54 / 330

第4章⑥

 その数日後、ちょっとした事件が起こった。  その日も金本は訓練を終えると、隊員たちがたむろするピストには戻らず、自分に割り当てられた「飛燕」の翼の蔭で身体を休めていた。  今日、実施したのは上空での射撃訓練だ。弾道は問題なし。左右の一二.七㎜機関砲から放たれた曳光弾(えいこうだん)は、すべて照準器で狙ったところへ飛んでいった。地上に戻った金本がそのことを中山に伝えると、いつもはおとなしい整備班長の顔が、少し誇らしげに輝いた。  その中山は今、ほかの「飛燕」の整備に先ほど駆り出されている。  ひとりくつろぐ金本は、いつの間にか黒木のことを考えていた。  この翼の下で話をして以来、「はなどり隊」の隊長からの雑用の言いつけは、ぷつりと途絶えた。あの日、黒木の機嫌を損ねたので、またぞろ何かあると思っていた金本にとっては拍子抜けだ。  ただし――なぜか知らぬが、黒木の注意が今まで以上にこちらに向けられるようになった。  金本が視線を感知してその方向を見ると、必ずといっていいくらいそこに黒木がいる。しかも金本に気づかれたと分かった瞬間に、決まって顔をそむけるか、その場を立ち去るときていた。 ――……一体、何がしたいんだ?  正直、訳が分からなかった。面と向かって皮肉や嫌味を言ってくれる方が、気分的にまだ楽だ。黒木の妙な態度の原因が分からず、金本は連日、居心地が悪かった。 ――それにしても、本当に顔だけはきれいな男だな。  最近、黒木を見るたびにそう思う。金本は普段、他人の顔の造作など気にも留めない。だが「はなどり隊」の隊長に限っては例外だった。  全体的に黒木は顔の彫りが深いが、それでいてひとつひとつのパーツが繊細だ。特に、目の形が美しい。日本人離れしたその顔は昔、美術雑誌の口絵で見た古代ローマの彫像を思い起こさせた。きっと、十代の頃からもてたに違いない。そういえば、もう結婚はしているのだろうか。していてもおかしくない年齢だが、その手の話を聞いた覚えはない。  今さらだが――金本は黒木について、個人的なことをほとんど知らなかった。  それは別に黒木に限った話ではない。毎日のように顔を合わせる「はなどり隊」の隊員たちが、どうして航空兵となり、この調布に集うに至ったかも知らなかった。 「………」  知って、どうなるというものでもない。搭乗員として戦地の空を飛び始めてから六年。本当の意味で、心を通わせた相手は多分ひとりもいなかった。  そのことに改めて気づき、金本は急に今まで感じたことのない疲労を覚えた。  それを打ち消そうと目を閉じると、今度は故郷の山野とそこに残してきた両親のことがまぶたの裏に浮かんだ。 ――帰りたいな。  いつになく、強い望郷の念が金本をとらえた。だが、今の戦況では、朝鮮への帰郷は到底許されない。この戦争が終わりを迎える以外に、金本が郷里へもどれる見込みはなかった。  たとえ――自分がいつまで生きていられるかすら、保証がないとしても。 ーー(あした)には紅顔ありて、(ゆう)べには白骨となるーー    朝には生きていても、夕方には骨となっている。空で戦う航空兵の運命はそういうものだと教えられてきた。戦地で、一緒に飛び立った搭乗員が「未帰還」となり、永久に戻ってこなかったーーそんな場面に、金本は幾度となく居合わせてきた。  生きて、再び故郷に帰りたい。  だが、それがかなわない夢となることも、とっくの昔に諦念とともに受け入れていた。  だから今はーーせめてアメリカ軍の手が及ばぬことを、祈るくらいしかできなかった。  ……その時、金本はまた視線を感じた。  またぞろ黒木かと思って顔をめぐらす。そこで、かすかに眉をひそめた。近づいてきたのは「はなどり隊」の隊長ではなかった。 「――ひまか、金本曹長?--なら少し、来てもらえるか」  副隊長の今村少尉と、それから今村より一回り身体の大きい工藤少尉だった。

ともだちにシェアしよう!