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みえないものが棲むところ(1)
「あんた、学者か?」
酒場の喧騒のさなかでもその声はくっきり響いた。もじゃもじゃ頭がはっとしたようにあがり、鮮やかな金髪をみつめて眼を丸くする。
「おのぞみの男だ」
もじゃもじゃ頭の前に座る長髪の男がぼそりといった。こちらの声は金髪の男とは対照的に低い。
「ではあなたがその、精霊動物使いで?」
もじゃもじゃ頭は困惑したように金髪を見上げ、つぶやいた。
それは金髪の男の美貌のせいか、あるいはほかの理由のせいか。答えは簡単、両方だ。彼は精霊動物にくわしい人間を探してさまざまな場所を聞きこみ、やっとのことでこの酒場で会えるという情報を手に入れたのである。ところが酒場の主人が最初に彼を引きあわせたのはおそろしげな傷跡のある大男で、大男のあとに現れたのが美貌の金髪、どちらも彼の想像とはまったく違っていた。
ではどんな人間を想像していたのかといえば、そう――いかにも魔術師然とした老人や、いかにもこの土地を知り尽くした風体の年老いた猟師、そんなところだったかもしれない。
金髪の下で青い眸が愉快そうに光った。
「精霊動物使いか。おもしろい表現をするね」
もじゃもじゃ頭は慌てたように肩を揺らす。
「あ、いえ――失礼しました、その――」
「ジラールに聞いたよ。地図を作ってるんだって?」
「ええ、はい、そうです、そうですが、ちがいます」
「ちがう?」
金髪の男――エヴァリストは問い返した。本当はたずねなくても知っていた。というのも、眼の前の男には魔力がほとんどなく、彼の心の声はエヴァリストの耳に駄々洩れだったからである。魔力の少ない者は自然界に存在する魔力の経路〈力のみち〉を感知できない。この男はジラールの首に巻きついている毛皮が精霊動物だということにも気づいていないだろう。
「私は精霊動物の生息分布を調査しておりまして……」
エヴァリストはもじゃもじゃ頭の前に座る長髪の男――ジラールの横に腰をおろした。話を続けるよううなずくと、学者は堰を切ったように話しはじめた。
「そもそも野生の精霊動物の生態はまったく知られていません。そもそもどこにどのくらいの数が棲んでいるのかすら、まともな調査がまったくない。古来から人間に使役されてきたにもかかわらず、これほど謎につつまれた――」
喋りつづける男の身なりは簡素だが、頑丈な旅装はけっして安物ではなかった。年齢はエヴァリストより五歳ほど下か。ジラールがちらりとこちらをみる。学者同様、魔力をあまり持たないのに、この男は心を不用意に他人に漏らしはしない。傷跡のある顔にも表情がほとんど浮かばないが、その視線が何を問いかけているのかはエヴァリストにはわかっていた。
「精霊動物の精緻な生息地図を作ることで、まず最初の――」
「悪いけど、今日は忘れてもらおうかな」
「え?」
エヴァリストはふところから銀貨を取り出しただけだ。眼の前できらめいた金属に、もじゃもじゃ頭の学者はきょとんと眼をみひらく。
「一杯飲んで帰りなよ」
エヴァリストは銀貨をテーブルに置いた。「僕のおごりだ」
ジラールとエヴァリストが立ち上がった時、学者は途惑ったようにあたりを見回していた。自分が何のために来たのか忘れてしまったようだった。
「なぜあの男を追い払った?」とジラールがたずねた。
彼の住まいは用心深い動物の棲みかに似ている。危険を回避し、周囲を見張ることに特化しているからだ。大きな魔力をその身に宿す精霊動物はふつう、この家になじまない。彼らは動く水――川が嫌いなのだ。なのにジラールの首に尻尾をまきつけている一匹だけはちがう。
そんなことを何となく考えながら、エヴァリストは他人の寝台に勝手に寝そべっている。
「気が向かなかったから? 僕は気まぐれなんでね」
気楽な口調で答えると、ジラールはちらりと視線を流して「それだけか」といった。信じていないらしい。
エヴァリストはあくびをする。たしかに気まぐれのせいなのだ。別の時、別の状況ならあの学者に協力しようと思ったかもしれない。
「地図の用途は主にふたつだ」そういいながら両腕をのばした。
「支配のためか、理解のため。彼は理解のために作りたいんだろうが」
「連中が狩られて売られる前に保護もできると話していた」
「たしかにね」
「こいつらが狩られるのは嫌じゃないのか」
ジラールは首に巻きついたままの毛皮を引きはがして腕にのせた。定位置を無理に離れさせられて、コルウス――エヴァリストとジラールを主人とする精霊動物――は不満そうに眼をあけ、ぱたりと床に飛び降りた。エヴァリストは鼻を鳴らした。
「ずいぶん僕に詳しくなったじゃないか、ジラール」
「かもしれん」
ジラールは寝台に尻をのせる。大の男ふたりの重みで木枠がきしんだ。エヴァリストはじろりとジラールをみつめ、査定でもするように眼を細めた。
「おまえは狩られるほう、それとも狩るほうか?」
「それが?」
「どっちにいるかで地図の使い道は逆になる」
「おまえはどっちがいい、エヴァリスト」
「当たり前のことをきくなよ」エヴァリストは呆れたような眼つきになった。「狩るほうに決まってる」
「そうか? たまには狩られるのもいいだろう」
ジラールはうすい笑みをうかべ、背中を倒した。またも寝台がきしみ、あやしい獣じみた音を立てる。横で不満げな声が上がる。
「それはこっちのせりふだ」
「だったら――」
その時ぽすんと跳ね返るような音がして、ふたりの男の上に毛皮が降った。尖った鼻面がエヴァリストの顔を舐め、同時に尻尾がジラールの顔を撫でる。
「狩るのは自分だ、と……」
