35 / 370

第2章⑱

 「はなどり隊」のピストは、飛行場内の一角に建てられた木造平屋の簡素な建物である。  搭乗員たちは地上に入る時、日中の多くの時間をここで過ごす。昼食時ともなれば、木机と折り畳み式の椅子を広げて食事をするし、壁の一面には仮眠用の寝台が用意されていて、眠りたければ自由に使うことができた。さらに室内のそこかしこには、空いた時間に使う私物がいくつも放置されていた。一体誰が持ち込んだのか、将棋盤や碁盤のような定番のものから、卓球のラケット、野球のバット、果てはアコーディオンまであった。  今、ピスト内には八割方の搭乗員が集まっていた。隊長の黒木から、夜の七時までに自分が戻ってこなければ解散していいと言い渡されている。それまで、めいめいの方法で時間をつぶしていた。  作業の邪魔をしては悪いと思った金本は、あのあと千葉たちと別れ、ピストに戻ってきていた。もっとも、取り立ててやることがあるわけでもない。隊員たちとも没交渉だ。  金本は椅子を持って窓辺に座り、タバコをふかしはじめた。それからおもむろに手帳を取り出すとえんぴつで何やら書き込みはじめた。  その様子を、副隊長の今村が少し離れたところから見ていた。 「…今村。言いにくいんだが」  対面に腰かける工藤の声で今村は我に返る。時間つぶしにと、二人で将棋をさしている最中だった。 「何だ?」 「そこにさすと二歩だ」 「あ」  言われるまで気づかなかった。今村はぶすりとした顔で、置きかけた「歩」の駒を取り上げる。他の場所に置くのかと思いきや、そのまま立ち上がった。 「ちょっと待ってろ」  不審がる工藤を残し、今村は窓辺に座る新参者の曹長の方へ向かった。  金本は今村が近づいてくるのを目の端に認め、動かしていた手を止めた。今村は、金本が手帳を閉じるのではないかと思った。しかし金本はそうせず、いぶかしげに今村を見上げただけだった。 「何かご用ですか?」 「いや、別に。熱心に何をしているのかと思って…」  今村は手帳にさりげなく目を走らせた。  おそらく、雑記帳のような使い方をしているのだろう。開かれたページの左側には、なかなか達筆な字で漢字が数行にわたって書きつけられている。対照的に右側のページには、乱雑に曲線が引かれ、所々に×印がつけられていた。ただの落書きにしか見えない。  今村は内心、首をかしげた。金本の方を見る。だが、この年上の曹長は自分から説明する気はないらしく、口を閉じたままだ。腹立たしい限りだ。  いつの間にか、室内の隊員たち全員が二人の方をうかがっていた。その視線を感じながら、今村は言った。 「なあ、金本曹長。貴様、アリランは歌えるのか?」  大きな声ではなかったが、金本には確実に聞こえた。そして他の隊員たちにも。  金本の顔が強張るのが、今村には分かった。だが、それもわずかな間のことだった。  金本が今村を見すえた。にらんだわけではなく、ただ真っ向から視線を合わせただけだ。それでも、思いがけず鋭い眼力に今村は気圧された。 「…歌えますよ」  金本はそっけなく言った。 「いずれ機会があれば、お聞かせします」

ともだちにシェアしよう!