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第1章④

「――というような会話が、少尉とササキの間で交わされたのが十日くらい前か。ほら、ちょうどクリアウォーター少佐のお姉さんがU機関にやって来た日だよ(※「Sの襲来」参照)。例によって夜に新宿で飲んだんだが、お前は来なかっただろ。で、偶然にもニイガタ少尉のところに見合い話が転がってきたものだから、これ幸いと、お前さんのところに持ち込んだってところだろうな……おーい。頭を抱えたくなる気持ちは分かるが、突っ伏してても何も変わらないぞ」  テーブルに顔を伏せるカトウに向かって、アイダはわざとらしく忠告した。  カトウとしてはその態勢のまま、仕事場に戻らず夕方まで過ごしたい気分だった。  ありがた迷惑という言葉ほど、今の状況を表すのにふさわしいものはなかった。 「……どうしたもんですかね」 「俺に聞くなよ。お前さん自身の問題だろうが」アイダの返事はつれなかった。 「少佐との関係が本当に真剣なものだというのなら。二人にそう説明して、余計なことはするなときっぱり言えばいいだろう」 「それこそ、『言うは(やす)し、行うは(かた)し』じゃないですか」  カトウはため息をついた。 「何とかそのあたりのことを、言わなくても二人に察してもらえないもんですかね……」 「でたな。日本人思考」  アイダは皮肉っぽく言った。 「『言わなくても、これくらい分かるだろう』っていうのは、はっきり言って甘えだぞ。お前さんだって二十二年も生きてりゃ、その理屈が通用しないのは経験済みだろうが。ましてやアメリカみたいに、日系(Japanese)が少数派集団でしかない場所で暮らしていたら。自分の希望や立場を貫きたいなら、声に出して主張しない限り、伝わらないぞ」  これ以上ないくらい正論だった。  カトウはノロノロと顔を上げる。一瞬、期待を込めてアイダを見やる。  ところが鋭敏な准尉の方は、カトウの安直な下心などすぐに見透かしたようだった。 「俺を頼るなよ、カトウ軍曹」  アイダは唇をゆがめた。 「お前さんも知っての通り。俺は自分自身が昔やらかした色恋の後始末で、手一杯なんだ。他人の分にまで、かかずりあう気はない。自分で何とかするんだな」  昼食を食べ終えた後、カトウはタバコをふかして、ぬるくなった茶をすすって気をまぎらわせた。とはいえ、しょせんは時間稼ぎに過ぎない。割り当てられた休憩時間が尽きると、あきらめて椅子から立ち上がった。  寮から外に出ると、むっとした熱気がたちまち身体にまとわりついてきた。気温はおそらく三十度を超えている。照りつけるまぶしい太陽は、本格的な夏の到来を告げていた。  木陰を選んで、カトウは仕事場への帰り道をたどった。足取りが重い。戻った時に、ニイガタとササキが午後の仕事に集中しているのを願うばかりだ。  多分そうはならないだろうが――。  ところがU機関の二階にある翻訳業務室に戻ると、ニイガタがカトウを手招きして、意外なことを告げた。 「すぐに、三階に行ってくれ。クリアウォーター少佐がお前とアイダに用事があるそうだ」  ニイガタはそう告げた後で、まだ何か言い足しそうな表情を浮かべた。しかし、カトウはチャンスとばかりに「了解です」と応じると、急いで階段を駆け上がって行った。

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