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第4章②

 金本が調布に来て、二ヶ月が経とうとしていた。  その間にも、日本を取り巻く戦況は悪くなる一方であった。連合国軍は、日本が最終防衛線と定めるフィリピンへの攻撃を加速させ、周辺海域を行き交う日本の輸送船を次々と沈めるとともに、連日空襲を行っていた。特に九月二十三日の空襲では、日本の通信網の不備から当地に駐屯していた航空隊に大きな被害が出た。その欠は、内地から補填することになった。金本のいる調布飛行場からも飛行戦隊がひとつ、フィリピンに派遣されることが決まり、すでに飛び立っていた。  そんな中、「はなどり隊」の訓練はいよいよ厳しさを増していった。ある日の午後。金本は自身に割り当てられた「飛燕」の翼の下で、地面をにらみながら考え事にふけっていた。  整備に精を出す中山は、金本に気づいても目礼しただけで声はかけてこなかった。童顔の整備班長は、機体のことで相談や報告を持ってくる時以外、金本のことを放っておいてくれる。余計なせんさくをしてこないのは、金本にとってありがたい話だ。その点で、千葉はいい人間を選んでくれた……。 「おい。こんなところで休憩か?」  頭上から降ってきた声に、金本はしぶしぶ顔を上げた。少し前に、声の主がこちらに近づいてくるのを目の端にとらえていた。多分、自分に用がある。そう思いつつ、予想が外れるのを期待していたがーー残念ながら、期待外れに終わったようだ。  「はなどり隊」の隊長、黒木栄也(くろきえいや)大尉が暇を持て余した猫のような目つきで、金本の方を見下ろしていた。  千葉との約束を金本は忘れていなかった。黒木の危険な飛行について、やめるべきだと忠告をすること。ーーだが、いまだに実行にはうつしていない。  あの日、隊のピストで今村に暗に揶揄されたことが、少なからず尾を引いていた。 ――忘れるな。俺は金光洙(キム・グァンス)の弟なんだ。  あの事件で拘束され、解放された後、金本は二週間以上入院した。そして傷が癒えたあと、当時陸軍の主力戦闘機であった九五戦と九七戦の操縦を習得すると、直ちに前線の漢口へ向かうよう命令された。今から思えば、それは最善の待遇だったと言える。   そこでは、内地で起こった事件を知る者はまれだった。金本が朝鮮人と気づく者はいたが、それ以上のことを知る人間はいない。ただの航空兵として出撃し、戦い、生き残れば、それでよかった。南方に派遣されたその後も――。  だが、今は違う。    ここは内地だ。もっと気を引き締めるべきだ。些細なことがきっかけとなって、過去が露見すれば――どんな仕打ちが待っているか、分かったものではない。  上官に意見して機嫌を損ねるというのは、どう考えても避けるべき事態である。  そういうわけで、金本はいまだに黒木に対して忠告できずにいた。  その黒木は最近、なぜかことあるごとに金本のところにやって来る。それも十の内、八九は別に金本に頼まなくてもいいような用事でだ。やれ訓練開始前に黒板とチョークを用意しておけとか、卵がたくさん手に入ったからピストで茹でておけとか……。  一度、散髪を頼まれたことがあったが、こればかりは丁重に断った。この戦隊では隊員同士髪を切るのがならわしだというが、金本は今まで他人の髪を切ったことがない。自分の髪なら失敗しても笑い話で済む。しかし黒木相手にそれをやったら――結果はあまり想像したくなかった。    どうにも、雑用を押しつけて面白がっているとしか思えない。  隊内の「嫌われ者」にされたのもたいがいであるが、まだあれは意味がある(と金本は思っている)。だが度重なる雑用の言いつけに至っては、意地悪以外の何ものでもない。  以前、黒木が金本を気に入ったようだと、千葉が言っていたが。まったく見当違いいいところだ。 ――……こういう状態を、日本語で何と言ったか。 「目をかけられている」? 否――「目をつけられている」だ。  そもそもの出会いからして、黒木に目をつけられてしまった。最悪の失策である。  それが日を追うごとにだんだんとひどくなっていく気がした。

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