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みえないものが棲むところ(2)

 悠々と流れる大河は無数の命と豊かな地形、変化に富んだ気候をはぐくむ。  エヴァリストはこの川の水源を見たことがなく、この水が最後に注ぐ海の果てに行ったこともない。物心ついた時はすでに北から下る隊商の一員だった彼にとって、旅はなじんだ鞍やシャツのようなものだから、興味さえあれば川の起点や終端を訪れたことだろう。ところがこの川の水源や河口にエヴァリストの興味をひくものはない。  そんな彼がこの十日ほど川筋をたどる旅を続けているのは、右手の馬の背に座るもじゃもじゃ頭の学者、グレイのせいである。本人は馬に慣れているというが、癖のある乗り方に馬の方はいささか迷惑そうだ。エヴァリストの左手では大柄な男が馬を進めている。硬くまっすぐな黒髪はいつものように首の後ろで結ばれて、首には長い毛皮が巻きついている。エヴァリストの視線の先で毛皮が動き、鼻先と光る眸が飛びだした。 「ジラール、コルウスをよこせ」  馬を寄せると大柄な男は視線も向けずに「どうした」といった。 「腹が減ったらしい。もうすぐおまえの首を絞めにかかるぞ」 「そうか」  ジラールは動揺せず、毛皮の生きものは素早く動いて差しのべたエヴァリストの腕にのりうつった。尻尾で顔をはたかれてもジラールは無表情なままで、心は鏡のように静まったままだ。精霊動物はエヴァリストの腕から肩にひととびでうつり、ふところに鼻先をつっこむと四肢と尻尾を丸め、ごそごそと胸元へおさまった。いったん場所を確保してからくるっと回り、ぴょこんと顔を突き出す。エヴァリストは薄く微笑み、獣の鼻先に唇を近づける。  馬の蹄が土を蹴る規則正しい音のあいだに、右手で小さく息を飲む気配がする。グレイがぎょっとしたような顔で見つめていたが、エヴァリストは気にしなかった。唇から直接魔力をうけとった獣は満足げにエヴァリストの首筋に顔をすりつけている。  感心されるほど長く生きているわけではないが、エヴァリストは自分が望んだことをこれまでほぼ実現させてきた。もっとも、どれも――エヴァリストの基準では――たいした望みではなかった。自分の美貌と才能があれば、大陸にひしめく小さな国家を支配することもできるかもしれないし、この地一番の富を貯えることもできるかもしれなかったが、エヴァリストは興味がなかった。  以前組んでいた黒髪の魔術師のように、回路魔術の真髄を極めたいとも考えなかった。彼が好むのは、人間が賑やかに暮らし、金儲けと陰謀にあけくれる大きな町や砦で、愛するのは快適さと贅沢、そして自分の技術や能力を適度に発揮できることだ。誰かに金儲けや陰謀を持ちかけられれば面白そうな時だけ首をつっこむ。  ほとんどの人間はエヴァリストの美貌か、魔術の腕か、でなければ金でいうことを聞くが、中にはそうでない者もいる。エヴァリストに愛想をつかして離れていったアーベルや、ここ数年行動を共にしている男がその代表だ。軽薄な周囲に左右されない独自の基準を持つ者たち。口に出したことはないが、快適さや贅沢、退屈しのぎの冒険以上にエヴァリストが好んでいるものだった。  ぱっとしないもじゃもじゃ頭で、無防備に感情を垂れ流しているこの学者も独自の基準を持っていた。自分以外は誰ひとり情熱を持たないようなことに夢中になっている。  大河は蛇のように大地に横たわっている。中流のこの地域だけに限ったとしても、精霊動物の生息地図を作るというグレイの野望は一度の旅で終わるとはとうてい思えなかったが、協力するのは春のあいだに限るとエヴァリストは断った。  この地域だけでも川によってうるおされた地形はさまざまだ。湿地やなだらかな緑の丘、草原や岩山の砂漠まで含んでいる。春といっても寒暖の差は激しく、凍るほどの寒さとシャツ一枚になれる日が交互にくるうえに、ひどく風が強かった。おかげでここでは北のような深い森が育たない。  グレイに話していないが、エヴァリストにはコルウスの他にも「名づけ」をした精霊動物がいる。彼らはコルウスとちがっておいそれと川を渡ったりはしない。翼をもつものですらそうなのだ。軽はずみな気持ちで精霊動物の主になるものではないとエヴァリストが学んだのはずっと以前のことだった。動く水を嫌う彼らにエヴァリストは魔力を分け与えるかわり、砂漠にある隠し地所を護らせている。しかし主のいる精霊動物はグレイの望むものではないだろう。彼が求めているのは野生の生き物なのだ。  夕方には必ず雨が降った。増水した支流に怯えたコルウスはジラールの首に巻きついたままぴくりとも動かない。精霊動物は天候の変化に敏感だ。空がきれいに晴れていてもコルウスが騒ぎはじめると一行は夕方になると雨がしのげる場所を探し、難を避けた。  