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みえないものが棲むところ(3)
唇をよせるたび、吸いつくような肌だと思う。
夏の熱い風や冬の寒気にさらされているはずなのに、エヴァリストの肌はいつもこうだ。ジラールは金の髪を指にくぐらせる。押さえつけた男は眸に不満の色をうかべて口をゆがめるが、本気の不満でないのはわかっている。その気になれば止められるはずだ。
エヴァリストは本気でジラールを拒否してはいない。
清潔な敷布の上でこの男を組み敷くのは楽しい。結末はいつも同じだが過程が異なる、これは遊び だ。愛の行為よりは組み打ち、よくて獣の仔のじゃれあいのようなものだ。
方々に寝床を共にする相手を持つエヴァリストだが、たいていは抱かれるより抱く側なのをジラールは知っている。たまには交代してもいいだろうか?
まさか。
「おい、ジラール。何を笑ってる」
ジラールは組み敷いた金髪をみおろし、はえぎわを指でなぞる。
「いや?」
「ここでは獣も僕のルールに従うぞ」
エヴァリストは髪をまさぐるジラールの手首をつかむ。
「おまえも似たようなもののくせに」
ジラールは答えなかった。エヴァリストの肌は草と蜜の匂いがする。コルウスの毛皮も同じような匂いだと思う。魔力の匂いとはこんなものだろうか、と想像してみる。エヴァリストは生あるものすべてに〈力のみち〉があるというが、自分にはおよそわからないものだ。他の誰にもわからないのだろう。
この男はいつも孤独だ。
そんな理性の営みは、舌でおたがいをまさぐりあいはじめるとどうでもよくなった。
エヴァリストは顔をしかめてジラールの肌着を乱暴に引き、脱げとうながす。欲望にどのくらい弱いかをお互いに熟知しあっているのは奇妙なものだ。いったんはじまると言葉は不要になる。いつもは図々しい口をきく美貌の男の奥をジラールは指であばき、まさぐって、獲物から快楽の呻きが漏れるのを楽しむ。エヴァリストはうつぶせになり、背後からジラールの侵入をゆるした。
絡みあった部分が香油で濡れる。腰を進めて奥へ突き入れるたびにエヴァリストの口から喘ぎがこぼれ、ジラールに応えるようにおたがいの律動が一致する。腕の中の男は高い呻き声をあげて体を震わせ、追いつめられるようにジラールも果てる。
「今夜は学者も疲れているな」
気怠そうに天井を剥いて横たわったままエヴァリストがつぶやく。ジラールが「今夜は?」と聞き返すとじろりと流し目をくれた。
「野外だと寝てるときも落ちつかないたちらしい。夢の思念ですらたまにうるさい」
「食事時は静かだったが」
「借りてきたなんとかというやつだ。すくなくとも最初はね」
その晩の食事は館の主の招待を受けたのだった。汚れを落として身なりをととのえたエヴァリストが裕福な商人というよりも貴族的なふるまいで対峙したせいか、館の主人は協議会の会合で使うという部屋に三人を案内し、豪華な夕食をふるまった。エヴァリストは平然と招待を受け、何度か似たようなことを経験したジラールもつきあったが、グレイは食事のあいだじゅう傍目にもわかるほど緊張していた。
もっともエヴァリストがグレイを学者だと紹介しても主人はほとんど関心を示さなかった。かわりに興味を示したのは館を訪れたときジラールの肩にいたコルウスだ。食事のあとでもっとよく見せてほしいと懇願されたが、ジラールは言葉少なに断りを入れた。主人は落胆のため息をもらした。
「それは精霊動物ではありませんか? 私が子供のころ、このあたりには不思議な生き物が何頭もいたのです。ひとつとして同じ姿をしていない……つがいのように二頭一緒にいるところもみたことがあります」
「つがい」エヴァリストが繰り返した。
「本当に? 精霊動物はふつうの生き物のように繁殖はしないだろう」
「精霊動物について人間が何をわかっていると?」と主人はいった。「虫や鳥にはつがいの片割れが似ても似つかない姿をした種類もあります。精霊動物もそうかもしれない」
「今もみかける?」
「いえ、狩る者があらわれてからは見なくなって久しい。大袈裟な仕掛けをつかって捕まえ、遠くで売りさばく連中がいるのです。精霊動物は川――動く水を越えられないから、棲みかをみつけると水路を掘って追いつめ、罠にかける」
「水路か。ふうん」
エヴァリストは他人ごとのような顔つきだった。
「子供の頃は精霊動物を捕まえると祟るといわれたものですが、法外な高値で売れると聞けば気にしない者も出ます。湿地に踏みこんで祟られるまではね」
