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第4章①一九四四年十月
――朝夕の冷え込みが厳しくなった。
金本勇 曹長に割り当てられた「飛燕」を見上げ、整備班長の中山春雄 はそう思った。飛行場は朝もやの中で静まりかえり、まだ眠りから覚めていない。しかしあと十分もすれば、起きてきた兵隊たちでにぎわい始める。
中山は起床ラッパが鳴ると同時に兵舎から飛び出してきた。前にいた別の飛行場で一度集合に遅れて上官にしたたかに頬を張られて以来、絶対に遅刻しないようにと身体が自然と起床十分前に覚醒するようになった。今では早朝のこの一人の時間が、一日の間で自由を感じられる貴重な機会になっている。
まもなく部下の整備兵たちと共に、他の機体を担当する兵隊たちもやって来た。それまで静かだった飛行場にエンジンの始動音が次々と響き渡る。それから、各機のプロペラが一気に回転を始めた。
毎朝のお決まりの仕事 。一斉暖機運転である。機体を十分に暖め、いつでも発進できる状態にした後、中山は点検項目をチェックして問題がないことを確認していった。
機体の状態は良好。作業を終えてほっと息をつく。中山は今の仕事が気に入っていた。もっとも、千葉登志男 軍曹から新任の曹長の機付班長を務めるよう命じられた当初は、不安しかなかった。尊敬する千葉に評価してもらえるのはうれしかったが、班長ともなれば搭乗員と一対一で向き合わなければならない。ただでさえ怖い。その相手が叩き上げの古参兵ともなればなおさらである。
おまけに金本勇曹長は、見るからに近寄りがたい雰囲気の男だった。
聞いた話では年は数えで二十四と中山よりふたつ下だったが、他人が見ればとてもそうは思わないだろう。体格がよく、飛行服を着ていても腕や足によく筋肉がついているのが分かる。調布飛行場に来た初日、激昂した黒木大尉の前に立ちふさがり、片腕で行く手を阻めたのも、さもありなんといったところだ。
加えて、金本曹長はちょっとありえないくらいに、身のこなしにスキがなかった。誰かが近づこうものなら、たとえ離れた所からでもすぐに気づく。時々、この人の背中には目がついているんじゃないかと思うことさえあった。千葉に聞くと、いくつもの戦闘を経た古参の搭乗員の中には勘の鋭い人間が少なくないという。無意識の内に周囲に注意を向け、いち早く危険を察知するのが習いになっているのでは、という話だ。
そんなおっかない相手との付き合いも、ひと月経つ頃には大分慣れてきた。
金本は寡黙で、用事がない限り自分の方から口を開くことがない。中山が見る限り、訓練以外の時間はたいてい一人で過ごしているし、他の搭乗員や整備員も自分たちの方から金本に話しかけることはめったにない。中山を除けば、例外は二人だけ。はなどり隊の隊長の黒木と、整備班の事実上の長である千葉くらいだ。
そんなぶっきらぼうな男だが、金本にはほかの人間にない美点があった。めったなことで、暴力を振るわないことだ。中山に対しても、金本は一度も手を挙げたことがない。「制裁」という名の暴力が日常的に振るわれる軍隊の中にあって、そういう人間はごく少数派だった。
そして金本の機付になってからほどなく、中山のもとにひとつの噂が伝わってきた。
――金本勇は朝鮮人だという話だ――
それを耳にした中山は、最初に千葉に引き合わされた時のことを思い出し、合点がいった。金本が中山の日本語がおかしくても気にしないのは、彼自身にとっても母語でないからだ。
金本が日本人の中で苦労してきたであろうことは、容易に想像がついた。
そして中山は、この近寄りがたい男に対して前より少し親近感を抱くようになった。
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