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けっして損なわれることがない(6)

 下弦の月が沈み、夜が明けた。  祈りの夜は終わった。静かな町の片隅で暮らす人々の中に、もし、鷹の嘴亭をじっと観察している者がいたとしたら、夜中からこの朝にかけて起きた小さな異変に気づいたかもしれない。  たとえば、ひとつは鷹の嘴亭の主人だった物静かな男が久しぶりに姿を現したこと。彼は店の看板の前にしばらく突っ立ち、「嘴」の文字を「翼」に書き換えた。そして店の持ち主が、彼から年若い料理人のタークへ変わったこと。  いや、実際は店の名前や持ち主が変わったことに、町の誰も気づかなかった。どういうわけか、元からそうだったと信じこんでいたからだ。変化を嫌う住民にとっては何も変わりはしなかった。「鷹の翼亭」は年若いタークとソランジの兄妹の店だ。彼らに店を譲った養い親はたまにしか表に出てこないし、よく長い旅に出る。「鷹の翼亭」は民警の隊長ラルフのお気に入りだったから、隊員が頻繁に立ち寄るせいで兄弟団と名乗るごろつきたちも近寄らない。そんな店だ。  そしてこの町から二人の男――輝く金髪の美貌の男と、顔に傷跡のある黒髪の大男――が立ち去ったことにもほとんどの者は気づかなかった。その後春が来て、民警のラルフを筆頭にした「自治領の守護者」を名乗る者たちが議会や民警の中枢にいた領主制復帰派を一斉に糾弾し、変化を嫌う静かな町がすこしだけ揺れたときも、彼らを思い出したのはタークとソランジだけだっただろう。 「おまえの精霊魔術だか、手品だか、めくらましだか――あれははどのくらい続くんだ」  襟巻のように首にまきついたコルウスの尻尾がパタパタとジラールの顎をはたく。湖を抜けると風はいくらか和らいで、南に向かう彼らを背中から押しにかかる。先を急ぎたがる馬をなだめながら隣を行くエヴァリストに問うと、金髪の魔術師はにやりと笑った。 「さあね。連中が信じたいだけ長持ちするさ。僕は町の過半の人間が信じそうなことを信じさせただけだからな」 「そうなのか」 「領主に妾腹の庶子などいなかった。鷹のなんとか亭はうまい休日料理を作ってくれる店だし、そんな店は兄弟団のようなごろつきから民警の手で守られるべきだ――とか、連中が信じたいのはそんなことだよ」 「精霊魔術を使うのに躊躇していた割には大胆だったな」  エヴァリストは手綱をいい加減に握ったまま肩をすくめた。どのみちこの男は手綱などいらないのをジラールは知っていた。エヴァリストはたいていの動物を意志だけで動かせるのだ。 「実は、力の強い土着の精霊魔術師がいるかもしれないと思っていたのさ。むかし古老に聞いた話にこのあたりの湖が出てきたんでね」 「そいつに会いたかったのか」 「ん?」  エヴァリストは予想外のことを聞いたかのように眉をあげたが、あっさりと答えた。 「どうかな。僕は自分より強い魔力の持ち主になかなか会わないんでね。会えると楽しいかもしれないな。殺しあうかもしれないが」  物騒なものいいだが、ジラールには特にいうべきことはなかった。そんなものか、と思っただけだ。剣や銃の腕と同じような側面がエヴァリストの精霊魔術にもあるのかもしれなかった。決して損なわれないものがあると知るためには、試してみなければならない。 「ともあれそんな伝説級の魔術師などいなかった」エヴァリストは平然と続けた。「この地方の人たちは単に信心深いだけだ」 「どうしてわかった」 「ラルフに触れたからな」 「食指が動かないんじゃなかったのか」 「だから食わなかったよ」  首をふったジラールの肩でコルウスが不満げにクウクウと鳴いた。空は雲に覆われて白く、背中を押す風には雪の匂いがする。

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