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第2章⑯

「大尉どのは整備兵泣かせなお人です」  千葉はぼやいた。 「調布に来て半年もたたないのに。訓練でいったい何度、機体を損傷させたか。無茶な飛行で無線アンテナを折る。尾翼を半分もぐ。主翼の(びょう)を一度に十本以上飛ばして帰って来た時にはさすがに苦言を呈しましたよ。空中分解する二三歩手前です、と」 「それで、聞き入れてもらえたのか?」 「いいえ。毎度『うるさい』と、こちらがビンタを食らって終わりです。もっとも、俺があまりにしつこく言うものだから、めんどうになったようで、最近は向こうも聞こえないふりをすることがしばしばですが…」  愚痴を言う千葉の横顔には、不満というより心配の色が濃かった。  航空機の整備・修理・調整を行う整備員には、様々な種類の人間がいるが、誰にも共通する心情がひとつある。自分が整備した飛行機が、そしてそれを操縦する搭乗員が、無事に帰還することを願う心だ。千葉の愚痴の裏には、訓練時でさえ機体や自身に負荷をかけすぎる黒木への心遣いがあった。  確かに、黒木の操縦は他の搭乗員と一線を画す。普通なら本能的な恐しさが先立ってためらうような急旋回や、耐久速度ぎりぎりの急降下を平気でやる。調布に来た初日に、金本はその一端を目にしたが、その後の訓練でも何度か黒木の飛行を見る機会があった。  千葉が言った通り、金本の目からしても黒木の飛び方は「豪快」を通り越して「無謀」と映ることがしばしばだった。正直な話、「今のは、下手すりゃ墜落してたんじゃないか」と思ったことさえある。  他の追随を許さないその飛び方にはーーー危うさがあった。  ただし。敵の立場になってみれば、黒木の操縦する飛燕は脅威そのものであろう。天空を切り裂くように飛来するさまは、まさに鬼か夜叉だ。黒木につけられたあだ名は、女と見紛う顔や容赦のない性格にのみ、由来するのではあるまい。その激しい戦闘スタイルにこそ、あるのだろう。  金本は想像してみる。  もし自分が敵として黒木に追い回されたら――無事に逃げ切れるとは言い切れない。  だが、それは諸刃の剣だ。敵を一機でも多く食らうために愛機と自分自身を限界まで追い込む。そんなやり方で今まで生き残ってこられたのは、技量もさることながら幸運が働いていたのは間違いない。  運が、ツキが、めぐりあわせが悪ければ――その時こそ、最後になる。  その瞬間になって、後悔しても遅い。金本は自分より技量が高く、経験も豊富な戦闘機乗りたちが、ただ一度のミスでその生涯を閉じた瞬間に何度も居合わせた。  金本はため息をついた。 「危険な飛び方をした時は、俺からも一言、言っておこう」  軽く目をみはる千葉を前に、金本はあらぬ方を見る。 「大尉どのが耳を貸すかどうかは保証しかねるが。死なれては困るし、死なすには惜しい才能の持ち主だろうから……」  自分でも途中から何を言っているのだと思い始める。黒木相手に意見するなど、あとでろくな目に遭うまい。即刻、暴力による報復が返ってくるか、あるいは他の方法で復讐されるに決まっている。  それでも誰かが忠告すべきだと、金本は思った。    特に黒木と同じ戦闘機乗りであり、危険性をよく理解している人間が。そういう意味で自分は適任者だろう。それに今さら、ためらう必要もあるまい。  最悪の初対面を果たしたのだから、この上、嫌われたところでさほどダメージもなかった。

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