5 / 7

第5話

 甘酸っぱいあんずは詩倫の心と腹を満たした。アルトゥンベックは手際よくそこらの石を拾い集めて簡単なかまどを作り、石と一緒に拾った枯れ草や小枝をその中に置くと、火打ち石で火を点けた。  犬のウルクは火の傍で眠っている。先ほどはごろつき相手に勇敢に戦い大活躍だったのだ。きっと疲れてしまったのだろう。  真鍮の二段になったポットで淹れた紅茶を小さな茶碗に注いでくれる。 「どうぞ。熱いから気をつけて」  見ると、茶碗はひとつしかない。きっとこの茶碗はアルトゥンベックのものなのだろう。 「あの、僕は……これはアルトゥンベックさんのお茶碗でしょう?」 「俺はシリンが飲み終わってからでいい。まずお茶が必要なのはきみだからね」  遠慮した詩倫にもう一度茶を勧めた。 「……すみません。ありがとうございます」  詩倫はぺこりと頭を下げて、茶碗を受け取ろうとした。だが、アルトゥンベックはなかなか茶碗を渡してくれない。え、と思いながら顔を上げると、彼は首を傾げていた。 「さっきもそうだったけど、シリンはなぜ謝るの? きみはなにか悪いことをしたのか?」  真顔で訊かれ、詩倫は首を横に振った。 「悪いことをしていないのに、謝るのはよくない。こういうときはただ、ありがとう、とだけ言えばいい。謝るのは自分が罪を犯し、その罪を認めたときだけだ。わかった?」  まっすぐに視線を向けられ、詩倫は胸を突き刺されたような気持ちになった。感謝の言葉だけを告げればいいと諭され、詩倫は大きく頷いた。 「それじゃあ、改めて。……どうぞ」  にっこりと笑顔を見せて、アルトゥンベックは詩倫に茶碗を差し出した。 「ありがとうございます」  詩倫がそう言って受け取ると、彼は満足そうに微笑んだ。  彼が淹れてくれた茶はとても甘かった。そういえば茶葉の他にぽとりぽとりとなにかの塊を入れていた。あれは砂糖だったのだろう。 「おいしいです」  甘くホッとする味。紅茶も色が濃いのに渋みが少なく、やさしい風味だ。あんずもおいしかったが、紅茶もおいしい。 「それはよかった。お茶は心も身体も解きほぐしてくれるからね。さあ、これも食べて」  荷物の袋の中からは魔法のように様々なものが出てくる。袋から取り出され、手渡されたものはお菓子のようだった。囓ると、甘い。まるでかりんとうのような味わいの揚げ菓子だ。かりんとうよりは少しやわらかく、そして腹に溜まる。  アルトゥンベックと交互に茶を飲み、そして揚げ菓子を食べる。彼がお茶は心も身体も解きほぐすと言ったとおり、やっとガチガチだった身体も緊張もほどけたような気がした。 「なにから話そうか。そうだな、この国――シールは五つの地域に分かれている」  言いながら、彼は地面に小枝で線を引き、図を描いた。大きな円の中央に小さな円、そしてその円の外周を四分割する。 「ここがオルタ……都だ。今、俺たちがいるシャルクはここ」  そう言って彼は小枝で四分割した外周の東側を指す。  また、北のシモール、南のジャヌブ、西のギャルブと順に口にした。  シール、という国名を詩倫は聞いたことはない。そこでやはりここは異世界なのかも、という考えが頭を過った。ただ、自分たちが学ぶ国名とそこに住んでいる人が呼ぶ国の名が異なることはよくあるから、すぐに判断もできない。 「シャルクは比較的豊かだ。麦も育つし、羊たちが食べる草もある。シモールは寒く貧しい。シリンを襲った男たちはシモールから流れてきたやつらで、ウルマスという部族だろう。馬具の飾りに特徴がある札付きの悪党だ。今年は特にバッタの被害に遭って、作物もろくに育たないと聞いた。だからだろうな、最近ここでも盗賊に身をやつした者が増えていて被害があとを絶たない。おかげで俺も見回りに出ることが増えた。……まあ、そのおかげで、シリンを助けることができたんだが」 「本当にアルトゥンベックさんに助けられてよかったです」 「アル、でいい。みんなそう呼ぶ」  アルトゥンベックは詩倫にそう言った。 「アル……さん……?」 「アル、だ。さん、はいらない」 「はい。……じゃあ、アル、さっきの人たちが神の子、って僕の目を見て言いました。どういうことなんですか? あの人たちは妊娠できるとか……なんか変なことを言っていましたけれど」  そう、ずっと気にかかっていた。神の子と言われたことも、男でも妊娠できるとかなんとか言っていたことも。  ここがもともと自分のいた世界なら、そんなことはあり得ない。だが、もしそれが本当なら、自分は異世界へやってきたという証拠になる。さすがにもう夢だとは思えなかった。夢ならもうとっくに覚めていてもいいはずだ。こんな長くてリアルな夢を見続けるとは思えない。  アルは少し考えた後、詩倫の顔をじっと見て、ようやく口を開いた。 「シリンのように、片目ずつ色が違う人間はごく稀にいるというのは本当だ。そういう色違いの目の持ち主は……とても美しくて、神に祝福された特別な子どもを産むことができるそうだ。それは女性だけでなく、男でも同じでね。その目を持つ者は男でも子を孕むと言われている。