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第2章⑲
六時を回った頃、はなどり隊のピストに黒木が戻ってきた。千葉と中山のことでひと言、礼を言うべきだったが、金本はすっかりそのことを失念した。思い出したのは、ピストを出て飛行場から下宿へ戻る途中のことだ。
――貴様、アリランは歌えるのか?――
アリランは朝鮮の民謡だ。
今村は、金本の生まれを知って揶揄 したのである。
今村との会話の後、金本は誰とも口をきかなかった。甲羅に身をひそめる亀のように、周りに注意を向けながら、自分の殻に閉じこもっていた。あの事件以来――嫌なことやつらいことがあると、金本はそうやってやり過ごすのが常だった。
胸の内にわだかまる様々な想いを、もう長いこと誰とも話したことはなかった。
――話してごらん――
遡 ることができるもっとも古い記憶。家の庭に植えられたモクレンの下で泣きじゃくる自分に向かって一生懸命、語りかける兄の姿だ。庭で、納屋で、あるいは近所を流れる小川の橋の下で縮こまっている自分を見つけ、家に連れて帰るのが、すぐ上の兄の役目だった。
――話してごらん、蘭洙 。黙っていたら、ぼくもどうしていいか分からなくて困ってしまうよ――
上から順に仁洙 、光洙 、蘭洙 の三人兄弟。長兄の仁沫とは年が離れすぎていて、あまりなじまなかった。そのかわり次兄の光洙とは、幼い頃から何をするのも一緒だった。
父や長兄から学ぶより、はるかに多いことを光洙から教わった。
刀子でうまく木を削るやり方も、訓民正音 の綴り方も、そろばんを使って計算する方法もーー。
そして自分たちの生まれた朝鮮が、かつて日本の領土ではなく独立した国であったことも。
――蘭洙 ――
最後にその名前を呼んでもらったのは、いつのことだったか。
この数年、人前ではずっと大日本帝国陸軍の航空兵「金本勇 」だった。
朝鮮人「金蘭洙 」を、殻の中に閉じ込めながら。
「……この身が死んで、また死んで 」
金本は――蘭洙はつぶやいた。次兄がいちばん好きだった詩。光洙がなぜこの詩を愛していたか、その理由を本当の意味で理解した時、もう彼はこの世にいなかった。
「一百回、死んだとしても ――」
吟じる声は夜陰に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
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