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第2章⑨

 黒木はピストを出ると、滑走路の東側にある兵営の近くで足を止めた。周囲に人はいない。北を望むと、遠方に夏でも白雪をいただく富士山が見えた。  黒木が向き直った時、ちょうど額にとめられたガーゼが金本の目にとまった。秀麗な顔にはいかにも不釣り合いで、金本はつい聞いてしまった。 「お怪我はもうよろしいんですか?」  黒木は大きな瞳をしばたかせ、それからむっとした顔になった。そして、いきなり手を翻すと金本の頬を平手で打ちすえた。  金本は驚きもせず、制裁を黙って受けた。 「いいわけないだろう。バカなことをいちいち聞くな」 「………失礼しました」 「気分も最悪だぞ。昨日は貴様に邪魔されたせいで、あの仕事怠慢の給料泥棒をまんまと取り逃がしたからな。知ってるか? あの野郎、戦隊長命令で岐阜の飛行場の方に転属になって、夜が明ける前に調布から出て行ったそうだ。くそ! こっちは軍刀片手に、朝から奴の兵舎に乗り込んでやったってのに……」  金本は苦労して、表情筋をなんとかニュートラルに保った。昨日、戦隊長が言ったことを思い出す。逆上した黒木は、手負いの虎より手に負えない。その人物評はどうにも誇張ではなさそうだった。  整備兵の整備不良が原因で死にかけた。その怒りは金本も理解はできる。だが、それにしても報復がどうにも過剰で、何というか――直接的すぎる。  子どものケンカか。いや子どものケンカにしては、血の気が多すぎるが。 「……あの。文句を言うために、俺を呼び出したのでしょうか?」  ふつふつと怒りをたぎらせた両目で、黒木はじろりと金本をにらんだ。また殴られるかと思って金本は身構えたが、幸い鉄拳は飛んでこなかった。  単に、いちいち殴るのが面倒だったのかもしれない。 「違うわ――いや、三割くらいはそれもあったが」 「………」余計なことは言わぬことにした。 「金本。お前、操縦者になって何年経つ?」 「……飛行学校を出てから六年になります」 「どこに派遣されていた?」  思わぬ問いだった。金本が思い出し、答えるまで少し間が必要だった。 「最初は漢口(中華民国湖北省の都市。現在の武漢)です。そのあとは南方に―ージャワにいて、今年の二月に内地に戻ってきました」 「なるほど。飛行時間の合計は?」 「二千二百時間を少しこえたくらいです」  聞いた黒木はここで初めて表情をゆるめ、 「大したもんだ」と言った。  黒木の評価は航空機操縦者として、ごくまっとうなものだ。どんな種類の飛行機でも、操縦者の腕前はその合計飛行時間に比例する。飛行時間が長ければ、それだけ経験を積むことができ、当然技術も上がる。戦闘機乗りの寿命は十年と言われているが、この原則は同じように通用する。とりわけ前線で戦う戦闘機操縦者は、どれだけ長く生き残っているかで、その人物のレベルが推し量れると言っても過言ではない。  そして、そういう熟練の操縦者は、昔に比べて希少なものになっていた。

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