エヴァリストの口元に思いがけず笑みが浮かんだ。ジラールが彼をみていた。コルウスも。
男の中に侵入させた魔力をエヴァリストは等高線のように展開させ、探索用の地図をつくった。「力のみち」の誘惑を無視して必要な答えを地図の上で探す。
「エヴァリスト」
ジラールが静かに呼んだ。
エヴァリストは男のひたいから手を離し、ひらひらと振った。
「ああ。だいたいわかった」
ジラールは低い声でたずねる。
「何をするつもりだった?」
「直接には厨房の破壊だな。僕とおまえが出てくるのは予定の上だ。兄弟団を偽装し、帽子を残して怒りを買う」
「住民の?」
「いや」エヴァリストは意識を失ったままの男のまぶたを下げた。
「動かしたいのは領主復帰の穏健派だ。加えて、連中がかつごうとしている張本人で、ここの本来の主でもある人間を怒らせたいらしい」
「こいつは誰なんだ」
「民警。送り込んだのはラルフじゃない」
「どうする」
エヴァリストは首をねじってジラールを見上げた。
「おまえはどうしたい? ジラール」
「この店で一番重要なのはタークとソランジだ」
エヴァリストは微笑んだ。
「そろそろ、本来の主に決着つけてもらわないとな」
「ワイルか。どこにいる?」
男がうめいた。エヴァリストはもう一度彼のひたいに手をあてた。
「領主復帰を望む一党は過激派と穏健派、ふたつに分かれているようだ。ワイルは十年前に死んだ旧領主の妾腹だな。一党によってどこかに監禁されているようだが……」エヴァリストは眼を閉じる。
「コルウス」
呼ぶとすぐに動物は近寄ってきた。毛皮に包まれた胴体を撫でると、なめらかな毛先に自分の魔力が感応するのを感じる。エヴァリストはたったいま男の心の中に見えた光景を思い浮かべる。あやとりの糸を渡すように男の記憶の一部をコルウスに転移する。
「探してくれ」
丸い眼が賢しげに光った。手のしたで温もりがするすると動き、黒い影がランプの下を走り抜ける。
ジラールは影の行く先をちらりと見ただけであっさりエヴァリストに向き直った。
「結局夜逃げじゃないのか」
「僕としては自分を担ぎ出そうとする連中にうんざりして行方をくらました程度がよかったけどね。どちらの派閥も領主復帰の旗印でワイルをかつぐつもりでいる。過激派の一部は兄弟団と通じているが、穏健派はワイルを説得している最中らしい」
ジラールは無表情のままいった。「拘束してか」
「兄弟団に町や店をいいようにされてもいいのか、ということだろう」
「ラルフは復帰派と関係があるのか」
「わからん」
エヴァリストは男に触れた手を離した。
「この男は知らない。少なくとも穏健な方から圧力をかけられるくらいはあるだろう。どうせ民警の上層部――町の中枢にも領主復帰派はいるだろうしな」
「とりあえずこの男、捨ててくるか」
そういいながらジラールはもう男を担ぎ上げている。エヴァリストは顎に指をあてて思案した。
「僕の想像では、ラルフはワイルさえ戻ればいいんだろうね。だから僕らは彼を取り戻して――あとは連中に任せればいいんじゃないかな。忠誠心の行きつく先がたくさんある人間は大変だが、この町の事情は彼らのものであって僕らのものじゃない。ただタークとソランジを忘れないよう、釘だけさせばいい」
「釘をさすのはおまえが得意だろう」
ジラールの声は闇に紛れてほとんど聞こえないくらいかすかだった。
「俺はコルウスを追う」
「獣同士仲良くしろよ。僕はラルフを当たる」
ジラールはほとんど口を動かさずにたずねた。
「これからか」
美貌の魔術師はニヤニヤと人のわるい微笑みを浮かべた。
「夜這いは得意技だからさ」
*
足元に弱弱しい月の光が落ちている。男は寝台に腰をおろしたまま光の角度を眺めて計算し、この部屋に閉じ込められて何日経つか、声に出して数えた。
最初の数日は昼間彼を説得しようとする訪問者たちと不毛な議論をくりかえしていたが、議論をしても無駄だと思った彼が押し黙っているようになると、身の回りの世話をする者しか現れなくなった。彼らは訪問者とは逆で、彼が何を聞いてもひとことも答えない。扱いは丁重だった。膝を折って礼をする仕草は統治者に対するもので、一介の食堂主に対する態度ではない。
鷹の嘴亭はどうなっているだろう。
月はもう下弦だ。数えまちがえていなければ今日は休日だろうし、運ばれた食事が冷たかったのもそのせいだろう。いい加減ここを出なければならなかった。タークとソランジは無事でいるかどうか。彼が連れ去られる前に雇った二人組の護衛はとっくに町を離れたにちがいない。
とはいえどうすれば出られるのか男にはわからなかった。もとより腕っぷしには自信がない。自分はラルフではないのだ。
古い友人のことを彼は思い起こす。町と民警に忠誠を尽くしているラルフは、彼が傀儡領主になったらどう思うだろうか。訪問者は彼を説得しようと試みたが、彼は彼でここがどこなのかもわからないまま、解放してくれと要求して、どちらも失敗している。
部屋の調度は整っていたし、毎日の食事も粗末ではない。領主復帰派の有力者が関係しているにちがいない。以前父が持っていたような権力が欲しいからといって、わざわざ庶子の自分を担ぎ出すのはなぜなのか。
力で奪い取ると血が流れるから。きっとそうだろう。
この地の信仰は血を流すのを嫌った。かつて領主だった父が打倒されたときは、多くの血が流れた。
彼を担ぎ出す理由がそれだとしても、やはり筋ちがいだろう――と男は思った。この大陸は広いのだ。どこにでも好きなところへ行って自分の王国を作ればいい。もちろん行った先には、もともとその地に住む人々がいるだろうが。
今にして思うことは、鷹の嘴亭という小さな場所を守りたいということだけだ。仮に自分があそこにいられないとしても、あの兄妹――旧領主が死んだときの争乱で親を失った子供――がいる場所が守られればよかったのだ。自分も含めた庶民の願いなどこの程度ではないだろうか?
