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第4章③

 そんな金本の内心などおかまいなしに黒木は笑った。大輪の花が開くような(あで)やかさだが、警戒する金本は見とれたりしない。 ーー一体、何が面白いのか、さっぱり分からない。  黒木の目が、固い顔の曹長から彼のうずくまる地面の方に向けられる。「羅刹女」と陰で呼ばれている大尉は、そこで軽く眉根を寄せた。  金本の足元には、乱雑な筆致で矢印や×印が描かれていた。もし、この場に今村少尉がいれば、先日、金本が手帳に書きつけていたものと同じだと言ったかもしれない。 ――なんだ、それは?――  てっきり、そんな疑問をぶつけてくると金本は思っていた。しかし――。 「……へえ。面白いじゃないか」  黒木は飛燕の翼をつかんでひょいとかがみこむと、金本の対面に腰を下ろした。 「午前の接敵戦闘訓練か」  ずばり言い当てられて、金本はちょっと驚いた。こうもあっさり看破されるとは思ってみなかった。 「食う側はお前。食われる側は今村だったな。そういや今村のやつ、お前に何連敗中だ?」 「覚えていません」  金本はそっけなく言った。というか、そもそも数えていない。はっきりしているのは、調布に来て以来、模擬戦闘で誰にも負けていないことだけだ。とはいえーー 「今村少尉どのは、ずいぶん上達しましたよ」  皮肉でなく金本は言った。今村だけではない。「はなどり隊」のすべての隊員が、夏の終わりから秋にかけて、着実に技量をあげてきている。それが偽らざる感想だった。  同時に金本に対する隊員たちの敵愾心も、日を追うごとに高まる一方のようだった。 ――ただ一度でいい。金本曹長を出し抜いて、鼻を折ることができたやつには、他の全員のカンパで「菊正宗(きくまさむね)」を贈呈してやる――  そんな取り決めさえされていると、整備班の千葉が笑いながら教えてくれた。  金本にとっては、まったく笑い事ではなかった。その内、誰かに闇討(やみう)ちにされそうだ。 「――それで。いつもこうして絵に描いて、自分の飛び方をおさらいしているのか?」  金本は黒木の問いに、どう答えるべきか迷った。返答次第では、この会話を早々に切り上げることもできる。相手は何といっても黒木だ。うかつなことを口走って、またぞろ意地の悪い仕打ちを被らないとも限らない。  しかし――この時は珍しく、もう少し話してみたいという気持ちの方が(まさ)った。 「……そうです」金本は答えた。 「習慣なんです。訓練にせよ、実際の戦闘にせよ、こうして図に描いて、もっといい飛び方ができたんじゃないかと考える。次に似たような状況になったら、そのましな飛び方ができるように、頭の中であらかじめ整理しています」  そこまで言って、金本は黒木の方をうかがった。繊細な造りの顔には、幸い金本をバカにするような様子はない。それを確かめた上で、思い切って尋ねた。 「大尉どのも、同じようなことをしているのではないですか?」  その言葉に、黒木がまじまじと金本を眺めた。それから「当たりだ」とつぶやいた。 「実は驚いたんだ。俺以外に、そんなことをするやつがいるとは思ってもみなかったから」  それは金本の側も同じだった。  中国大陸で、あるいは南方で、数多くの戦闘機の搭乗員たちを見てきた。その中には熟練の技量で、多くの敵機を撃墜してきた者も少なくなかった。しかし、経験した戦いを振り返り、そこから何か有益な教訓をくみ取って、次の戦いに生かそう――そんな考えを持ち、なおかつ実践している人間に、金本はついぞお目にかかったことがなかった。

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