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第3話

「下りられるか? 手を貸すからゆっくりと下りておいで」  青年の馬はしばらく草原の中を疾走し、ようやく止まったのは、林の中の湧き水の出ている泉だった。こんなところに木々が生い茂っていることにも驚いたが、水がある場所なら不思議ではない。 「…………はい」  詩倫は彼の手を借りて、なんとか馬から下りる。  慣れない馬の上ということと、馬が駆ける速さが思っていたよりも凄まじく、また青年に抱き留められていたとはいえ足と腰への衝撃でぐったりとなっていた。  青年は詩倫をやわらかい草の上に寝かせて、泉の水を飲ませてくれた。豊富に水が湧き出ているのか、水は澄んでいてとてもきれいだった。口に水を含むと、今まで随分と口の中が渇いていたのだと気づく。  そうしていくらか詩倫が落ち着いたところで怪我はないかと青年は訊ねた。 「あ……だい……じょうぶです。少し……殴られたのと、擦り傷だけ……」 「そうか。よかった。しかし、殴られたなら後で腫れてくるかもしれない。どこを殴られた?」  覗き込まれて心配そうに訊かれる。 「ほっぺた……」  右の頬がズキズキと痛む。あの男たちに囲まれていたときは痛まなかったが、安心したのか、今になって痛みが出てきたらしい。  青年は腰につけていた袋からなにかの葉を取り出すとそれを揉み、泉の水で濡らした布に塗りつける。揉んだ葉を塗った布を詩倫の頬にあてがった。  冷たくて気持ちがいい。痛みが引いていくような気がする。 「あの……助けてくださってありがとうございました」 「いや、たいしたことはしていない。きみを助けるようにと精霊が導いてくれたからね。それに……あのごろつきどもは最近ここらにのさばっていて、きみだけじゃなく、俺たちも迷惑をしていた。一度痛い目を見せるべきだと思っていたから、いい機会だったんだ。だから気にしないで」 「そうでしたか……あの人たちはどういう」  乱暴者らのうち、一人目は狼に噛まれた後、馬に乗ってさっさとどこかへ逃げてしまったが、青年に矢を射られた二人の馬は、狼に恐れをなしたのかどこかへ逃げ去ってしまっていた。だから矢を射られた男たち二人は馬なしになったということになる。この草原で馬がないとなると……運がよければ別だが、そうでなければ怪我をしたまま野垂れ死ぬ可能性もなくはない。 「あの男たちは強盗まがいのことをして大きくなった部族の者だろう。馬につけていた鞍の飾りがそうだったからね。よその部族の羊を奪ったり、このあたりを通る商人から金品を強奪したり、それから――きみのように、どこからか見目のいい子を攫っては売ったり……特に今年は彼らがいるあたりは草の育ちが悪く羊もろくに育たないと言っていたから、なおさら。生きるためには仕方がないとはいえ、こちらも死活問題だ」  彼らにも事情はある、と言いながらも同情はしないと青年は冷ややかな口調で言う。同情だけで人は生きていけない。  詩倫は眼前の広い草原を見渡しながら、小さく息を呑んだ。 「災難だったが、無事でよかった――俺はアルトゥンベック。キリチュの部族長だ。きみは?」 「……詩倫……シリンといいます」 「シリン……いい名前だね。それできみは――」  アルトゥンベックと名乗った青年の言葉を遮るように「ワン!」と犬の鳴き声が聞こえた。  鳴き声のほうへ顔を向けると、詩倫の傍に大きな狼……ではなかった、犬だ。白い大きな犬がやってきていた。この犬が一番はじめに詩倫を救ってくれた。犬は詩倫の頬をいたわるように舐める。 「わあ、きみが僕のことを助けてくれたんだよね。ありがとう」  詩倫はゆっくりと身体を起こし、ピンと立った耳とふさふさの尻尾を持つ大きな犬を抱きしめる。犬はとてもよく躾けられているらしく、詩倫に抱きつかれても暴れることはなかった。 「こいつはウルクという名前だ」 「ウルク?」 「ああ」 「ウルク、ありがとう。きみのおかげで助かったよ」  詩倫はウルクを思いっきり撫でる。ウルクもうれしそうに詩倫にじゃれつく。その様子をアルトゥンベックは笑顔で見ていた。 (う……わ……)  今まで見たことのないくらいのきれいな彼がさらに見せた笑顔は、男の詩倫でもうっとりとしてしまうほど魅力的で、思わず見とれてしまう。次から次へとあり得ないことが自分の身に起きていて、まったく理解が追いつかない。  まるで王子様に助けられたお姫様のようなことが起こって――しかも本物の王子様のようにハンサムな青年にすんでのところを救ってもらい、詩倫は困惑に困惑を重ねていた。 「ところで、きみはどこの部族の者だ? あんなところでごろつきどもに襲われていたとなると、どこからか攫われたのだろう? 送り届けてやるから教えてくれないか?」  訊かれて、詩倫はハッとした。果たしてここはどこなのかということすらわからない。また自分の姿が今どうなっているのかも。あの男たちにはオッド・アイと言われたが本当にそうなのだろうか。鏡がないから自分の姿すらわからないでいる。  アルトゥンベックはさっき詩倫を見ながら「きみのように、見目のいい子」という表現をした。お世辞ではあるのだろうが、だとしても本来の詩倫の姿ならそうは言わないはずだ。日本人の見た目は珍しいかもしれないが、だったらそのように言うのではないか。 「どうしたの? どこの部族?」  もう一度訊ねられる。 (どうしよう。本当のことを言っても気味悪がられるだけだと思う……)  彼に自分はここではないところからやってきたと言っても信じてはくれないだろう。記憶を失ったと言うほうがまだましかもしれない。 「あ……あの……僕……わからないんです。ここは……どこなんですか」  咄嗟に口をついた詩倫の言葉にアルトゥンベックは眉を寄せた。 「わからない、というのはどういうこと? ここはシャルクだが、きみはどの方角から来たの?」  訊かれて、詩倫は首を横に振った。 「覚えていないってこと?」  詩倫はこくりと頷く。ほんの少しの嘘に心が痛んだが、飛行機にも乗らずに日本から来たなんて、法螺話と思われても仕方がない。 「そう……。名前だけは覚えていたんだね?」 「はい。でも他のことは……」  アルトゥンベックは困ったような表情を浮かべた。それはそうだろう。帰る場所がないだけではなく、自分の身の上が一切わからない人間をどう扱っていいものか。 「そうか、それは辛いな。攫われたときに頭でも打ったのかもしれない。思い出せないのは不便だろう。帰る場所も覚えていないとなると……ここに置いていくわけにもいかないしな」  彼がそう言ったとき馬が鳴く。まるで催促しているように何度か声を上げた。 「しまった。水を飲ませないと。あいつが拗ねると厄介なんだ。この前なんか拗ねて俺が行きたい方向の反対側にしか走ろうとしなくなったんだ」  おどけたような口調で「ちょっと待ってて」と言い置き、彼は馬のほうへ歩いていった。  詩倫は馬の世話をしているアルトゥンベックを遠目に見、自分ももう一度泉の水を飲もうと、水面を覗き込んだ。

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