俺はまだそういう人に会ったことがないから、伝え聞いた話で悪いが」  やはり本当なのだ、と詩倫は彼の話を聞いて内心で驚いていた。となると、この世界は自分が生まれ育ったところではなく、どういったわけか、詩倫の中身だけここに飛ばされてやってきたということらしい。 「だから、シリンのその目を見て、あの男たちの目の色が変わったのも無理はない」 「……それは妊娠できる珍しい人間だから、ってことですか?」  おずおずと詩倫は訊ねた。 「ああ、それもある。けれどそれだけではない。《神の子》は、その存在が部族を豊かにすると言われている。その神の子が産んだ子どもが、部族にとって幸福をもたらすと言い伝えられているからだ」  彼の話によると、《神の子》の存在はここしばらく聞いていないという。それだけ珍しく、そして重用されるらしい。なんでも神の子がいた部族の羊が倍に増えたとか、放牧先の草に困らなかったとか、また育てた作物も豊かで、女たちの織った絨毯も素晴らしい出来……財産が何倍にもなったという話だ。  そういう存在なら確かに喉から手が出るほど欲しくなるだろう。 「だから……攫われることも多く、高値で取引される。シリンのように襲われやすいのも事実だ」 「そうなんですね……」  どこにいても、またさっきのような目に遭うということだ。頼るところもないし、これからどうしていいものやらと嘆息する。それならいっそあの男たちに連れ去られてしまっていても同じことだったのかもしれない。絶望的な状況に思考がマイナスへ傾きはじめる。  ダメだ、と詩倫は俯いて首を横に振った。両親にもいつも「詩倫はいつも物事を悪く考えてしまうからね。もっと前向きにならないと」と言われていた。 「――下を向いていると、目の前にある幸運が逃げていく」  アルがふいに口にしたその言葉に詩倫はハッと顔を上げ、目を瞠った。  なぜならその言葉は両親にいつも言われていた言葉だったから。 (父さんと母さんに言われたのかと思った……)  目の前には両親ではなくアルがいる。彼の言葉と両親が口癖のように言っていた言葉が同じで、詩倫の胸が詰まる。 「きみの目は地面を見るためだけについているわけじゃない。だろ?」  彼がやわらかい視線で詩倫を見つめていた。彼の太陽の光をぎゅっと集めたような金髪が眩しい。きらきらとしてとてもきれいだ。そして彼の青い目はとても澄んでいて、まるでこの泉の水のようで詩倫の気持ちを穏やかにさせる。とても不思議な気分だった。彼の姿を見ているだけで、波立つ感情が凪いでいく。 「……アル」  詩倫が声をかけた。 「お願いがあります」 「なんだ」 「僕をどこかに売ってください。そうしたら、お金になるのでしょう? そのお金で今日あなたに助けられたお礼ができます。そして僕は野垂れ死にしないですみます」  きっぱりと詩倫は言った。たぶん、これが一番いい方法だ。アルならきっと詩倫を妙なところには売り飛ばさないはずだ。ほんの少ししか時間をともにしていないが、彼なら信頼してもいいという気持ちになる。  自分自身が金になるなら、それでこの破れたり汚れたりした服を替えることもできるし、アルへの手間賃にもしてもらえる。それに《神の子》が重用されるというなら、売られた先でも食べていくのには困らないはずだ。  覚悟を決めて詩倫はアルに訴えた。  すると彼は「やめておけ」と厳しい口調で言った。 「だって……」  今の自分にはそれしかできない。そう言葉を続けようとすると、詩倫の言葉を遮るようにアルは口を開いた。 「そんなことをせずともいい。――精霊が俺にここに来るように導き、そしてシリンを助けた。これも精霊の導きだろう。シリンが嫌でなければ俺と一緒に来るといい。俺の部族は割と豊かなほうだし、シリン一人増えたところで困窮はしない。俺の家もむしろ今は人手がいくらあっても足りないくらいだ。それとも俺と一緒に来るのは嫌か?」  詩倫は首を大きく横に振った。アルが連れていってくれるのなら、それがいいに決まっている。売られる覚悟を決めたはいいけれど、やはり売られるのは怖い。それよりどんなにこき使われたとしても、彼と一緒にいるほうがいいと思えた。 「いいんですか? 僕が行っても」 「構わない。俺はこれでも部族長だ。俺が決めたのなら、他の者はなにも言わない」  若く美しい部族長は鷹揚に詩倫に言う。年回りとしては詩倫よりも少し年上だとは思うがそれほど離れていないだろう。なのに、彼は物腰がやわらかく落ち着いていて、とても頼もしい。彼に任せておけば安心できる、そう思った。 「連れていってください……!」  お願いします、と詩倫はアルに頼んだ。 「わかった。ではそうしよう。今からでは……」  彼は空を見上げる。太陽はじきに沈むと空が伝えている。 「キリチュの夏営地はここから随分と離れている。今から動くのは夜盗にも遭いやすいし、これから出発するのはやめておこう。ここは水があるし、ここで一晩過ごして明日の朝早くに発つが、それでいいか?」 「はい。……アル、ありがとうございます」  詩倫は心から安堵した。にっこり笑って礼を言うと、彼も笑顔で返してくれた。

ともだちにシェアしよう!