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第2章⑪
……開け放たれた風防から冷たい風が流れ込んでくる。刺すような冷気が、露出した皮膚を否応なくひりつかせる。今村和時 少尉は固い表情で、操縦席前部に据えられた計器盤に素早く目を走らせた。
――すべて、異常なし。
現在、高度三〇〇〇メートル。巡航速度、時速四五〇キロ。
離陸してからずっと、液冷エンジンの轟音が操縦席を満たしてやまない。前方には遠浅の海のように青い空が一面に広がっている。その青を背景に三〇〇メートルほどの距離を置いて、金本勇曹長が操縦する「飛燕」が見えた。
エンジンの轟きをバックに、無線機から雑音交じりの通信が入った。
「――こちら金本。準備完了」
今村は酸素マスクごしに、つとめて平静な声で応じた。
「了解した。始めてくれ」
「了解」
交信が終了した直後、前方を飛ぶ飛燕が上昇を開始した。今村はスロットルを調整し、操縦桿を引いて、その後を追いかけた。
接敵戦闘訓練。
二機がペアとなり上空で行う模擬訓練である。設定された高度に上昇した後、一機は後方に下がり追尾側に、もう一機は前方に進んで追尾される側となって、追いかけっこが始まる。戦闘機操縦者の間では、接近戦 時に追う側を「食う」、追われる側を「食われる」と表現するのが通例だ。「はなどり隊」のこの訓練では、食われる側が食う側を引き離して離脱できれば勝ち、逆に食う側がそれを許さずに制限時間が来れば食う側が勝ちとなる。
今村はついこの前まで、接敵戦闘をうまくこなしてきた方だった。特に「食う」側、追跡側になった時、たいてい最後まで逃げる相手に食らいついて勝ってきた。
しかし、新参者の金本勇曹長は今までの相手とはまったく勝手が違った。
二人の搭乗機は、どちらも旧式の飛燕一型乙。飛燕一型甲とともに、金本たちの属す戦隊ではもっとも一般的な機体だ。それぞれの搭乗機は微妙に調整が異なるとはいえ、性能にほとんど違いはない。それなのに――金本が乗る飛燕は、今村のそれとはまるで別種の飛行機のような動きをした。地上で訓練を見ていた黒木は、戻ってきた今村にこうあざけったものだ。
「まるで愚鈍 な鳩 と飢えた鷹 を見ているようだった」と。
今村は金本と二度戦ったが、どちらも負けた。一度目も二度目も設定高度に達して戦闘開始となった後、五秒も経たぬうちに金本は今村の視界から消えていた。そして今村が「どこに行った?」と慌てて探すより先に、もう後ろに食らいつかれていた。
……高度三五〇〇メートルを突破した時、金本機が急角度で右に旋回した。
それを視界にとらえると同時に、今村は足のペダルと操縦桿を動かした。前回、この動きをされた時はとっさに対応できず、まんまと背後を取られた。だが、今日は違う。今村はわずかに遅れたが、金本機より小さい旋回の軌道で後ろに食らいついた。
急旋回によって生じたGにより、身体が座席に押しつけられる。見えない巨人の手で押しつぶされそうな感覚に、さらに頭痛が加わる。上空はその高度ゆえに空気が薄い。酸素ボンベを使っているとはいえ、地上のように頭が働かないのが普通だ。その状態で、操縦者はコンマ数秒単位の判断を次々下して実行しなければいけない。
今村は歯を食いしばり、スロットルを全開にした。スピードを上げ、金本機との距離を縮めていく。風防ゴーグルごしに前方機をにらむ。金本はなぜかスピードを上げない。何かまた策があるのか――今村は疑い、考え、決断した。拙速は巧遅に勝る。相手が何を狙っているにせよ、それを実行する前に押さえ込んでしまえばいい。
――いける!
飛燕の速度は、すでに時速六〇〇キロを超えている。金本の機体まで一〇〇メートルに迫る。照準器をのぞきこめば捕捉できる距離だ。今村の目の端を、機関砲のスイッチがかすめた。「接―断」の表示が赤と黒で色分けされている。訓練中の今は「断」の方に入れられているが、本番ではこれは「接」に切り替わっている。操縦桿の上に取り付けられた安全装置を外して、赤いボタンを押せば前方の機体を撃ち落とせるというわけだ。
今村は飛行時計を確認し、笑みをひらめかせた。残り時間はあとわずか。今日こそ自分の勝ちだ――。
そう思った次の瞬間、照準器から金本の飛燕が消えた。
――なっ……!?
文字通り、瞬きするだけの刹那の出来事だった。今村の機体はそのまま敵の消えた空間へ突っ込んだ。空いた風防から、今村は頭を突き出す。左右、後方――どこにもいない。
――どこだ!?
その時、今村の頭上に影が差した。
今村は首をねじって天を仰いだ。斜め上方一〇〇メートルのところに、背面位になった飛燕がいた。それはもはや燕ではなく、獲物に飛びかかる隼 だった。今村は旋回して逃げようとしたが、間に合わなかった。金本の飛燕はがっちりと、今村の機体の真後ろに食らいついた。今村は必死に振り切る手段を講じようとする。
しかし実行するより先に、無情にも無線が入った。
「今村少尉どの、時間切れです」
慇懃無礼なその声に、今村は血の気の引いた顔で飛行時計を見やる。
金本の言う通りであった。
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