ジラールは花畑にいた精霊動物を思い出した。部屋に置き去りにされるのを拒んだコルウスはジラールのふところに深くもぐりこんでいるが、上着のふくらみにしか見えないから館の主人は気づかないようだ。
この生き物が人語をどのくらい解しているのかジラールはいまだに計りかねている。何でも聞き、理解しているように思える時もあれば、単純に魔力を使って人間の感情を感知しているだけで、まるで理解などしていないと思うときもある。
エヴァリストが館の主人と話しているあいだ、コルウスと同じくグレイも沈黙していた。食事のあとはいつもの饒舌などすっかり忘れた様子でおとなしく部屋に引きこもっている。会話の内容がショックだったのか、それとも予想していたのか。
「我らがグレイは地図が持つ危険を知らないわけじゃない」
エヴァリストは寝台の上で肘をつく。ジラールは起き上がり、脱ぎ捨てた服を拾った。ジラールをみつめるエヴァリストの表情はどこか上の空だった。いまこのときも壁を通して学者の気配を察知しているのだろう。
最近のジラールはエヴァリストが魔力を使って〈力のみち〉を感知している様子がなんとなくわかるのだった。魔術師がさとい耳で聴いているのは音ではなく、他者の発する生の気配だ。
集中しているエヴァリストは人間よりも獣に似ている。この魔術師とどんな約束を取り交わしたわけでもないが、何年か隣に立っているだけでも理解できることはある。
「自分が危険な道を歩いているのは知っているわけだ」
「グレイが僕らに執心したのはそれなりの理由がある。出発すれば、そろそろ対面できるんじゃないか」
「何に?」
「彼が恐れているものさ。それが表に出てこないと、僕らの仕事もはっきりしない」
「おまえにもわからないのか?」
エヴァリストはわざとらしく肩をすくめた。
「馬鹿をいえ。人の心が何重にも押し隠している恐怖など、僕ごときにわかるわけがない」
エヴァリストはそういったが、旅はそのあともつつがなく続いた。
五日後、一行はまた花盛りの湿地へ入りこんでいた。大河から分かれた支流がさらにふたつに分かれ、起伏の少ない地面を這ったあとふたたび合流する地点だ。今回の調査の最終的な目標地だと旅のはじめにグレイが示した地点で、町も村も遠く、あたりにはずっと人家の気配がなかった。
小さな花をつけた繁みで覆われた土地はところどころ、背丈よりすこし低い木がまばらに生えている。湿地のあいだにはわずかに高さのある固い土地があり、そこにはほとんど草も生えていない。空き地と花畑が交互につづき、固い空き地にのびる道はゆるやかな登りになった。前方の見通しが悪くなるのはジラールにとって嬉しくはなかった。しかしグレイは最初からここを目指していたという。ずっと以前に来たことがあるのだと。
虫が馬の耳のあいだを飛ぶ。風は弱まり、空気は湿って暑かった。ジラールの耳にはあちこちから水音がきこえた。湿地から水が流れているのか、あるいはどこかに湧き水があるのか。
手ごろな水場があるのならそろそろ馬を休ませたかった。目を左右の湿地帯のあちこちへ走らせ、さらに自分がいる道を見渡して、ジラールは突然水音が響く場所をみつけた。立ち並んだ灌木の脇に泉が湧いているのだ。そちらへまっすぐ馬を進め――ジラールは唐突に手綱をひいた。
「ジラール?」
エヴァリストが呼び、馬を止めた。
ジラールは無言で泉を指さした。片側の土が壁のように整えられている。あきらかに人の手で掘りぬかれている。
エヴァリストは前を行く学者に――あるいは学者が乗る馬に――口笛を吹き、ジラールは泉をのぞきこんだ。足でまたいで越えられるほどの細い水路が伸び、石の蓋の下へ消えていた。ていた。どうみても自然なものではなく、しかも新しい。
「――あ――」
グレイが妙な声をあげるのがきこえた。
ジラールは学者のもじゃもじゃ頭が向いている方向へ目をやった。何がある?
確かめる暇もなく、いきなりグレイは馬の腹を蹴った。そのまま道を一気に駆け上る。ジラールも馬の腹を蹴ってすばやく後を追った。道は急に細くなり、いきなり視界がひらけた。紫や青、黄色の小さな花で彩られ、細い水路で四角く区切られた土地が突然目の前に広がった。
なんだ、これは。
視野の中で花々がゆらいだ。いちばん近い区画の中で、いきなり尖った耳が花の中からうきあがり、ついでふたつの目が、鼻がみえた。他の区画からも顔と首が――動物の首が――にゅっともちあがったようにみえた。こちらを見ている。ジラールを、いや、グレイを?
