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第2章②

 結果的に、心配していた遅刻は何ら問題にならなかった。  到着した時、新参者の金本勇曹長に気を留める余裕は誰の頭からも吹き飛んでいたからだ。   金本が異変に気づいたのは、飛行場の門をくぐって、戦隊本部へ向かう間のことだった。暗緑色のつなぎを着た幾人もの整備兵たちとすれ違う。そのいずれもが不安と緊張で顔を極度に強張らせている。    何かよからぬ事態が進行中らしい。  トラックが停車した時、金本は好機を逃さず荷台から飛び降りた。走る整備兵たちの後に続いて小走りで駆けだす。迷彩(めいさい)の施された三階建ての建物――あとでそこが戦隊本部と知った――の前まで来た時、金本は自分の予感が当たったことを知った。  こじんまりした建物の二階の窓が開くと、そこから通信兵らしい二人の男が上半身を突き出して空を指さした。その内の一人の手には、双眼鏡があった。 「目視確認! 左主脚出ています! 反対側は――」  そこで頭が引っ込み、続きを聞くことはできなかった。だが兵士の顔を見れば、事態が深刻であることは容易に見当がついた。金本の周りでは、すでに整備班の班長たちが配下の整備員たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしていた。 「滑走路に残っている機体を、大急ぎでエプロンに誘導しろ!」 「水を急げ!!」 「格納庫で作業している連中も呼んで来い!」  その声を聞きながら、金本は空の一点から目を離せなくなった。  天空の彼方から、遠雷のような響きとともに地上めがけて黒いものが落ちてきた。  直後、それが機首を垂直に地面に向け、急降下してくる飛燕であることに金本は気づいた。  周囲でどよめきが大きくなる。急降下?――いや、墜落の可能性もある。  大破・炎上の文字が、金本の脳裏をかすめた。しかし高度千メートルほどのところで飛燕の落下速度は目に見えて落ちた。さらに三百メートル落下ところで機首が持ち上がる。  そのまま上昇へと転じるまで、あっという間の出来事だった。  機体は再び上空へ吸い込まれていく。金本は目を凝らした。実際に待っていたのは三、四分ほどだったが、その時は一時間ほどにも感じられた。  上昇していったはずの飛燕が、再び落ちてきた。  先ほど同様に、高度千メートルに達した時、落下速度が弱まって再び上昇に転じた。 「一体、何をしているんだ…?」  若い整備兵が途方に暮れたようにつぶやくかたわらで、金本は飛燕の奇妙な行動の理由をつかんでいた。最接近した時でも機体と地上との距離は数百メートル。それでも金本には、はっきり見えた。  左右二つある主脚の内、左側しか出ていない。  言うまでもなく、航空機が安全に着陸するには脚部の車輪がすべて出ていなければいけない。飛燕の場合、前方左右の車輪と後部の尾輪だ。もし一つでも欠いていたら、着陸時にバランスを崩し、即大事故につながりかねない。主脚が片側しか出ていないと知った飛燕の操縦者は、急降下により機体に強引に重力をかけることによって、出ない右側の主脚を力ずくで出そうとしているのだ。  だが、ここまでの二度の試みはいずれも失敗に終わっていた。

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