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第3章②

 小脇が対敵諜報部隊(C I C)に呼び出された理由は主にふたつあった。  ひとつには、彼が大本営陸軍報道部に所属していた時の活動が注意を引いたからだ。小脇は一九四三年から四四年にかけて、各地で開催された座談会や有識者の集まりにおいて、精力的に講演を行っていた。そこで戦局を論じ、聴衆に向かって「最終的な勝利」を信じて徹底抗戦すべきことを繰り返し説いたという。  さらに大本営陸軍報道部という自らの部署を後ろ盾に、彼は大手新聞社の記者たちと親交を重ねた。それだけならまだしも、掲載される記事にあれこれ注文をつけ、要望がすんなり通らぬ時は、恫喝(どうかつ)まがいの圧力をかけたという。そのため小脇は陸軍の一少佐でありながら、軍部と報道関係者に少なからぬ影響力を持っていた。参謀第二部(G 2)は彼を隠然たる力を持った極右派の軍人とみなし、占領軍にとって不利益となる活動に走らぬか、探りを入れようとしたのである。  もうひとつの理由は、軍用機の隠匿疑惑にまつわるものだ。終戦の年、小脇の属す第六航空軍は福岡に本拠を置いていた。連合軍の本土襲来を見越して、九州各地の飛行場にかなりの数の軍用機が集められていた。その大部分はGHQによる占領統治の開始とともに、焼却されるなどして廃棄されたのだが、一部が密かに山林などに運ばれて隠されたという噂があとを絶たなかった。真相を巡って調査が行われ、事実を知っている可能性の高い人物として小脇の存在が浮上してきたのである。  出頭した小脇順右に対する尋問は、実に三ヶ月間に及んだ。  そして当初の予想に反し、元陸軍少佐は尋問に対して実に協力的だった。 「そちらが調べ上げられたことは、間違っておりません」  戦中の講演活動について訊かれた時、小脇はたいていの場合、そう答えた。一方、軍用機の隠匿の可能性については、これを丁寧な口調で、しかし徹底的に否定した。 「私は一軍人として、日本を勝利に導くために最善を尽くしたまでです。日本が戦争に敗れた今、何も言うことはありません。また、航空機が隠されたなどとは、事実無根の噂です。少なくとも私が知る限りでは、そんなことがなされた記録はありません」  小脇は今後、公の場からは完全に身を引くつもりであり、活動の意思がないことを繰り返し強調した。最終的に、参謀第二部(G 2)は彼を自由の身にして問題なしと判断したのである。  小脇は東京から栃木に戻った後、ほどなくして西多摩郡の山村にある妻の実家へ引っ越した。そして今年の春になって、その村の神社の宮司に就任したのである。  その三ヶ月後に、何者かによって殺されることになるとは知らずに。  小脇が取り調べを受けていた頃、クリアウォーターは別の事件を追いかけていた。だから小脇の尋問にはタッチしていない。クリアウォーターが元陸軍少佐の名前を知ったのは、彼が釈放された数ヶ月後のことだ。例の軍用機の隠匿が事実であるかどうかの調査報告書の中で、小脇の名前が何度か言及されていたのである。  もっとも報告書内で導き出された結論--小脇の証言を全面的に取り上げたもの―ーについて、クリアウォーターは少なからず不満を覚えた。調査に費やされた時間が短すぎるし、調べ上げたことも表層的なものにとどまっているという印象がぬぐえなかったからだ。  しかし当時は自分が抱える仕事が増える一方で、他人の仕事に口をはさむ余裕もなかった。ただ嫌疑をかけられた陸軍将校たちの名前とその階級は、記憶の隅にとどめておいた。部下のジョン・ヤコブソン軍曹には及ばないが、クリアウォーターの記憶力もそれなりの水準にある。  だからこそ、W将軍から小脇順右の名を聞かされた時、すぐに思い当たったのである。

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