だが十年が経過して人々はちがうように考えはじめている。そこへ兄弟団というごろつき集団があらわれたと思うと、今度は自分がここへ閉じ込められて、このありさまだ。
月の光が差しこんでいる窓は小さすぎる上に、足掛かりもない壁の上方にある。男はため息をつき、枕をはたいて横になった。
扉をひっかくような、かすかな音が聞こえた。
つぎにもう少し大きな音が響いた。どたりと何かが倒れる音。
男は飛び上がるようにして起き上がった。耳を澄ます。またもひっかくような音のあと、今度はカチッと金属が噛み合う音が響いた。
男はじっとしていた。暗がりに黄色く光る点がふたつ輝き、みるみるうちに彼に近寄り、飛び掛かって――
硬直したまま男が息をのんだとき、いきなり光る点が引き戻された。大きな手が覆いをかけた明かりをもち、毛皮の生き物をつかみあげると、無造作に肩にのせた。
「ワイル」
「あんたは……」男はぽかんと口をあけた。「ラルフの勧めで雇った――」
「鷹の嘴亭の護衛だ。遅くなって悪かった」
「あ、ああ……」
「出るぞ」
男はあたふたと寝台から飛び降りた。あまりにも驚いたせいか、閉じ込められて思考が鈍っていたせいか、大柄な黒髪の護衛の名前を思い出すまでに時間がかかり、気づいたときは外に出ていた。
「その――ジラール、店は今……」
「タークとソランジがやってる。俺たちもいくらか手伝った」
「あんたらが?」
「もっとも、そろそろ出発したいと思ってる」ジラールは淡々といった。「冬が来たし、連れが食堂経営に飽きてるんだ」
*
浅い眠りのなかでラルフは夢を見ていた。夢だとわかっているのに目覚めることができない、そんな種類の夢だった。眼の前には従士の制服を着た少年時代のワイルがいる。ラルフには未来がわかっていた。妾腹の彼は異母兄に一生その地位のまま仕えなければならなかったはずだ。彼にはもっとふさわしい場所があるのに。
しかし領主打倒の一派が立ち上がり、統治の権力が別の場所に移っても、ワイルがラルフの考えるふさわしい場所に立つことはなかった。いまだにワイルは従士あがりの「鷹の嘴亭の主」にすぎないのだ。民警に入ったラルフよりも軽く、自治領の統治に関わることもなく、本来それは……
(間違っているのに?)
なめらかな声が夢に侵入してくる。ラルフは眉をしかめながら首を縦に振る。自治領や町の今の統治に逆らいたいわけではない。しかし民警や議会の中枢の一部は兄弟団のような組織と通じて腐敗し、一部は領主制復帰に傾くとき、ワイルこそが正当な継承者だという思いは消えない。それはラルフのなかで膿んだしこりのようになっている。
少年のワイルの姿が消えて、大人になった彼に変わる。ラルフの前でその服装はめまぐるしく変化する。従士のお仕着せから庶民の服装へ、そして豪華な統治者の服装へ。さらにそれは旅装束へと変わって、ワイルは厳しい声でいうのだった。
「本当は私は何もいらないんだ」
ラルフの唇は乾いている。投げ返すべき返事は口の中にとどまったまま出てこない。頭の中ではめまぐるしく言葉が回転する。「俺もか?」と言葉は繰り返す。「俺も置いていくのか? ワイル。生まれ育ったこの土地を見捨てるのか? 俺はここを……離れたくない。でもおまえがいないと俺は――」
唇だけでなく喉の渇きもひどかった。それが刺すような痛みに変わって耐え難くなる直前、急激に和らいだ。乾いた唇が濡れたもので覆われる。体全体が羽毛に持ち上げられたような感覚があった。体内に流しこまれたのは水ではなく、けれど渇きを癒すもので、全身を浸す快感に逆にうめき声が漏れる。たまに行きずりの女と交わす快感に似て、それ以上の――
伸ばした手が柔らかい感触に触れた。
「ワイル?」
そうつぶやいた自らの声に驚いてラルフは眼をあけた。しかし視界に映ったのはきらめく青い光だけで、その向こうに見覚えのある美貌があらわれたと思ったのも一瞬のことだった。青い光の向こうから声が直接頭の中へ響いてくる。
(忠誠をどこに置くかは自分で決めてくれ。ただしタークとソランジに居場所を残すのを忘れるな)
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