動物は一頭一頭、完全に異なる特徴を持っていた。鹿、犬、猫、猪。さまざまな生き物の特徴を混ぜ合わせたような動物たち。
精霊動物だ。何十頭いるのだろうか。湿地を区切る水路は人工のものとしか思えない。水を渡れない生き物にとっては牢獄も同然だ。
これは檻だ。
「こんな……誰が……」
グレイがぶつぶつ呟き、ついでばっと背嚢をあけて帳面を取り出した。
「たしかに……ここがそのはず……いや、でも……」
「グレイ、ジラール」
エヴァリストの声がきこえた――ような気がした。
(ふたりとも、下がれ!)
その声はジラールの耳にきこえたのではなかった。頭蓋の内側に雷のように鳴り響いた。
馬が硬直し、ジラールも硬直した。まるで石になったように体が動かない。エヴァリストが前に進む。その眸にはジラールが一度もみたことのない表情が浮かんでいた。それが怒りだとわかるまで数秒かかった。エヴァリストがこんなふうに感情をむきだしにするのを、ジラールはこれまで見たことがなかった。
(おまえたち)
エヴァリストの声がジラールの頭蓋に響く。
(誰がこんなことを?)
悲鳴のような鳴き声が耳に――頭蓋にではなく耳に――響いた。ぴくりとも動けないままジラールはエヴァリストをみつめたが、さきほど一瞬だけ体の内側を走った恐れはもう感じなかった。エヴァリストが憤っているのはもちろん、精霊動物がとじこめられているからだ。どこのどいつとも知れない人間によって、人間は半歩でまたげるような水路で――しかし彼らには永劫の裂け目も同然のもので。
「コルウス」
エヴァリストの声にこたえて獣がジラールの襟元から頭をもたげ、とたんにジラール自身の呪縛も解けた。即座にジラールは馬を蹴り、エヴァリストの横へならぶ。コルウスは魔術師の腕に飛び移った。獣の眸が渦を巻いているようにみえて、ジラールは思わずまばたきをした。
「僕が魔力を放出する。あいつらを導け。グレイは水を止めてくれ」
キュウ?
獣が啼いた。グレイが急に息を吹き返した。
「水を?」
「泉をせきとめるんだ。岩でも土嚢でもいい。水路が枯れればあいつらは自由になれる」
グレイの動きは素早かった。自分も協力したほうがいいのだろうかと思いつつ、ジラールはその場にとどまった。エヴァリストがにやっと笑った。
「ジラール。おまえ好みの相手が来るようだ」
その気配はエヴァリストの魔力よりずっとはっきり、ジラールに突き刺さった。ジラールはふりむきもしなかった。いまだ馬にまたがったまま、後ろ手にナイフを投げた手は自然に拳銃の場所へうつり、ふりむきざまに敵の姿をとらえて引き金をひく。銃声は蒸し暑い大気に大きく響いた。一発目をわざと外し、二発目を続けて撃つ。叫び声がきこえたがそちらは見なかった。そのかわり泉へ向かったグレイへ視線をやり、その先めがけてまた撃った。
みるとエヴァリストはコルウスを腕にとまらせ、その頭に唇をつけている。眸はうつろで、ジラールにはあずかりしらない場所をみつめているらしい。また殺気を感じてジラールは銃をはなち、馬をその方向へ走らせる。エヴァリストが湿地の中へ駆け降りるのがみえた。
ふいにぶわっと鳥肌が立った。
視界の先にいた男――自分を撃とうとしていた男――が馬の背から転がり落ちた。獣くさい異様な匂いが鼻をついたと思うといきなり突風が吹きつける。みえないところから襲っていた人間たちが風に巻きあげられていく。どういうわけか自分の乗る馬は風の中でしっかりと地に足をつけている。
風の音に覆われるように水の音が止まった。
次に聞こえたのは獣の足音だった。
動物たちが堤防を駆けあがってくるのだ。
ジラールは馬の背からただ見ていることしかできなかった。奇妙な姿をした生き物や、宝石のような色をした生き物たちが細い水路を飛び越え、登ってくる。彼らはジラールの前を怒涛のごとく走り抜け、人が手を加えない湿地へ飛びこんでいく。乾いた土を離れたとたん彼らの姿はみえなくなり、あたりの景色に保護されるように消えうせた。
「ジラール」
エヴァリストの声が背後で響いた。
「終わったようだ」
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