2 / 7

第2話

 両親は飛行機事故で四年前、詩倫が高校三年の夏に亡くなった。 中東~中央アジア文化の研究者だった両親が、揃ってフィールドワークで中央アジアへ向かった際、搭乗していた飛行機が墜落したのである。  地味なテーマの学者ゆえ、家庭はけっして裕福ではなかったけれど仲のよい家族で、笑顔が絶えなかった。特に両親は子どもの詩倫から見てもラブラブ。なんでも学生時代から付き合っていたらしく、とても仲のよい二人だったのだ。二人揃ってのフィールドワークの機会なんかそうそうないということで、詩倫は「お土産楽しみにしている」と笑って二人を見送った。――それが最後だった。  両親どちらにも親兄弟はおらず頼れるような親類縁者もいなかったため、両親の死後、詩倫は大学進学を諦めて高校時代の担任の紹介でパン職人として働きはじめた。  本当は両親の影響から、大学に進学して彼らと同じように中央アジアについて学びたかったし、いつかは両親が亡くなった土地を訪ねてみたいと思っていたのに。 (ここが父さんや母さんの大好きな場所だったら……こいつらに殺されたとしても……それでもいいかな。父さんや母さんが眠っているのと同じところなら死んでもいいや)  恋人もいなければ明るい未来が待っているとも思わない人生だ。特に取り柄もなく、地味で生真面目、奥手な性格もあって恋人もいなければモテることもない。そのため自宅と仕事場を往復する面白みのない生活。生きるということにさして未練はない。  ただ……パン作りはとても好きだ。 (父さんも母さんもパンが好きだったし)  もともとそれなりに器用なこともあるし、両親が揃ってパンが好きだったこともある。生地と向き合っていると無心になれるから――寂しいことも、悲しいことも生地を捏ねていれば忘れられた。直接礼を言われたことはなかったけれど、ときどき客の笑顔が見られることもあって、自分の作ったものが誰かを笑顔にすることもできるとわかった。……だからパン作りという仕事は向いていたと思う。 (父さん、母さん、ごめん。せっかく素敵な名前もつけてくれたのに、パッとしない僕で)  両親に詩倫はとても愛されていた。  名前だって、それはそれは悩みに悩んでつけられたらしい。詩倫という名前はペルシア語で甘いという意味。ただ、名前の可愛らしさに反して地味な外見、性格だったから子ども時代にはキラキラネームと揶揄われたこともあったけれど。でも、大好きな両親がつけてくれた大事な名前だったから、詩倫は自分の名前が大好きだった。  ぼんやりとしていた詩倫の意識を一気に引き戻したのは、男の一人が発した言葉だった。 「へえ。まあ、こいつみてえに女みたいな顔したヤツなら、いくらでも孕ませてえけど。妙に色気あるしな」 「おい、やめろ。こいつは商品になるんだ。手なんか出しちまったら金になんねえだろ」 「いいじゃねえか。男ならヤったところでわかんねえだろうが」  舌なめずりをするようないやらしい目つきで、男が詩倫の顔を覗き込んでくる。その目つきと詩倫に触れる手つきの気色悪さに嫌悪を催した。  男は詩倫の身体を撫で回す。怖気が走り、咄嗟に身を捩る。  たった今死んでもいいと思ったくせに、身体を好き勝手に弄り回されるのは嫌だったらしい。 (……やっぱり嫌だ。死にたくないし、売られたくもない) 「触るな……! 嫌だって言ってるじゃないか!」  身体にまとわりつく手を払いのけようとするが、それは男を煽っただけらしい。 「ハハハ! もっと叫べ叫べ! 怯えた顔もそそられるじゃねえか。その可愛い口に俺のをブチ込んでやりたくなる。やっぱり味見してからにしようぜ」  ニヤニヤと笑いながら詩倫の顎を掴み、ぐい、と持ち上げる。生臭い息が詩倫の顔に吹きかけられ、気分が悪くなる。 「離せッ! やめろ……っ!」  詩倫は大声を上げた。そしてじたばたとしながら男の腕に思いっきり噛みつく。 「くそっ! この野郎!」  詩倫は男たちから逃れようと必死に抵抗した。 「おいッ! おとなしくさせろ!」  男の一人が言い、詩倫は羽交い締めにされる。拳を振りかざされ、殴られそうになったそのときだった。  馬のいななきが聞こえたかと思った瞬間、大きな影が詩倫の目の前を横切った。 「お、狼だ……ッ!」  今まで詩倫を羽交い締めにしていた男が叫ぶ。そして拘束する力が緩んだ。狼がやってきたと知り、怯んだのだろう。男は狼に足を噛みつかれたらしく、悲鳴を上げて詩倫から離れた。ずっと力を振り絞って抵抗していた詩倫は腰が抜けてしまい、立ち上がることもできずじりじりとずり這いをするだけしかできない。  男は狼と格闘していた。その隙に逃げようと、詩倫はようやく立ち上がる。が、それを阻んだのはもう一人の男だった。 「逃がすかよ」  男に腕を掴まれる。あわや、と思ったとき、ヒュン、と風を切る音が聞こえ、男の足に矢が射られた。男は絶叫を上げもんどり打っている。 「大丈夫か」  怯えている詩倫に声をかけたのは、黒い大きな馬に乗った美しい金色の髪を持った青年だった。長めの髪を革の紐で結わえてはいるが、金糸のような髪がとても印象的だ。  詩倫はどうしていいのかわからなかった。金髪の青年はさっきまで詩倫を売り飛ばそうとしていた男たちとは違って、詩倫に手を伸ばしてくれたけれど、もしかしたらこの男たちと同じで詩倫をどこかに売り飛ばそうと考えているのかもしれない。 「ちくしょうっ! せっかくの獲物……! 横取りすんなッ」  残っていたもう一人の男が腰に下げた長剣を抜き、金髪の青年の馬へ向けてそれを振った。だが、青年は素早く馬の鼻先を変えるように操ると、男の剣を躱す。そうしてすぐさま彼は男へ持っていた鞭を振るった。ピシリ、と鋭い音が聞こえ、男は剣を落とす。その隙を見逃さないとばかりに青年は馬上から矢を放った。風切り音がするなり男の腿に矢が命中し、悲鳴が上がる。馬を操りながら動く的に矢を当てるということがどれだけ難しいことか。なのに、青年はこともなげに容易く弓を引く。一人で三人を相手に軽々と打ち負かす強さ。彼の金色の髪が太陽の光に煌めいて詩倫の目を惹きつけ、そしてその見事な戦いぶりに目を瞠った。 (なんてきれいな人なんだろう)  まるで手足のように馬を操る彼が近づいてくる。 「来い……!」  そうして馬を詩倫の傍まで寄せると彼は手を差し伸べた。  まともに青年の顔を目にする。長い金髪も美しいと思ったが、彼の顔はまるで絵画かなにかから抜け出てきたように美しい。特に宝石のようにきれいな青い目が。  詩倫は息を呑みながら、彼へ向かって手を伸ばす。  ぐい、と強い力で引かれ「飛び乗れ」と声がかかる。まるで魔法にかかったかのように吸い寄せられ、その声のまま詩倫は青年の手に縋って高い馬上へとジャンプした。

ともだちにシェアしよう!