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第1章⑨

 走り出した車中で、クリアウォーターは珍しく無口だった。何か考え事をしている。そう思って、助手席のカトウは声をかけるのを控えた。  そのかわりというわけでもないが、アイダが運転しながら話しかけてきた。 「なあ、カトウ。お前、あの字面をどう思う?」  アイダが何を言わんとしているか、カトウはすぐに見当がついた。先刻から――正確には殺人現場となった神社の社殿を出てからずっと、そのことを考えていた。  ――此身死了死了――    壁に残された六文字の漢字だ。忘れないよう、カトウは念のために手帳に書きつけた。もっともメモを見なくてもそらで思い出せる。壁に赤黒くこびりついた血文字というのは、一度見ればそうそう忘れられるものではない。 「……中国語ですかね」カトウは言った。 「意味は『この身が死んだ、死んだ』かな」 「多分、そんなところだろう。ただ、なんでそんなものを残したかが分からんな…」  …二人の部下の間で交わされるやり取りを聞きながら、クリアウォーターは後部座席に身を沈め、思考をめぐらせていた。考えていたのは、やはり現場に残された血文字の存在だった。  ――此身死了死了――  ――この身が死んだ、死んだ――    言わんとしていることはそう難しくない。むしろ殺人現場に残されたメッセージとしては、この上なくふさわしい。分からないのは、犯人がなぜそんなメッセージを書き残したかだ。斧を用いて手足を順番に切り落としていくというのは、人間性を疑いたくなる残忍な手口だ。被害者に対して、よほど積もる恨みがあったのだと想像がつく。  恨み。憎しみ。それにまかせた、血に酔った衝動的な犯行――。  しかし、壁に字を書き残していくというのは、どうにもそれをちぐはぐなのだ。  あらかじめ意図していなければ、そんなことはしない気がする。それとも殺人現場で突然、思いついてやったことなのだろうか。だから、指紋のことまで気が回らなかったのか……。   考える内に、ジープで走る周囲の景色が変わってきた。山野を抜け、町へ。それに伴い、揺れが少しマシになる。整備された道に出たのだ。  クリアウォーターはポケットから、駐在所の警官による手描きの地図を取り出した。 「アイダ。次の角を右に曲がってくれ」  言われた通りにアイダはハンドルをきった。走るとほどなく、周囲の民家より明らかに立派なコンクリートでできた建物が見えてきた。この地区を管轄する警察署だ。その霊安室に、殺害された小脇順右の遺体がまだ火葬されずに安置されているはずであった。 「気分が進まなければ、部屋の外で待っていてもいい」  クリアウォーターにそう言われたものの、カトウは二人と一緒に霊安室に入った。自分が今回の出張の同行者に選ばれた理由は理解しているつもりだ。  異様な殺人現場。凄惨なバラバラ死体。  それを前にして動じない人間は、U機関の中でも限られている。アイダにカトウ、それにサンダース、ニイガタあたりまでか。これは生来、胆が据わっているかとか、豪胆であるというのとは別次元の問題――単に死体を一定数、見たことがあるかという経験の問題だ。カメラ・アイの持ち主で、一度見たものを写真のように記憶できるヤコブソンを今回、クリアウォーターが連れてこなかったのも、そのあたりに理由があるのだろう。  もっとも、カトウごときが死体を見たところで、何か発見できるとも思えないが。  戦場で、カトウは多くの人間を射殺してきた。正確な数も覚えていないくらいに。  どこを狙って撃てば人を殺せるかは知っている。  だが死体を見て、そこから何かを導き出すような知識や経験は、はっきり言って皆無だ。 ――今は役に立たない。  けれどクリアウォーターのそばにいて、そこから学ぶことはできる。どんなに些細なことであっても、カトウはそれをおろそかにしたくない。  クリアウォーターにとって役に立つーー必要な人間になりたかった。  仕事の面でも、プライベートな場面でも。そのための努力を惜しむつもりはなかった。

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