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第4章⑧

――一時間後。  掩体壕の裏のあちこちに、土ぼこりで汚れた男たちがへたりこんでいた。皆、黒木相手にこてんぱんに叩きのめされた「はなどり隊」の搭乗員たちである。金本は開いた口がふさがらなかった。何かあると、黒木がすぐに拳に訴えることは知っていたが――まさか、剣道がこれほど強いとは思ってもみなかった。  強い上にこの男ときたら、情け容赦というものがまるでなかった。 「――まいった! まいりました!!……自分の負けですから! ちょっと、やめてくださいって……!!!」  降参した相手(今村ほか)に対して、黒木は追撃して平然と足蹴りを食らわせた。そうして地面に倒れて、やっと解放してやるというありさまだ。今やこの場で、その洗礼を受けていないのは、金本だけになっていた。 「――残りはお前だけか」  立て続けに竹刀を振るっているにも関わらず、防具の下の顔は軽く上気しているだけで、息切れの兆候すら見られなかった。 「どうする? さっき、ずいぶんとやられていたようだが。やるか?」 「――僭越(せんえつ)ながら」 そう言ったのは、今しがた黒木に一本取られた工藤だ。 「曹長は、今日は大事を取った方がいいです」  負傷した身の金本が黒木の相手をすれば、今度こそ医者が必要になりかねない――そんな心配をしてくれたらしい。思いがけないその温情を、金本はありがたく思った。  だが――。 「…お相手します」  金本はすっと立ち上がった。 ――いくらなんでも。やりすぎだ。  黒木の度を越した暴力に、金本の中にある何かが沈黙していられなくなった。義憤というべきか。それとも単に、みすみす不戦勝で黒木に勝ちを譲りたくなかっただけか。とにもかくにも、このままおとなしく引き下がる気になれなかった。  黒木はそんな金本を面白がるように、防具の向こうで薄く笑った。 「(てぇ)、抜くなよ」 「……承知」  金本は口を真一文字に引き結び、竹刀を構えた。  そして、流れるような足さばきで一気に黒木との距離を詰めた。 速い。先刻、工藤と対戦した時以上の鋭さと速度をそなえた一撃を、黒木は防いだ。しかし、顔からはさすがに余裕が消えた。つばぜり合いから、両者は距離を取る。そこから一進一退の攻防が続いた。  周りの隊員たちは、二人の打ち合いを声もなく見入った。普通の試合ではない。それは限りなく実戦に近い――斬り合いだった。 「……おい。あの朝鮮人。大尉どのと互角に打ち合っているぞ」  今村が工藤に小声で話しかけた。 「さっき、お前に負けたのに」 「…油断していたんだろう。あるいは……わざと手を抜いていたのかもしれん」 「はあ? 一体、どういう理由で……」  今村の語尾に、わっという複数の声が重なった。  黒木は強い。しかし体格では金本の方が有利だ。一寸半(約四.五センチ)ほど背が高いし、腕も太い。技量にほとんど差がない以上、最後にものを言うのは腕力だ。  金本の放った一撃を受け流しそびれ、黒木の手から竹刀が弾き飛ばされる。見ていた搭乗員たちは一様に思った――勝負あった、と。  だが、彼らの隊長はどこまでも人の意表を突く男だった。後に目撃者のひとりは語っている。その時の黒木の動きは、田舎の悪童もかくやという鮮やかさだったと。 竹刀を落とした黒木は、そのまま金本に飛びつき、防具の面に手をかけた。  組み打ち――正式の試合では反則とされる技だ。  防具の下で、黒木は(わら)った。だが、面ごしに相手の顔を見た途端、その表情が固まる。  金本のいかめしい顔には驚きの欠片すらなかった。  まっすぐに黒木を見すえる目は、  ――そうくると思った。  と言っていた。  次の瞬間、黒木の防具の中で天地がひっくり返った。そして気づいた時には、金本の手で地面に押しつけられていた。 「―――この!!」  黒木はまだあきらめない。猛然と金本に手を伸ばす。そのしぶとさ、というよりあきらめの悪さに、さすがに金本もかっとなった。  絡み合う両者は、お互いからほとんど同時に面をはぎ取った。素顔が露わになる。  黒木の顔は朱色に染まり、大きな瞳には殺意すれすれの敵意が燃えていた。一方の金本も似たようなものだった。いかめしい顔の中では まなじりが怒りでつり上がり、口から今にも歯ぎしりが聞こえてきそうだ。黒木も含め、はなどり隊の搭乗員の誰もが、こんなに感情をあらわにした金本を見たことがなかった。 そこにいたのは、実力のある大尉でも歴戦の曹長でもない。二十歳そこそこの、血気盛んなただの二人の青年だ。この時、どちらも相手に一発入れようという闘争意欲が、完全に自制心を上回っていた。  もはやルールもあったものではない。ただのつかみ合いのケンカだ。 「――おい、とめろ!」  今村の一声で、隊員たちは我に返る。しかし、動くのが少々遅きに逸した。  黒木の指の爪が金本の頬をえぐり、ひっかき傷をつくる。その手をのけようとした金本の腕が勢いづいて黒木のアゴをしたたかに打った。  これには、黒木もたまらず地面に倒れた。視界がぐらりと揺れる。  そのまま、黒木は気を失った。

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