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(プロローグ) カナモト

「此身死了死了(この身が死んで、また死んで)――」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  床と壁に飛び散った血は、機体にしつこくこびりつく機械油に似ていた。  汚い。それ以外のどんな感情も、俺の心にわいてこなかった。  醜い血だまりの中で、はまだ生きていた。  つい先ほどまで耳障りな声で泣いていたが、もはやそうする気力も尽きたらしい。胸腔に開いた穴から空気がもれる音だけが、夜の社殿の静寂を乱している。床を這って逃げようとする男を踏みつけて、背中から串刺しにしてやったのはつい五、六分前のことだ。  刃で貫かれた時、男の口から呻き声が上がった。  その声は、屠殺される豚の断末魔に酷似していた。  豚――そういえば彼は豚の焼肉(クイ)が好きだったはずだと、俺は思い出す。唐辛子のみそにつけこんで焼いた豚肉。好きだが、子どもの頃はめったに食べられないごちそうだったと。  そこで、ふと我に返る。  どうにも、また思考が飛んでいた。いつものことで、もう慣れっこだが。  自分が狂っているという自覚はある。  だけど正気に戻る気はない。    この狂った世界の中で、まっとうな人間は生きてはいられない。  彼はまっとうだった――いや、この表現は彼を表すには相応しくない。  彼はそう――あまりにまっすぐだった。  笑ってしまうくらいにまっすぐで、今思えば愚かで、そしてひた向きな愛を与えてくれた。  注がれた愛に、俺は酔いしれた。  酔ってそこに溺れることで、破滅へ向かう渦を前に、かろうじて正気を保っていた。  それは彼も同じだった気がする。  互いを見つめあう間だけは、まともでいられた。  だが俺と違って、最後の瞬間に――彼は現実から逃げなかった。    狂った世界と真っ向から向き合いーーーそして、それに殺された。  彼の存在が、俺を正気の淵につなぎとめていた。今、彼はもういない。  この世界は狂っている。俺は彼のようにはなれない。  一人で生きていくには、狂気を飲み干して、それに染まる以外にないだろう?  ……俺はまた我に返る。耳をすますと、足元に転がるそれは、いつの間にか息を吐くのをやめていた。靴先で軽く蹴る。動かない。どうやら、ようやく死んだらしい。  それとも、思ったより早かったと言うべきか。 「……苦しんだか?」  聞いてみたが、当然返事があるはずがない。だが、鼻汁やら唾液やら涙やらで汚れた顔を見れば、十分だった。男の身体と心は、苦痛と恐怖を存分に味わった。死に至るのに足りて、おつりがくるくらいに。そのことに俺はわずかながら慰めを覚える。  しかし、つかんだ瞬間、それは霜のように消えて、あとには無性な腹立たしさだけが残った。  もう一度、今度は先ほどより力を込めて死骸を蹴った。そして背を向けた。  もう苦しめない男にこれ以上用はない。俺は肩を落とし、ゆっくり息を吐いた。深呼吸。狂っていても冷静さは必要だ。まだ、やるべきことが残っているなら、なおさらだった。  足を動かして床の血をたどると、神棚の下に神事で使う笏が転がっていた。ちょうどいい。 俺はそれを手に取ると、棒の先を半分固まりかけている血だまりに突っ込んだ。白壁にそれをなすりつけると、若干かすれ気味だがちゃんと線を引いた。 「此」ーーーー。  勢いのまま最初の一文字を記す。途中で血が足りなくなると、また先っぽを自分が殺した男の血で湿らせる。ねばついて、書きにくい。しまいに、死体の胸に開いた穴に突っ込んでどうにか書き上げた。  懐中電灯の明かりで、俺は仕上げた作品を見た。悪くない出来に、薄ら笑みが浮かんだ。  いい気分だ。背後の闇から、彼の声が聞こえる。  その美しい声に唱和するように、俺は節をつけて歌いあげた。 「この身が死んで、また死んで(イモミィチュッゴ、チュッゴ)――ーー」

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