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第4章⑤

 黒木の搭乗する「飛燕」の整備を終えた千葉は、戦隊本部にほど近い防火用水槽のそばで、タバコの「光」に火をつけ一服していた。  用水槽を囲む柵の中では、ガアガアとアヒルたちがにぎやかに合唱している。調布飛行場でいつの頃からか飼われ始めた鳥たちは、愛玩動物の地位を享受しているせいか、危機感は乏しい。だが食糧難がいよいよ深刻になれば、いずれ搭乗員たちの胃袋におさまる運命かもしれない。  アヒルたちを眺めながら、千葉は「飛燕」のことを考えていた。  しばらく前、千葉は黒木からある相談を持ちかけられたのだ。 「飛燕の上昇時間を、今より短くすることはできるか?」  聞かれた千葉は、少し考えて答えた。 「理論上は可能です」  飛燕の欠点のひとつは、その重量にある。搭載する機器の一部を下ろして軽くすれば、今よりも短い時間で目標高度に到達することはできる。 「とはいえ。戦闘機同士が戦う高度――三〇〇〇から五〇〇〇メートルに上がるのなら、短縮は数十秒がせいぜいでしょうね」 「高度一〇,〇〇〇なら?」  千葉は顔をしかめた。 「…まず上がること自体が困難です。一万メートルは飛燕の上昇限界高度です。実際には燃料や機関銃と弾薬を積み込んでいる上、上空は強い偏西風が吹いています。現実問題として、そこまでたどり着ける機体が限られてくる。まして、その高度でまともな戦闘を行うのは自分は無理だと思います」 「…そうか」  会話はそこでひとまず終わった。  しかしその日以来、千葉は暇さえあれば、その問題について考えを巡らせていた。 ――この東京にも、遠からぬ内に爆撃機が再び飛ぶだろう。必ずだ。  あの日、黒木が言ったことはいずれ事実になる。爆撃機はおそらく、援護の戦闘機を伴ってやって来る。そうなれば、調布を含む関東一帯の飛行場に属す飛行戦隊が邀撃(ようげき)に上がることになるだろう。少しでも早く、わずかでも敵に対して有利な位置に待ちかまえることができれば、それだけ味方の損傷を減らすことができる。  それを思えば、たとえ数十秒であっても、手に入れたいのが人情だ。 ――上空で使う酸素ボンベは通常、三本載せているが、あれを一本減らせば、どうだろうか。しかし他は……。  重くとも、戦闘に必要な銃器の(たぐい)を外すわけにはいかない。離陸時に搭載する燃料を減らすのもひとつの手でが、それでは今度は滞空時間が制限されてしまう。 「うーん……」  千葉が思案していると、突然それまで柵内を規律正しく集団行動していたアヒルたちが、なぜかいっせいに騒ぎ出した。 「――うるさい!」  聞き覚えのある声がすぐ近くで上がる。見れば、「はなどり隊」の隊長をつとめる美貌の青年が、半長靴で砂礫を蹴飛ばしながらやって来るところだった。 「あほ面の鳥どもめ。まとめて鍋に入れて、食っちまうぞ!」  黒木の声にも態度にも、不機嫌さがにじみ出ていた。千葉は上官がやって来た方向に目をやった。そして遥か彼方に整備中の「飛燕」とその翼の下で休む男の姿を見出し、「ああ」と納得した。 「また金本曹長のところに、ちょっかいを出しに行かれたんですか?」  黒木は憎々しげに千葉をにらんだ。千葉はどこ吹く風だ。「はなどり隊」の搭乗員と整備員の中で、このひょろりとした男は、隊長のひとにらみに動じない唯一の人間だった。  千葉の前までやって来て、黒木は拳を固めた。しかし、殴るには至らない。過去に気に入らないことがあった時、黒木は千葉に何度も制裁を加えた。だが、一見おとなしそうな容貌と裏腹に、千葉は自分が正しいと思えば絶対に折れない。殴られて、その場はひとまず引き下がっても、あとで必ずむしかえしてくる。しまいに、 ――お前を殴っても、ちっとも面白くない。  最後に平手打ちをくらわせた時、黒木はそう言った。四、五ヶ月前のことだ。以来、黒木は腹が立っても、千葉にだけは手を挙げなくなった。あるいは無意識の内に、この年長の整備兵の技術の高さに加え、人柄にも敬意を払うべき点を認めたからかもしれない。  千葉は黒木に向かって、短くなった煙草をかかげた。 「一度、金本さんを酒の席にでも誘ったらどうですか。そっちの方が、よほど喜ばれると思いますよ」  黒木は口を引き結んだまま、千葉の存在などはなから眼中にないように去って行った。  その後ろ姿に、千葉は苦笑を向けた。 ――やれやれ……。  黒木の無茶な操縦に、千葉は相変わらず頭を痛めている。だが、黒木の中にある子どもっぽくて、ある面で不器用なところも含め、千葉は彼のことが好きだった。また、寡黙で武骨だが朴訥とした人柄の金本のことも好ましいと思う。  そして本人は隠しているつもりであるが、明らかに黒木も金本のことが好きだし、気に入っている。それは間違いない。  ただし、黒木が金本に抱いている「好き」はおそらく、千葉が二人に対して感じる「好き」とは違う。そのことに、千葉はしばらく前から気づいていた。 「――こればかりは。なるようにしか、ならないだろうなあ」  ひとりごちた千葉に対し、アヒルたちがまるで同意するように「ガガガ」と鳴く。千葉は口元をゆるめる。それから煙を吐くと、再び「飛燕」の軽量化の問題に思考を戻していった。

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