グレイが持つ地図には、大河とその支流でわかたれた領域にひとつひとつ記号がふられていた。グレイは領域の中をさらにマスで区切り、手帳に細かく日誌をつけている。動物には頻繁に出会った。エヴァリストの前には野生の生き物もおそれず現れるからだ。しかし精霊動物にはほとんど出くわさない。  精霊動物はその地に棲むほかの動物に似た姿をとることが多い。そうエヴァリストに聞くと、グレイはそれぞれのマス目の区画にどんな生き物が棲んでいるかも逐一記録するようになった。休憩のたびにグレイが広げた帳面は、動物だけでなく草花から地形までさまざまなスケッチが埋め尽くした。  なるほど、学者とはまめなものだ。  旅に出て最初に発見した精霊動物は、野生の花畑に隠れていた。  一行は黄色と紫、青色の小花に覆われた草地のなか、慎重に馬を進めていた。一見しっかりした地面のようだが、きれいな花の根はぬかるんだ土に生えている。動物が踏んだ細い道をゆっくりたどりながら、グレイは上機嫌だった。 「冬に雨が多いと花がよく咲くんです。どうして赤い花がないのかわかりますか? 黄色や紫、青の方が虫が好むんですよ」  うしろから学者の声がずっと響いている。興がのったグレイはおしゃべりで、知っていることを何でも話したがった。いつものようにジラールは一言も言葉を発しないから、エヴァリストが時々相手をしなければグレイの独演会が続く。  この学者は知らないうちに厄介ごとに巻きこまれているにちがいない、とエヴァリストは思った。虫がどんな色の花を好むかといった話題であれば街中で話してもおそらく無害だ。しかし人の耳は意外なところに必要な情報を聞き取るものである。グレイは他人が欲しがるどんな情報を欲しがるか、気にとめたことがあるだろうか。  そんなことを考えながら花畑の中央まで来たとき、エヴァリストはその気配に気がついた。  静かにふりむいてグレイに目をあわせ、指で静かにしろと伝える。すぐに前を向いたが、三頭の馬は魔術師の意思を感じとってその場にとどまった。エヴァリストは宙をみつめたまま感覚を広げた。強い魔力を持つエヴァリストにとって〈力のみち〉は目にも耳にも感じとれるものだが、聴く方が得意だと知る者はあまりいない。所属先を持たない魔術師は自分の能力を明かさないものだ。  風はずっとおなじ方向から吹いていた。エヴァリストは耳をすませた。すぐ近くにいるのはわかっていた。自分の魔力に引き寄せられているのだ。しかし魔力を与えるわけにはいかない。野生を失ってしまうからだ。  コルウス。  念じたとたんジラールの肩から獣が飛んだ。地面に飛び降り駆けていく先にゆらりと影があらわれ、走りだす。エヴァリストは馬の背をすべりおり、獣の後を追う。コルウスが宙に跳び、ちらちらゆれる奇妙な影――花畑の色をした影――に飛び乗り、とたんに影はその場に凍りついた。  エヴァリストは目を瞬いた。その生き物は花に擬態するような色彩だった。小鹿にそっくりの四肢と胴体に垂れた耳、羽毛のような尾が垂れる。肌は蜥蜴のような色彩だった。道理で花畑に溶けこんでいたうわけだ。宝石のように美しく、好事家には途方もない高値がつくだろう。精霊動物をその場に留めているのはコルウスとエヴァリストの魔力だ。 「グレイ」  学者はすでに仕事をしていた。生き物を凝視しては手帳に文字を書きなぐる。エヴァリストは生き物から反射する魔力の音色を注意深く意識に留めた。  精霊動物が立ち去るまでどのくらいの時間があったにせよ、グレイにとっては夢の叶った瞬間だったろう。一行が花畑を離れたあとも彼はうわの空で、休憩のときも夜の焚火のまえでも、まめな手は帳面の上を動きつづけていた。完成した絵図は見事なものだった。いつもは感情をあらわさないジラールの眸が愉快そうに光ったくらいだ。  夜になると気温はぐっと下がった。コルウスはまたエヴァリストの胸元に首をつっこんでいる。 「見せてくれないか」  エヴァリストがそういうとグレイは地図を渡した。線が引かれ、几帳面な文字が書きこまれた図面をエヴァリストはしげしげとながめた。 「こんなものを持ち歩いて、よくこれまで襲われなかったな」 「え?」  グレイは急にそわそわした目つきになった。ジラールがぼそっといった。 「つまり、狙われたことはある」  グレイは口の中でもごもごとつぶやき、自分の地図が欲しい輩がいるのは知っているとか、危険があるのはわかっているとか。いつものおしゃべりのような歯切れの良さはない。 「それでジラールに話をもちかけたんだな」 「あ、はい、ジラールさんはその……腕が立つからと……」  ジラールの口元が動いた。獰猛な獣を思わせる微笑だ。エヴァリストは思わずニヤニヤした。 「地図は世界の姿をいくつものやり方で投影するものです」  突然グレイは話しはじめた。道中のおしゃべりともちがう、改まったような口調だった。 