「そうらしいな」
ふたりの男は顔をみあわせた。コルウスは満足げに耳を立て、悠々と尻尾をふっている。
ところがもじゃもじゃ頭の学者はあきらめなかった。
数日後も同じ酒場にやってきては酒場の主人にたずね、エヴァリストに同じ頼みを持ちかけた。この時は初回とちがい、グレイと名乗る暇があった。エヴァリストは最初と同じように気が乗らないと追い返したが、記憶を消しはしなかった。
おそらくコルウスのせいだろう。この生き物は気まぐれで人に懐かないくせに、いつもエヴァリストかジラール、どちらかにまとわりついている。エヴァリストは魔力を分けているから当然かもしれないが、魔力に関しては一般人であるジラールの肩を定位置とする理由はジラールにはわからない。そしてこの学者、グレイは魔力に関してはジラールと同様だし、ついでにいえばジラールとちがって内心の動きが表情や態度に完全にあらわれる、銃にも剣にも大金にも慣れていない人間である。しかしその日はコルウスが頭を上げ、グレイをみたのだ。
襟巻そっくりのなりをしてジラールの首にまきついていた毛皮がにゅっと首をのばし、鼻面をつきだした瞬間こそ、グレイはぎょっとして眼を見開いた。が、すぐにその表情は崩れて、満面の笑みに変わった。
「ああ、――ですね?」即座にグレイの口から発せられた音はジラールには聞き取れなかった。「まてよ、――かな? いや――のようでも」
ジラールに対してはみるからにびくびくしていたくせに、コルウスをみつめる眼は好奇心に輝いている。その口から吐き出されるのはジラールがまったく聞き慣れない言葉だ。エヴァリストが眉をあげた。
「何だって? 何といってる?」
「あ――」
グレイははっとしたようにコルウスからエヴァリストへ視線をうつした。
「これはその――すみません、学名というもので――」
「学名」
「種というのはですね、一見似た外見をしておなじ水辺に棲んでいても、実はまったく親の系統のちがう、別種であることがある。その一方で外見が大きくちがい、ちがう場所で生きていても、親はおなじ系統だということもある。学名とはこういう種の近さ遠さをわかりやすくするために考案されたもので」
一気にまくしたてようとしたグレイの言葉をジラールは唐突に中断させた。
「そいつは何だと思う?」
「この生き物ですか?」
グレイはしごく真面目な表情だ。「わかりません。みたことがない」
エヴァリストがくすくす笑った。
「それが精霊動物というものさ。眼の前にいても気づかないのに、彼らの地図を作るって?」
グレイの顔が赤くなったが、エヴァリストはそれ以上彼をはずかしめることはしなかった。
それにグレイもこの程度でへこたれるような人間ではなかったらしい。次にジラールが町で彼をみかけたときは向こうから近寄ってきて、真っ先にやったのはコルウスを探すことだった。
エヴァリスト以外の人間はジラールと二人きりになるのをあまり好まない。居心地が悪いのか、きまりわるいのか、たいていの人間はジラールと長く同席しようとはしない。しかしグレイは気にならないようだ。
エヴァリストが馴染みの職人の店からジラールに合流した時、グレイはジラールの前に陣取り、帳面を広げてコルウスを描いていた。なかなか達者な絵だったし、エヴァリストが気配を隠しもせず横で眺めていても描きつづけていたのは、たいした集中力でもあった。
グレイの興味は最初から精霊動物にあったわけではなかった。彼は何年もかけて大陸固有の動物を調べ、絵図面に記録し続けていた。精霊動物の調査もそのその延長だったらしいが、生息地図を作ろうと思い立ったのは、北の古老から精霊動物のもつ「川を渡れない」という特徴を聞き知ったからだという。
だからこそ、小さな支流が何本も平原に分岐するこの大河を選び、旅をしてきたという。
以上はジラールが聞きもしないのに、グレイが勝手に喋った。「動く水」を嫌う精霊動物は川筋によって棲み分けている。支流ごとに精霊動物を追って記録すれば、謎につつまれた彼らの生態がすこし明らかになるにちがいない。どこにどんな精霊動物が棲んでいるのかが把握できれば、市場で売られて悲惨な目にあっていたときも、元いた場所へ戻してやることができる。
――と、こんな調子でグレイの売りこみはその後何日もやむことがなかった。しかし美貌の精霊魔術師にはグレイの思惑など最初からつつぬけのはずだ。
エヴァリストがどういうつもりでいるのかわからないままジラールは興味深く成り行きを見守っていた。ジラールにとって、グレイは少々変わっているだけの無害な男にすぎなかったが、他人がほとんど興味を持たないことにひとり熱意を捧げる人間は嫌いではなかった。
とはいえ、ついにエヴァリストが「まあ、いいか。つきあってやっても」といったときは多少驚いたものである。
何年ものつきあいで、この男が瞬発的な直感で物事を決めると知っていたからだ。初日に記憶を弄ったくせにいまさら承諾するとは、グレイの熱心さに根負けしたのか、ジラールの知らないところで何か理由ができたのか。それとも単にこの学者の絵の腕前が気に入ったのかもしれなかった。
「え? ほんとに! いいんですか?」
エヴァリストの返事を聞いたグレイはジラールよりも驚いたらしい。
「そのために口説いていたんだろう?」
「もちろん! もちろんですが……」
「明日出発しよう。おまえも来るか」
エヴァリストの視線がジラールのそれと合い、ついでもっと下におちた。ジラールの首のうしろでコルウスが頭をもたげ、尻尾を一度だけぱたりと振った。
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