34 / 366

第2章⑰

 機体の点検が終わると、千葉は金本に向かっていくつか調整を施した方がいい部分を説明し、手を加える許可を求めた。無論、金本に否やはなかった。 「では今日中に今、言ったところを調整しておきますね。それから…」  千葉はかたわらに控える小柄な整備兵の方を振り返り、その背中をポンと押した。 「その調整が済んだら、金本曹長の機体の整備はこいつが引き継ぎます。中山、自己紹介をしておけ」  呼ばれた整備兵が、おずおずと金本を見上げた。 「……中山春雄(なかやまはるお)です。精一杯つとめますので、よろしくお願いします」  口にした日本語に、かすかななまりがあることに金本は気づいた。中山は、人の反応に敏感なのだろう。教師を前にした小学生のように、萎縮して目を伏せた。 「自分は台湾人です。日本語がおかしい時があります。ご容赦ください」 「…そうか」金本はそうつぶやいたあと、ややあって言った。 「先ほど千葉軍曹と話しているのを聞いていたが。べつに俺は、何もおかしいとも変だとも思わなかった」  その言葉に中山は顔を上げた。童顔だが目には落ち着きがある。年齢は金本や千葉と、そう変わらなさそうだ。  二人のやり取りをそばで聞いていた千葉が言った。 「中山は今まで主に武装(戦闘機に搭載される兵器)を担当してきました。腕の確かなことは俺が保証します」 「分かった。このことは、黒木大尉どのには…」 「すでに大尉どのの承諾は得ています。というより、黒木さんが命じられたんですよ。『金本曹長の機付きの整備班長に、お前の次に腕のいい奴を選んでつけてやれ』って」  思わぬ言葉に面食らう金本に、千葉はにっこり笑った。 「あの人に気に入られたみたいですね」  夕方を迎えるころ、千葉は金本の飛燕の調整を終わらせた。中山をひと足先に兵舎に帰らせると、作業の終了を金本に伝えるため、そのまま「はなどり隊」のピストへ向かう。  その途中で、たまたま公務から戻ってきた黒木と行き会った。  はなどり隊の隊長は口を引き結び、一見して不機嫌そうなのが見て取れた。 「会議はいかがでしたか?」  千葉はあえて尋ねた。黒木は即座に「時間の浪費だった」と吐き捨てた。  帝都の防空戦略を議論する――その名目で戦隊の戦隊長以下、各空戦隊の隊長たちも航空本部へ足を運び参加したのだが、ふたを開けてみれば何のことはない。すでに上層部で定められた路線を再確認することに終始しただけだった。  さらに大本営報道部所属の将校まで来ていて、この苦境を乗り切るべく、国民を鼓舞する方策について一席ぶつという、おまけまでついてきた。 ――今現在、求められているのは大和民族の精神性を体現するような英雄です。そんな英雄が存在することで、国民は自信を取り戻し、開闢(かいびゃく)以来の国難に立ち向かえる心を持ち得るのです……――  威勢がいいだけで中身のない空虚な熱弁を、黒木は右から左に聞き流した。現場指揮官の立場にあるはずの自分たちには発言の機会すらなく、ひたすら聞き役に徹せられた。腹が立たない方がおかしいではないか。  黒木はポケットをまさぐり、折りたたんだわら半紙を手にした。例の報道部の将校が、わざわざガリ版で刷ってきた要綱だ。帰り道、黒木は時間つぶしにそれで紙飛行機を折った。出来はあまりよくなく、千葉に向かって飛ばすと一回転してすぐに地面に落ちた。 「…油ふきか便所紙くらいには使えるだろう。いらなきゃ、捨てとけ」  そう言い捨てて、黒木ははなどり隊のピストの方へすたすた歩きだした。後に続く千葉はわら半紙を拾うと、そこに印刷された文字に目を通した。 『講演者:大本営報道部 小脇順右(こわきじゅんゆう)少佐……』  二三行読み進めたあとで、千葉はそれをつなぎのポケットに放りこんだ。黒木に言われた通りの使い方でいいだろうと思った。  その時、前方を歩く黒木が振り向かずに言った。 「二年前の四月に米軍の爆撃機がこの東京に来た時のこと、覚えているか?」 「ええ。東京だけでなく、川崎や名古屋、それに神戸もやられましたね。被害は小さかったようですが…」 「あの時は空母から発艦したらしい。一度きりでそれからしばらく、奴らは来なかった。だが今年の六月に、久しぶりに北九州に姿を現しやがった」 「………」 「日本海軍はマリアナ沖で惨敗した。サイパン、グアム、テニアンも米軍を前に陥落した。アメリカ人がバカでなければ、今後はサイパン島から爆撃機を飛ばして日本を攻撃する」  黒木は夕闇の迫る空を見上げた。 「この東京にも、遠からぬ内に爆撃機が再び飛んでくる。必ずだ」

ともだちにシェアしよう!