「地図に記されるのはいま現に定まっていることですが、解釈で未来の姿まで読み取ることができる。私は生成変化する世界を映しとれる地図を作りたい」 「支配のために地図を使う連中はあんたの意欲を理解しないだろう」  エヴァリストは膝の上におさまったコルウスの頭を撫でながらいった。 「あんた、家族は?」 「北に住んでいました」 「他には?」  学者はかすかな笑みをうかべただけで、答えなかった。  春の旅はグレイにとって悪い結果にはならなかったようだ。  毎日精霊動物を発見できるわけではなかったが、グレイの地図はその後も埋められていった。気候が変わるにつれて大気は不安定になり、雨の量が増えた。乾いた夏がこのあとにやってくる。  ある夕方、大きな雹が降った。早い時点でコルウスが警告したので、一行は岩山に穿たれた天然の洞窟でしのいだが、氷の塊が転がる地面をみつめながらエヴァリストは宣言した。 「ここまでだ。明日は町へ戻る」 「え?」  学者は即座に声をあげ、ついで残念そうな顔つきになった。 「まだ季節は変わっていませんよ」 「僕はまともな浴室のあるところへ行きたいんだよ」エヴァリストは埃まみれの金髪をかきあげる。「雨と泉に頼るのは飽きた」  いちばん上等の宿の、いちばん良い部屋にしか泊まらない。  翌日たどりついた町でエヴァリストがいつもの習慣をつらぬいたために、一行は評議会御用達の館へたどりつき、三室ならんだ続き間と専用の浴室を占領することになった。エヴァリストのコネのたまものである。代価をきいて目を剥いたグレイを無視してエヴァリストは金貨を積み重ね、主人然とした足取りでいちばん広い主寝室に陣取ると、さっそく浴室へ閉じこもった。 「あの……私はどこに……」  落ち着かないそぶりのグレイにジラールは肩をすくめる。 「好きなところで寝ればいいさ」  コルウスはさっそく床のあちこちを嗅ぎまわっている。ジラールは無言で武器を螺鈿の卓に置いた。グレイは「じゃあ私はそこに……」とつぶやき、いちばん狭い部屋の扉をあけた。どうみても従者用の部屋だ。 「依頼主なのにずいぶん控えめだ。サロンを使えばいいのに」  武器を手入れしていると、風呂をおえたエヴァリストが閉じた扉をみながらそんなことをいう。ジラールは意識せずに笑っていた。 「ジラール?」  魔術師は、おまえはどうするのか、という問いを完全に省略しているが、意味はわかった。 「俺は適当にやるさ」 「僕が今夜戻らなければここで寝ればいい」 「いないのか?」 「この町は誰もいないけどな。今のところ」  エヴァリストはあちこちに遊び相手を持っている。何年も商売のかたわら大陸を放浪した彼にとって、そういった相手は単に彼の寝床を温めるだけでなく情報源でもあり、地位や身分の低い者とも限らなかったし、男であることも女であることもあった。エヴァリストがその気になれば誰かを誘惑するのは簡単なのだ。  もっとも近ごろのエヴァリストは精霊魔術で他人を篭絡するのにいささか飽いている。ジラールと何かにつけて行動をともにするようになってから、とみにそうなったようなのだ。単に欲望を処理するだけならこの男でもいいのだが、しかし……。  ぼんやりしているエヴァリストをジラールは面白そうにみつめていた。特段の美意識など持ち合わせていない自覚があっても、美貌の魔術師が物思いにふけっているさまは絵になるし、濡れた髪に襟元をくつろげた姿はなんともいいようのない色気がある。 「あの……」  二人は同時に声の方をみた。グレイが妙に血ののぼった頬でみつめていた。 「どうした?」 「……夕食はどうするのかと」  エヴァリストは優雅に手をふった。 「下の酒場に行くか。それとも別の場所を探したい?」 「別のって……」 「風呂に入って汚れを落とせば食事をする相手くらいすぐみつかるさ。その髪、オイルで撫でつけたらいい。いい子がいたらおごってやるんだ。ケチるな、でもぼったくられるな。心配ならジラールを連れていけ」 「いや、私はその――」  そういうのは、とグレイはボソボソつぶやき、ジラールとエヴァリストの視線から逃げるように浴室へ飛びこんだ。エヴァリストはニヤニヤしている。人が悪い男だとジラールはため息をつく。 「純情な男で遊ぶな」 「遊んだ気はなかったけどな」  濡れて一段と濃くみえる金髪をエヴァリストはかきあげ、清潔な服に着替えた。ジラールは武器に目をやった。 「ここはおとなしく三人で飯を食うのが良さそうだぞ」  エヴァリストは部屋の隅を嗅いでいるコルウスを目で追っている。 「おまえもそう思うか、ジラール」 「ひとりで遊ぶのは今度にしておけ」  エヴァリストはわざとらしくため息をついた。 「おまえと出かけると、いつもこうなる」

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